第11話

 良和は、屈託なく高校生活を送れるようになった。徳田、田口、豊島、細野の四人とは、すっかり遠慮のいらない友達となった。クラスでは、いつのまにか一番の秀才としての立ち位置を手に入れていた。しばしば、冗談交じりに格上の扱いをうけた。なぜだか男子たちの間では「ローさん」のあだ名で固定されたらしかった。良和は、そう呼ばれているのを聞くたびに何となく愉快になった。

 日常生活は良好であった良和だが、時折不思議な寂しさを覚えた。なんだか物足りないような、欠乏しているような感覚であった。欠けているものは、他の何者でもなく静なのであった。彼は静に会いたかったのだ。あの喧嘩腰の早口を聞きたかった。気が付くと、静のことばかり考えてしまった。他の生徒には、バカな不良だと蔑まれ、相手にされないくらい嫌われている。教師には持て余されている。しかし、一人きりでも、あんなに美しい絵を描き、絵画に対する真剣な考えを持っている。きっと強い志を持って、長い間逆境に甘んじているんだ。奴は明らかに異質な存在だ。どうしてだか俺は、あいつに深い同情を覚える。本当は、中山はいい奴なんじゃないか?

 味到される間もなく月日は流れ、7月の2週目である。6月の模擬試験の結果が返却された。良和は、学年1位で、全国ランキング228位であった。担任は「君は立派だ」という言葉と共に結果を手渡した。良和は結構な驚きをもってそれを受けた。休み時間には、わらわらとクラスメイト達が良和の机に集まって、先を争って結果の用紙を読んだ。放課後には、他のクラスからも数名が良和の顔を見に来た。同じ部活のメンバーであるらしく、クラスメイトが我が物顔で良和を紹介していた。良和は照れ臭かったが、大いに名誉欲が満たされるのを感じた。

 例の四人にも少しは驚かれたが、懇意の仲における日常の安定感があった。豊島は、

「高1で全国228位っていうのは、多分光石でもほとんど出たことないと思う。T大だって楽に狙えるレベルだ。ローちゃんT大行きなよ。それとも他狙いなのか?」

と発言して良和のうれしさを更に補った。

「ローちゃん俺に脳みそ少し分けてくれ!」

といって手を合わせる細野に、徳田は冷酷にこう言い放った。

「貴重な脳みそタダで欲しがるんじゃねえよ。金払え」

「5千円で何とかっ! いや6千!」

細野は更に頭を下げて手を擦り合わせた。良和は

「悪い、俺手術怖いからホント」

と逃げておいた。

 昼食後の談笑が済み、それぞれ解散となったところで、田口が追いかけてきた。良和は何事かと戸惑ったが、田口は

「俺はローちゃん本当にすごいと思うよ。おめでとう。俺もすごくうれしい。勉強だけが全てじゃないとかいう奴がいるかもしれないけれど、でも確実に一部ではあるんだ。全部なことなんてあるものか! 自信もって一緒に頑張ろう。今回のことは誇っていいんだよ!」

と優しい表情で励ました。良和は涙のでるようにうれしかった。こうして田口は、良和の生涯の親友となるのであった。

周りからの賞賛の言葉は、断片的に頭の中で再生され、良和を励ました。まるで辞書を引くように、受けた印象によってそれぞれの言葉を探し出して、様々な角度から喜びを享受した。最高の気分だった。数字の印刷された結果通知の方は、記憶とは別の明確な希望であった。彼はそれを何度も何度も繰り返して眺めた。いくら見ても飽きないどころか、足りないくらいであった。印刷のデザインまでもが微笑む天使の顔のように思えた。彼は有頂天だった。

ところが、ベッドに横たわって目を閉じ、今日の記憶をまた咀嚼しようとした時、一瞬遠くの方に何かが見えた。胸の底で気管が引きちぎられた気がした。彼は飛び起きた。急に青ざめて、出会った恐怖に吐き気を催した。身うごきがとれなかった。体はあっと言う間に冷えていった。

良和は、昂った感情の暴走によって、ある情景を想像させられたのだ。―小さな群衆の中心にスポットライトを浴びた自分がいる。偶然この中のトップとなった自分はスター扱いされ、だらしなく笑う。周囲は賞賛しているが、時折頭の間から、こちらを睨みつける目が見える。そんなとき、自分だけ、遠くの暗闇に誰かがいるのに気付く。静は離れたところから、冷たい目で一瞥だけ加えると、どこかへ去って行ってしまうのだ―

