第12話憧れには手が届かない
この日、朝から良和は、強い決意をもって、自分を奮い立たせていた。臆病な考えが生まれるたびに、自らを鼓舞した。今日の放課後、0時限授業には出ず、まっすぐに美術室へ行く。そして静に「お前は清らかな人だ」とそれだけどうしても告げる。どれほど苛烈な態度で出られても、何とか黙らせて、それを言う時間だけとらせる。否が応でもこれだけは伝えずにはいられないんだ。何がどうあっても。良和は一人で架空の障壁と闘い続けた。
何度も静のいる2組に乗り込む衝動に駆られながらも、やっとのことで自制し、帰りのホームルームが終わるまで持ちこたえた。通常と同じ周囲の様子が、良和にはあまりに不真面目で無神経に感じられた。しかし羨ましくて仕方がなかった。誰か代われるものなら代わってほしい。俺は今からきっと修羅場を迎えるんだ。やはり帰ってしまおうか。中山なんかどうでもいいじゃないか。気にしなければいいだけだ。それなのに俺は、どうしてこんな風に、好き好んで不良に罵倒されに行くんだろう。ああもう!俺という人間はつくづく愚かな奴だ。
連絡塔の階段でしばらくためらった。踊り場の1F、B1と記された蛍光灯には埃が積もって、少しちらついていた。辺りは恐ろしく静まり返っていた。良和は逡巡しつつも、ここまで来てこのまま帰ったら、大変なエネルギーの無駄になるなどと考え、試しに階段を最後まで降りてみた。すると、極度の緊張とともに、突然、無謀で狂おしい上昇気流が良和の中に出現した。もうどうにでもなれ。喧嘩でも殴り合いでも、運命の気が済むように展開してしまえ!どうせろくでもない一日なんだ!ともはややけっぱちで、肩を怒らせながら、足音が響くほどに大股で力強く廊下を踏みしめて向かっていった。
美術室の眩しい明かりに、穴の開くくらいみぞおちが圧迫されたが、それでもひるまずに
「中山!」
と叫んだ。立ちはだかる恐怖に抗う彼は、ほとんど鬼のような顔になっていた。
美術室の奥の方に静はいた。驚いた顔をして、戸惑うような様子で近づいてきた。
「なんだまた君か」
「……俺の顔なんて見たくない気持ちはわかる。迷惑だろうと思うけど、でも俺は……何というか、えーっと、3分だけ時間が欲しいんだ。3分、本当に3分だけ。だからあの、本当にお願いだから怒らずに最後まで……」
「君ねえ、別にうちの部には、すべての部員に認められないと入れないとかいう掟はないから、入部希望なら鹿野という男性教師に」
「にゅ、入部希望なわけじゃなくて、その……」
駄目だった。良和はどうしても吹き出してしまった。笑ってはいけないと思うと余計におかしくなって大笑いしてしまった。静も横を向いて肩を震わせていた。
「……俺のこと、嫌いじゃないのか?」
「僕は君たち雑魚を嫌っているんじゃない。残らず軽蔑しているだけだ。まあ嫌いな奴もいるがね。君は全然嫌いじゃない、何だか君、随分愛嬌あるし」
「そうか、うん」
拍子抜けしてしまった。今更どんなふうに伝えたらいいかわからなかった。却って照れくさくなってしまった。
「俺が言いたかったのは、……お前は清らかな人だってことだ。「春の歌」はすごくいい絵だと思ったから、つまりそれを描いたお前は清らかな人なんだよ」
「ああ、そうかい。それはありがとう」
「こんな話を……なんでこんなことを思うだろ?……うん。でもどうしても、今日はこれを言ってやらなきゃいけないって、昨日寝床で決意したんだ。……なぜだか」
「なんだあのこと知ってるのかい?教師たちしか知らないはずなんだが」
「え?何のことだよ」
「僕が学校やめる話」
良和は顔が引きつったのをはっきり感じた。状況が理解できなかった。
「何だ知らなかったのか。僕は前期でこの学校やめるんだ。もう決まってる」
「……退学か?」
恐る恐るその二文字を口にした。
「退学処分じゃないよ。自分でやめたんだ。秋から、フランスに留学する」
「……何だよそれ」
裏切りだ!裏切りだ!そんなことがあってたまるものか!―良和は、自分でも意味の解らないこの言葉を心の中で何度も絶叫した―裏切りだ!
