19話 アグネス・モンタークの憂鬱

 私の名前はアグネス・モンターク。

 淑女の酒宴で働くメイドで副女将、そしてかつては王室で働くメイドでもありました。


 ただ色々ありまして王太子殿下に退職届をお渡しして辞めたのだけど、まさかリーリエまで一緒に辞めてしまうのは予想外でした、あとまさか元教え子とアーカムで再開して一緒に暮らし、その娘とも一緒に暮らすというのも予想外でした。


 そんな私を何故か、リーリエ以外の人は冷静沈着で頭脳明晰ずのうめいせきだと思っているのでしょうか、実際は抜けた所が多く、仕事は完璧にこなせるのに日常においては何かとリーリエに世話を焼かれています。


 そんな私が諸所の事情からベルの名代としてこの心底憎たらしい似非えせ司祭と面会しなければならないのは、仕方がない事とは言え業腹です。


「あの、あれだ、無表情で足を揺すらないでくれ。すごく不安になる」

「お気になさらず」

「気になるんだが……」


 レオニダス・デュカキス、アーカム教会を取り仕切る司祭であり中央から派遣されている異端審問官、周りからは気さくでありながら思慮深く公正な人物として知られていますが、本質はそこに冷徹とろくでなしいう言葉が付く人物です。


「何度も言っているが、マリアローズに関しては私も予想外だったんだ」

「ええ、ベルが予想できなかったのですから、貴方程度が予想出来る訳がありません」

「……君、私の事が心底嫌いだね」

「何度も言っています、何度でも言います、言わせたいのですか?」


 この男の辞書には学習という言葉ないのでしょうか、出会ってからそれなりに経つというのに未だに気軽に声を掛けて来ます。

 特別な感情を抱いている訳でもないのに、これが血のなせる業という物でしょうか。

 早々に報告を終えて帰りましょう。


「こちらは特に新しい情報はありません、そちらは?」

「協力者に確認したがバウマンは無関係だったそうだ、配下が暴走したかそれとも子飼いか……協力者も調べてくれているが我々の把握していない組織がこの街に潜伏している様だ、私からの報告は以上だ」


 内部の協力者、このセイラム領の領主であるディルク・バウマン子爵の下にいるという方を、私は誰なのか知りません。

 ベルなら知っているかもと以前、聞いてみたのですが彼女も知らされてはいなかった。

 分かっている事はバウマン子爵と癒着している中央の警邏官に犯罪者として引き渡されそうになったベティーをレオニダスに預け、淑女の酒宴で保護する様に仕向けた張本人であり、今最も危険な位置で動いているという事だけです。

 ベティーも誰なのかは知らないと言っていました。


「それでは私は戻ります。業務がまだ有りますし」

「まだ話は全て終わっていない、いや一番重要な話をしていない」


 煙に巻いてそのまま行こうと思っていたのですが、この男の精魂せいこんの腐り様を甘く見ていたようです、空気を読んで黙っておくという発想はないのでしょうか。


「マリアローズには伝えたのか?」

「いえ、まだです」

「なら、確かめたのか?」

「それもまだです」


 先程まで薄気味悪い笑顔を顔に張り付けていたというのに、今は真剣な本来の冷徹な異端審問官の顔になっています。そう言えばマリアもこの男の作り笑いに気が付いて少し警戒をしていましたね、あの子はとても聡い子です、とても尊い。


「期日は過ぎている、君たちが出来ないのなら私がする」

「巫女戯ているのですか?血も涙も無い事で有名な異端審問官に、幼子を預けよと?」

「何時の時代の話だ、私が就任してからは一切を禁止ている」


 本当でしょうか?拷問による証言は当てにならない、しかして都合の良い事実を作る時はとても有効な手段、それをこの冷徹な男が廃止するとは到底思えません。


「言われずとも確認はします、ですが伝えはしません」

「何故だ、自身の父親がバウマン子爵だと知らせる事はあの子自身の為でもある」

「マリアに父親はいません、いるのは優しい母親と家族だけです、あの男とは―――」

「血縁上の父親だ、それは否定できない。後で知らされて傷つくより先に知らせ、そして乗り越えさせるべきだ」


 ぐうの音も出ませんね、実際に隠していても知られてしまう。なら早めに教え乗り越えさせる、マリアはとても賢く聡くそして母親譲りの優しさを持った子、きっと乗り越えるでしょう。

