障害、という言葉の是非は置いておいて。現代社会で生活を行う上で浮き彫りになるかどうかが基準なのかなぁとか勝手に思っています。
個性、生まれ持った性質。それは誰もが得手不得手があるような話で。ただそれが、現状構築された社会で活動するという物差しで見て、どう出るかみたいな。
色んな人が居るものですから、そこに当たり前の押しつけがないように生きたいところ!
作者からの返信
結局、その特性が今の社会で生きることに特に問題や痛みやらを生み出さないのであればそれは障害ではないと思います。
社会の物差し、そうなんでしょうね。
色んな人がいるのが当たり前で、色んな人が自分の身近にいる時におそらく問題として浮き彫りになってくるんですよ。
本人の苦しみと周囲の苦しみは完全には相いれないですし。適度な距離感というものは確実に必要で、確実に誰もが100%ハッピーな現実というものは滅多にないことが現状ですね。
みんなが60%のハッピーくらいで満足できるのであれば、それもいい気がしますけど。
世界や社会を大きな「工作機械」だとするなら個人というのはその歯車です。あまり褒められた考え方ではないのかもしれませんが、人がコミュニティを築いてシステムを稼働させていく限り、そういう一面があるのも事実だと思います。
ではそんな中で、規格が合わずどうしても周りと噛みあいが悪い歯車はどうすればいいのか。
一般常識や同調圧力という「ヤスリ」でその身を削るか、それとも工作機械を設計し直すのか。そもそも組み込みはしないのか。
合理的な機械を構築するには均一で汎用な歯車ばかりがあればいい。
けれど、ふと思います。
その点、ピタゴラ装置ってすごいよな。歯車どころか、定規やビー玉が大活躍してるんだもん。
だからこそ面白い。
あんな風にユーモアあふれる世界があっていいのかもしれませんね。
私はバラのタルトを食べました。
完全にト〇レの芳香剤。
作者からの返信
歪な歯車でもそのまま使っていければいいのかもしれません。
というか、そもそも歯車を使わずに生きていけるような豊かさを目指しているのが社会の目的だったような気もしますが、それはそれでどうなんだろうという気もします。
資本主義では難しいんだろうなあと思います。
けど、結局昔の社会が幸せだったかどうかなんて比べることはデータでしかできないですけど。個人の幸福度という尺度を持ち出せるのも個人主義と化した現代だからこそできることですし。
とはいえ誰もが同様の支給を受けられる共産主義的な社会というのも、結局同様の水準を求められるでしょうし、難しいところですね。
ピタゴラ装置みたいな、なんでも使える世界であればいいなあとも思いますが、でもピタゴラ装置で使っている定規やビー玉だって、多分かけたり割れたりしているものは使わないんだろうなあ……とか邪推をしてしまいます。
バラのタルト美味しそうですね!
ありがとうございます食べる気が無くなりました!