第9話

 6月は模擬試験がある。卒業生のほとんどが大学へ進学する光石学園高等部では、全員が模試を受ける。梅雨に入り、雨の降る日の多くなってきたこの頃、学年中―静を除いて―が模試の準備に入り、空気がピリピリし始めた。良和は、勉強に集中して誰よりも良い成績をとってやろうという緊張感を自ら漂わせつつも、周りが皆過去問を解いたり問題を出し合ったりして、自分と同じ緊張感の中にいるのを、ほとんど初めて見て、少々ひるんでいた。中学校では定期試験の前でも半分の生徒は勉強などしていなかった。むしろ、勉強するのがかっこ悪いという風潮ですらあったのである。良和は、かつてそんな環境にいたために、今違和感を覚えてしまう自分がものすごく嫌であった。皆が良い成績をとることを目指すこの環境に早く慣れたいと感じた。

 そんな殺伐とした戦いの雰囲気に染まっていた良和であったが、突然思いもよらぬピンク色の噂を耳にする。

 ある日の放課後に良和が一人で教科書類を鞄に入れていると、前の席の曾木が何やらニヤニヤしながら話しかけてきた。

「おい、お前聞いたか? 角倉さんのこと」

「何だよ。角倉さん? ……角倉さんがどうかしたのか」

「角倉さんお前のこと好きらしいぞ」

良和は固まった。角倉さんとは学級委員を務める女子である。良和はかわいい女子と付き合うのを誰よりも渇望しつつ、誰よりも恋愛なんて興味ないふりをしている男である。

「マジで? 角倉さんがそう言ったのか?」

「本人に聞いてみろよー」

曾木は冷やかした。

 本人に聞けるわけがないじゃないか。様々な思いが頭の中を駆け巡るのを感じながら、考えてみた。そういえば最近、0時限授業であの長髪の女子は毎回隣に座ってきた。教室でもやたら目が合った気がする。初めて女の子と噂になった。どうしよう。どうしたらいいんだろう。良和は身動きが取れなかった。

 家に帰って、ベッドに横になると、まだ様々な思考が頭の中を駆け巡っているのを感じた。あの角倉さんの顔、仕草。今も俺のことを考えているのだろうか。告白とかされるのだろうか。どんな顔をして告白を聞けばいい? そんな緊張した場面に俺は耐えられるのか? 告白されたら付き合うのか? 恋人になる? 恋人ってのは何をしたらいい? 

いつの間にか良和は部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。頭の片隅で勉強しなければならないと考えながらも、とてもそんな気分になれなかった。顔が火照るばかりだった。結局この日の晩は勉強できなかったばかりか、よく眠れなかった。

 翌日、久しぶりの寝不足を覚えた良和は、朝食のトーストを食べながら、反省した。個人的な恋愛事情なんか、しかもまだ噂に過ぎない恋愛事情なんかで、勉強をしないのは良くないことだ。今後はどんなことがあっても勉強中は目の前の課題に集中しよう。そう決心した。

 学校へ行って0時限授業の行われるコンピュータールームに入って、いつも通り一番前の席に座ると、やはり角倉春美は隣に少し気まずそうに座ってきた。その瞬間だけ良和は自分の心臓の音を聞いたが、隣を見ないように意識しつつ、英単語帳をめくってプリントの配られるのを待った。

 この日いつも通り授業を受けながら、良和は、自分が焦っていることに気づいた。よく吟味してみると、それは勉強への焦りであった。速く、そして大量に勉強しなければならない。自分の勉強量も知識も全く足りていない。その意識が焦りとなって、良和に襲い掛かり、授業中も、早くこの授業を終えて次の授業を受けたい、次の授業になると更に次を、と止まらなくなるのに気付いた。苦しかった。はやる気持ちを抑えて、一つ一つの授業に集中しなければならないと頭ではわかっていながら、少し気を抜くとすぐに次へ次へと考えてしまう。そしていつしか、早く家に帰ってこの内容をじっくり考えて覚えようという意識が生まれるようになった。それが愚な事だと気づいた頃には授業は終わっていた。

