第10話

 それから模試の日まで、良和はそれまで以上に勉強した。授業で扱っている内容はその日のうちに理解し記憶するように力の限り努めた。職員室にも質問をしに通った。どうすれば模試で良い成績をとれるのかは、良和にもまだわからなかった。効率のよい方法など、まだ自分の中で確立していないから、愚直に時間を費やし、できる限りの努力をした。本人の中で一番の課題は英語であった。中学生の頃から、良和の周りには英語の得意な者が多かった。優等生の良和はもちろん毎回トップレベルの成績をとっていたが、それは他の教科以上に、彼の密かな努力の結果であった。英単語を覚えるのがあまり得意でなく、苦労をしていた。しかしそれを表に出さないように、CDを散々聞き、単語を何回も発音し、何回も書いてやっと覚えるのであった。そうしてやっと単語を覚えても、それだけでは役に立たず、文法を理解し、長文を読む練習をしなければならない。この道のりが、良和にとってはどの教科よりも過酷に感じるのであった。

 好奇心は、静の絵と「パッションドロップ」のほかに、春美との関係まで良和に荷として背負わせた。それは片時も頭を離れず、常に重石となって精神のどこかを圧迫していた。それでも彼は模試の終わるまでは、行動しないように自分に言い聞かせて、理性でその動きを何とか止めていた。この内なる格闘は良和を著しく疲弊させたが、とうとう模試の日まで、好奇心の甘い誘いには乗らなかった。

 無論のこと、試験は4月に受けた学年のテストよりはずっと難しかった。マークシート方式であったが、良和は覚悟して一つ一つの問題と格闘した。一日がかりの試験を終えて、良和は手応えのあったような感覚を覚えた。その一方で大幅に間違えていてもおかしくない気もした。何週間か後に帰ってくる結果に期待できそうな、しかしその期待の大きく裏切られるのが恐ろしいような、温かいものと冷たいものが交互に脳裏を行き来する気分の上下を良和は感じた。

 試験が終わってしまうと、良和の緊張はかなりやわらいだ。そして好奇心が解き放たれるのを感じた。その日の夜家に帰ると、良和はさっそく、リビングでスマートフォンをいじっている良穂に、

「おい、『パッションドロップ』は全巻持っているのか?」

と尋ねた。良穂は、良和によく似た丸い目をぱちぱちさせて

「どうしたの兄貴いきなり。急に読みたくなったの?」

と返した。良和は

「ああ。急に読みたくなったんだ。貸してくれ」

と堂々と言った。

 とりあえず1巻から3巻まで借りた良和は、その晩は勉強もせずに入浴の時間までずっと「パッションドロップ」を読み続けた。本当は少し読んで勉強しようと考えていたが、読み進めるうちに止まらなくなって、夢中になって読んだ。初めてまともに読んだ「漫画」は思ったよりよくできていて、そして痛快だった。

 次の日学校へ行くと、昨日まで緊張していた空気が、以前のように緩んでいるのが感じられた。休み時間の教室には笑い声が響き、生徒の顔つきも柔和になっていた。

 昼休みに、良和はさっそく4人に、昨日妹に借りて「パッションドロップ」を少し読んでみたことを話した。その話題はメンバーに喜ばれた。細野は

「ローは興味ないのかと思っていたけど、やっぱり普通の高校生なんだな」

と述べた。

徳田は

「なんだかローが人間らしくなったよな」

と感心した。豊島は

「ケンちゃんが喜んじゃうだろ」

と笑った。ケンちゃんと呼ばれた田口は大変興奮して

「面白いだろ?『パッションドロップ』はホント。シリアスとギャグの匙加減がちょうどよくて気分も切り替わるし、内容も深いから読み応えあるし、何よりキャラがいいだろ? 俺はいつも言っている通りチヨたそが好きだけど、あの子はめっちゃ美人だしそれでいて性格がぱっとしていてかっこいい。それに……」

と話し始めたが、途中で豊島に

「ケンちゃん幸代トーク自重!」

と遮られていた。この田口という男は、普段は普通に「田口」と呼ばれるが、揶揄されるときだけ「ケンちゃん」と呼ばれるらしい。

 その日から、良和の生活は格段に鮮やかになった。彼は、友達と共通する話題をもつ喜びを、乾いた布が水を吸うように、大いに満足して享受した。あんなに長く感じた昼休みは、談笑するには全く足りない時間であったのだ。明日からもずっと、学校でこうして友達と会える。このことが、こんなに楽しく、素晴らしいことであったとは!

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