「何だよ、本当に?……お前……本当にいなくなるのか? 本当に?」
「谷川! 一週間後の夏休み一日目、正午にここで会おう。来られるか?」
「……来る! 必ず来るさ!」
それを聞いた静は、まだ呆然と立ち尽くす良和に、一人微笑んで見せた。そして、鞄を持ってきて、じゃあな、と颯爽と帰って行ってしまった。良和はしばらく固まっていたが、やがて魂が抜けたようにふらふらと家に帰った。
***
真夏の日差しは鋭く地面を突き刺していたが、地下階には一切届かなかった。相変わらずただ蛍光灯だけが美術室を照らすのだった。
適当な椅子に腰かけた良和は、悲痛な心持で静と対面していた。それと同時に、憧れていた静と私的な用で会っているのだという気恥しさが、どうしようもなく快かった。
この一週間、時間が経つのがあまりに遅くて彼は気が狂いそうだった。常に時計を気にし、無駄な時間よ、早く過ぎ去れと念じ続けた。
「君、ホントに来たんだね」
「……学校、自分で辞めるのは本当なのか?」
「本当だよ」
「……どうして今やめるんだ?」
「秋からフランスに留学するんだ。向こうの学校は9月から始まる。こんな中途半端な私立学校で飼い殺されるような僕じゃないさ。フランスにいれば絵画を学ぶ機会がたくさんあるからね。一日も早く経験を積んでいって、いつか世界に認められる画家になってやる」
「中等部の卒業までは待ったということか。……家の人とは……ずいぶんもめたんじゃないか? でもお前の希望が叶ってよかったと思う」
すると突然、静が力なく笑って言った。
「僕は体よく追い出されるのさ」
良和は青ざめた。胸の中に重い汚泥が溜まっていった。
「親との仲はもう最低なくらい悪くて―そりゃ僕なんか好く親はいないだろうね―このまま近所で悪さして父親の名前を傷つけるくらいなら、余計な金がかかっても外国へやっちまったほうが、まだ損にならないと考えたんだろうね。僕にとっても悪い話じゃないからそれで決着した。本当は中等部卒業できれいにやめるはずだったんだ。半年くらいは向こうでもこっちでも、どうにでも過ごせるはずだった。でも色々なアクシデントがあって、結局まだ僕は、日本にずっといなくちゃならないってなって、そしたら、あの親爺がなんて言ったんだか知らないが、この学校で高校の前期だけいてもいいとかすり寄ってきた。まあ容易いことさ。あの男の名前には物理法則ですら融通を利かせるんだろう」
「お前フランス語なんて話せるのか?」
「多少はね。小さい頃無理やり習わされてたからまあまあ話せるよ」
涙をやり過ごすような動作で良和は目を閉じた。激しい情動に襲われて、身体が破裂しそうだった。彼は、自身が両親と妹と共に構成しているあの家庭が、平和であるかどうか、特別考えたことがないほどに恵まれていた。また一方、幼いころに外国語を習うような、ましてや英語でない他の言語などを習う機会などは決して訪れないような、ごくありふれたサラリーマン家庭の一員として生きるよりほかになかった。しかし今垣間見た静の成育環境は、明らかに触れたことのない上流の世界だった。この金髪の男子は、どこか遠くの尊い世界の住人で、それなのに、自分は彼と二人で会っているのだ。素晴らしい天分を持ちながら、親に愛されなくて、外国へ追いやられてしまう。そんな波乱の人生を送る人間が自分と同い年で、同じ学校に通っていて、今目の前にいるんだ。自分のことを考えながら。彼は泣き出しそうだった。心の中に、言い表せない優しい気持ちがあふれていた。甘くもひどく苦しい痛み、それは憧憬というよりも恋慕に近かった。この金髪の、痩せ形でひどく背の高い、実はかなり端正な顔立ちをしているこの中山という人間に、俺はずっと特異な好意を寄せていたんじゃないか? 本当は中山のことが不思議に愛おしくてたまらなかったんじゃないか?
良和は静を抱擁したかったが、結局何もできなった。
静が再び口を開いた。
「見送ってくれる奴なんか一人もいないと思ってた。僕が学校辞めたって後で聞いて、清々したとおもうだけだって。皆全員そんな風なんだって……。でもまさか、一人現れるとは、意外だった。思ってもみなかった。わざわざ君の方から来て……僕に近づいてきて……ただ単に仲良くなろうと……この僕に、普通に仲良く……」
湿っぽい雰囲気になった。静は泣き出すのを我慢しているように見えた。良和も鼻の中が痛くなった。しかしここでわざとらしく泣き出すのは失礼な気がして、ひたすらこらえていた。
静が立ち上がってキーボードの前まで歩いて行った。鍵盤に指を置いて問いかけた。
「何か弾いてやろう。何がいい」
「お前の一番好きな曲を頼む」
ややあって、静は弾きだした。
音楽にはまったく詳しくない良和に、その曲名はわからなかった。穏やかで、終始落ち着いた曲調が、静の印象とは真逆であった。一方は絶えず同じ調子で流れていて、その上にもう一方が好きに逸脱し、時折足並みを揃えたりもしつつ、毎回型を変えて、恣に舞い踊っていた。その自由さは自制する様子は全く感じられないにもかかわらず、両者の呼吸が絶妙でない部分は一つもなかった。美しかった。
短い曲は終わってしまった。良和は気分がいくらか落ち着き、拍手する余裕があった。
戻ってきた静は、初めて見るような優しげな表情をしていた。
「君のことは忘れないと言いたいけれど、そうとも言い切れない」
「忘れるななんて言わないさ」
「記録しておけば忘れないと思うんだ。谷川の下の名前はなんていうんだ?」
「良和だ」
筆記用具を探すしぐさを察した良和は、自分の鞄からルーズリーフを取り出し、シャーペンで「谷川良和」と大きな字で書き、静かに手渡した。
「これで忘れることはなくなった。ありがとう」
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