 ですがまだ三歳の子供です。


「心はそうとは言い切れん、その為の確認だ。悪性か善性のな」

「悪の素養の無い極めて善性です」


 あの気位の高いヒポグリフがあそこまで懐くのですから、あれで悪を宿しているなど想像も出来ません。


「それは私も認める、だが確認はしてもらう。その者の心が清らかでも善意から生まれる災いは存在する、君は100年前に終結した厄災を知らないからそう言い切れるのだ」


 私の生まれる前の事ですか、学園で習いはしましたが実感は持てません。

 この男は青春を厄災の中で過ごしたからこそ警戒している、理解はしますが納得はしません。


「マリアにその様な意図はありません、ご安心を」

「ベルギウス……」

「何方ですか?」

「厄災を引き起こした男だ、今はギリウスと言われている。私はその男を死なせてやった」

「それがマリアとどういう関係が?」


 噂は聞いていましたが、まさか噂は本当だったとは驚きです。


「彼もまた、悪意はなく人々の幸福の為に自らの知性を使った、そして大陸全土で数百万人が死に至った厄災を引き起こした」

「マリアも同じ様に危険だと?」


 廻って来た者は確かに多くの危険を孕んでいるかもしれませんが、余程の特殊な経歴を持った者くらいしょう、それだけの惨劇を引き起こすのは。


「分からん、だからこそ確認せねばならない、私はもう待てない、君たちが出来ないのなら私がやる、ベルベットとベアトリーチェにそう伝えておいて欲しい」

「分かりました」


 私は早々に教会を後にして帰路を急ぎます、あの男がやるといったのなら必ずするのですから、最良な形で行わなければなりません、急ぎ戻りベルとベティーと打ち合わせをしなければ……。




 私は動揺しています。


 三歳でこの色気、将来が心配になります。

 さすがはベティーの娘と言うべきなのでしょうが、まだまだ母親には遠く及びません、それでも同世代と比べて際立った色気を持っているのは確かなので悪い虫が寄り付きそうです。


 改めて見ると本当にマリアは母親似の美人です。


 髪の色は母親とは違いますが誰も足を踏み入れた事の無い雪原の様な白銀、肌の色はもまた同じ様に白く、目元は少し釣り上がっていますがそれは意思の強さを感じさせる凛々しさがあり、全体的にベティーが甘く艶やかな対して凛とした艶やかな幼女です。


 ベティーが赤い魅惑的な薔薇に対して白く凛々しい薔薇、マリアはまさに白薔薇の様な幼女です。


「くぅー」


 大変愛らしい寝顔、起こす訳にはいきませんね。

 おっと、少し興奮して鼻息が荒くなっていました。


 この健やかな寝顔を苦悩の色に染めてしまうのは避けたい所です、あの男が何かする前に行動を起こさねばならないですが、焦って事を起こせば仕損じてしまいます。

 やはり入念に打ち合わせを重ねて最良の形になる様に計画しなければなりません。

 何より子供にとってお昼寝は大切です、しっかりとお昼寝をしなければ発育に悪い影響が出てしまいます。


 ふとマリアの勉強机の上に開きっぱなしのノートが目に入りました、決して覗き見をした訳ではありません。


「これは、何かの文様……配列は規則正しいので文字、文章でしょうか?」


 見た事がありません。

 挿絵も描かれています、これは料理でしょうか。

 おや途中からソルフィア文字に変わっています、無いものリストと書かれています。

 しょうゆ、みりん、せいしゅ、こんぶ、かつおぶし……これは一体?


 他のページを見てみますか。


 料理の名前が書かれています、ですが作り方などのレシピは書かれていません。

 料理の名前も初めて見る物ばかりです。


 おっと、マリアが起きる時間が近付いてきました。

 この子の体内時計はとても正確です、寝坊助なベアトリーチェとは違って決まった時間を眠り、決まった時間に起きるというメイドに必要な技能を生れつき持っています。


 さて、ノートを元の位置にほんの僅かな誤差なく起きなおし私は部屋を出ます。

 もう少しだけ可愛らしい寝顔を見ていたいのですが、副女将として業務を滞りなく行う義務があります、副女将が率先して規律を乱すのは恥ずべきことです、名残惜しいですが仕事に戻ります。


 ああ、そう言えばギルガメッシュ商会から頼んでいた写真機が届いたと連絡がありました、マリアの成長の記録を保存する為に早く受け取りに行かなければなりません。

 リーリエの時は出来なかったのですから。

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