 帰り道、良和は自分の本心を探ろうとした。自分の精神の建前をかき分けて、本音の部分、つまり焦る気持ちの根本、原因を探していった。すると、自分がどこかで勉強をしたくないと感じているのを見出した。良和は不安と自己嫌悪に苛まれた。勉強は俺にとって一番重要なことじゃないか。T大学へ行って化学者になるはずなのに。そして神経を集中してそのまた原因を探した。その答えを発見したのは家へ着いてからであった。原因はなんと静であった。中山は勉強などに興味はなく、全くそれを評価しないのだ。そして中山に評価されないことが、勉強ばかりする俺をどこかで冷笑しているのだ、と気づいたのだ。答えは見つけたが、理解はできなかった。今まで、高校に入る前にも、勉強に重きを置かない奴なんていくらでもいたじゃないか。勉強をできることが万人受けしないことなんてわかりきっているじゃないか。なぜ中山に評価されないのが嫌なんだ? 良和は考え続けた。夕飯の後に答えは出た。認めたくはないし、絶対に人には言えないが、俺は中山を人間として尊敬している。その尊敬している人間に評価されないことに、悲しみを感じているのだ、と。良和はため息をついた。今日はどうかしている。やはり寝不足だとろくなことがない。いつも通り勉強して寝よう。

 翌日は、学校へ行ってから意識して授業に真剣に臨んだ。習ったことはその場で理解しようとし、内容を整理して頭に入れていった。それ以外は意識の中から消し去ろうとした。午前中はその調子でうまくいったが、午後になると、疲れとともに胸のどこかにしこりが生じているのを発見した。0時限授業の終わるまで無視していたが、学校での勉強が終わると、頭の中をそのしこり―違和感とも言い換えられる―が占拠してしまった。良和はまた帰り道に、そのしこりの正体を探った。何十にも重なる建前と言い訳をかき分けて、勇気をだして本音を掬い上げた。家へ着いた頃に結論にたどり着いた。それは、良和にとって驚くべきことに、勉強以外のものに価値を見出してしまったということであった。その勉強以外のものとは、静の絵と、あの「パッションドロップ」という漫画であった。そのことを発見したとき、良和は愕然とした。そんなくだらないものに価値を見出すなんて、興味をもつなんて、俺の美学に反することだ。こんなことは断じて忘れるべきだ。崇高な学問の知識と論理を忘れて、そんなものに浮かれている暇は俺にはない。

 そうはいったものの、静の絵も、「パッションドロップ」も、忘れようとすればするほど頭に浮かんできた。静の絵をもっと見てみたい、あの漫画を実際に読んでみたいという欲求が良和を苛んだ。良和は自分の強靭な好奇心を、理性で抑えるのは困難であることに、既に気づいていると前述した。しかし、これはあまりにも良和の理想とかけ離れた働きであった。良和は日に日に頭の中での戦いに疲労した。それでも戦いはやまなかった。しかもどう見ても好奇心の勝ちであった。

 もう好奇心のなすのに任せて、勉強を少し減らしてでも静の絵を見に行き、「パッションドロップ」を読んでしまおうかと考えたときに、ある事件が起きた。いつも通り昼休みにグループ「昼飯」で昼食をとっていたときのことであった。細野が片手に漢文の教科書をもって、

「なあ、この再読文字のさあ、草かんむりに『去る』って書いて下が『皿』って書く字、なんて読むんだっけ」

と聞いたのである。良和はすかさず答えようとした。しかし、すぐに思い出せなくて、「蓋然性」の「蓋」だけど、漢文の再読文字の場合は……と慌てて考えていると、豊島が

「『なんぞ何々せざる』だ。『どうして何々しないのか』って意味」

とさらりと答えたのである。良和はその瞬間、大変な屈辱を覚えた。こういう場合にすばやく答えるのは、生まれてから今までずっと自分の役割であったはずなのに。今、周りから、分からない側の一人として見られたことが、耐えられないくらい恥ずかしかった。脳内では、もっと素早く、的確にすらすらと説明する自分の様子がひとりでに想像された。しかしそれはいくら繰り返しても現実とは関係がなかった。もはやどんな慰みも、言い訳も、良和のプライドのえぐり取れられるのを少しも防いでくれなかった。彼は気分がどん底に沈むのを表情に出さないようにするのに必死であった。そして胸の内で、俺は勉強不足なんだと震えながらつぶやいた。

 彼は考えた。そうだ。中学校のときとは周りのレベルが違うんだ。努力を絶え間なく続けなければあっという間に周りに追い越されて、おいて行かれてしまう。俺は知っている。この勉強というものは、油断すればなんの障害もなく二度と追いつけなくなるんだ。

 模試までは意地でも勉強に勉強を重ねよう。良和はどうしようもない焦りを感じた。

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