中山は今回のことを知ったら、きっと俺を軽蔑するだろう。あいつの中では、成績の良いやつは敵なんだ。他の奴がどう言ったって、あいつはそう思うんだ。……この騒ぎなら耳に入らないわけがない。つまりあいつは確実にもう……。一度は優しくなったのに。もう少しで仲良くなれると思ったのに。俺とは口も利いてくれないかもしれないのか。もし「卑劣な」側に入れられたのだとしたら?……嫌われたら、―ためらったが、興奮のあまりつい口にしてしまった―あいつに本気で嫌われたら、谷川良和として生きる意味なんてあるのか?

 

次の日、昼休みの話題は9月の文化祭だった。

「4組クラス企画何やんの?」

「うちは豊島のネット用語講座」

「マジ? 豊島講師? 博士?」

「博士」

「違うから! 俺らお化け屋敷だろ徳田」

「ベタだなあ。誰の案なの?」

良和は苦しい胸を持て余していた。静と同じ建物にいることが、どうしようもなくつらくて、今すぐ逃げ出したかった。もし彼の目に触れてしまったらと思うと、ドアの空いた教室にいるのは耐えがたかった。

「なあ、ローのクラスはなにやるんだ?」

「え、5組?……えっと喫茶店」

「ローちゃん実行委員入ったか?」

「入ってないよ。実行委員会とかリア充の特権じゃん。俺キラキラ青春できてないから」

「それな、それ。この中で実行委員なった奴挙手」

徳田は豊島のほうへわざと目線を向けて言った。

下を向いて照れ笑いしながら、豊島だけ手を挙げた。

「ほら出たリア充。見事にお前だけじゃん」

そう言って笑う田口も、良和の悲痛な胸の内には気づかなかった。

 

良和の生活は憂鬱の海に沈んでしまった。授業中も、友達と過ごす時間も、帰り道も、家族と夕食を食べているときも、常に心が鑢でこすられるように痛んだ。しかしその苦しみは誰にも打ち明けるわけにいかなかった。上機嫌なふりをして笑うときは一段と心が締め付けられた。先日の成績のことで褒められるのは、直接傷口に触れられることであったので、彼は耐えがたい苦痛にさらされた。にもかかわらず、そのことは一番喜んで見せなければならないのだった。

 一人でいる時間は、憂鬱を隠すことなくそこへ没入できたので、疲労は少なかった。しかし往々にして、およそ理性的でない絶望へと思考は転がっていくのだった。彼は転校すら考えた。静に嫌われたまま卒業まで毎日学校に通うのは、あまりに過酷なことに思われた。美術室へは絶対に近づけないが、他の場所で偶然会ってしまったらと考えると、気が狂うほど恐怖した。彼の想像の中で、静は自分に対し幾通りもの苛烈な態度をとるのだった。ある時は冷たく睨みつけ、ある時は存在を無視して無表情のまま通り過ぎるという具合に。

 会話を思い返したことをきっかけに、良和の思考は、自分のことから静のことへと移っていった。中山は、少しは自分に心を開いたようだったな。画集なんて見て来いとか言って。あの時断らずに借りていれば、もう少し話す機会が得られたのか。画集を渡すっていうのは……画集を見れば、俺にも絵のことがわかるようになると考えたんだろうか。あいつは画集を見て絵が好きになったのか?何か大きな衝撃を受けて。それをずっと続けていたら、清らかな絵を描いた人は本人も清らかなんだ、とそこまで見通せるようになったのか。何を通して俺と同じ歳であそこまで理解できるくらいの素養を得たんだろう。とにかく、同じ体験をさせようとしてくれたんだろうな。それなのに俺ときたら、所詮は他の奴と変わらない小悪党にすぎなかったんだから。あいつにとっては。

 清らかな絵とはどんな絵なのだろうか。―そこで良和の心に、例の「春の歌」が浮かんだ―あの絵は本当に綺麗だった。いまだに忘れられない。絵画なんか見てあそこまで感動したのは初めてだった。特に右の方にあった木が好きだったんだ。あの木は……ただもう、見ていてうれしい気持ちになれた。嗚呼。会ったときに、それを言ってやればよかったな。

 気が付くと、良和は穏やかな気持ちになっていた。そして、俺にとって「春の歌」は清らかな芸術作品だ。だから、あれを作り出した中山は、間違いなく清らかな人なんだ、と悟った。

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