第8話静の過去回想

 絵を描くのが得意な、美術部員の不良。そんな人間は普通見られまい。自分のほかには、まずそんな人はいないだろう。

 僕は幼いころは気弱でおとなしい子供であった。集団生活が苦手で、いつも一人でいた。珍しいくらい上品な感性をもっていたために、周りの乱暴な遊びをする同級生についていけなかった。当時は引っ込み思案なのだと自分も思っていたし、周りもそう扱った。望とは小さなころから比べられて育った。望は優等生で、学校の成績だけはいつも一番だった。真面目ぶってて、学級委員をよく任されていたなあ。芸術の才能はどの分野も人並みにすら達しないくせに。父は望ばかりかわいがり、僕の才能を評価しなかった。絵を描くより勉強しろと言い、お前はダメだと非難した。母は僕に甘かったが、あの男は僕の目の前で、母が静を甘やかすから、勉強ができないのだと怒鳴ったんだ。僕は父もあの長男も嫌いになり、勉強ばかりする人間を軽蔑するようになった。

 絵を描き始めたのがいつかは覚えていないが、気が付けばいつも絵を描いていた。絵という心惹かれるものがなければ、どうやって自信を保っていたのかわからないほどだ。漫画を読む、アニメを見るということは厳禁だったから、その手の絵は描かなかった。僕は専ら、周りの物や植物を写実的に描いた。小学校も三年生くらいになると、かなり正確に、緻密に植物を写生できるようになった。夏休み後の絵画コンクールではほぼ毎回入賞した。小学校の教師どもは少し褒めたが、誰も本当の絵の価値を知らなかった。同級生は気づきもしなかった。僕は絵に対してだけは少々自信をもつようになったけど、基本的には引っ込み思案の自分を疎ましく思いながら光石の中等部に進学した。小学校で成績の優秀な者ばかりが集まった中学では、成績は相対的に悪くなった。それは少なからず僕のプライドを傷つけた上、父にもいい顔をされなかった。僕の心はだんだんすさんでいった。あのころの僕の暗澹たる日々! 運命が変わったのは、中学1年の7月の、あの晴れた日だ。―本当、あの日だ―美術の授業で初めて美術室に入った。その雰囲気からして既に惹かれるものがあった。その部屋は他の教室とは別の顔をしていた。広くて大きな、使い込まれた机が並び、床は深い色の木目調だった。普通教室の冷たいだけのフローリングとは比べ物にならない。壁には、いくつか絵が掛かっていたが、どれも知らないものであった。ただ、不規則な配置が気さくな印象だ。全体にインクのにおいが染みついていた。世の中から孤立した、しかしひたむきな老画家が連想された。教室の後ろ側には有名な画家だのたちの画集が置いてあって、そのうちの一つを手に取ってみると、心を揺さぶるような美しい絵が、目に飛び込んできたんだ。そしてそれがどのページをめくっても続いていた! その時の僕の感動ときたら、一生に刻まれるほどであったなあ。夢中になって他の画集もどんどん開いていった。誰にも見つからず、侵されない自分だけの世界が広がるのを感じた。あれこそが転機だ。僕は美術部員になり、昼休みも放課後も美術室に通って画集を眺めた。自分でも絵を描いてみると、顧問に褒められた。自然を描くのが好きで、風景画を得意だと感じた。そういえば、今も風景ばっかり描いているなあ。ただ、他の部員たちは陰湿な性格の女子ばかりで、漫画のタッチの絵ばかり描いて、態度も悪く、僕を無視した。彼らと馴染めない僕は、家や教室でと同じく孤独であった。しかし、寂しいなんて感じなかった。孤独なのは慣れていた。……慣れていたはずだったんだが、一人でいると、反発心がつのるようになった。いっそ不良になってやろうと自然と考え始めた。特に、世間体ばかり気にする父に恥をかかせてやろうという意識が常にあった。しばらくして、自動販売機でタバコを買ってみた。初めは全くうまく吸えなくてむせたが、「タバコを吸う不良の自分」が大いに気に入った。タバコに慣れてきたころに、髪の毛も金髪に染めた。こうして不良の自分が完成したんだと思い、開放感を覚えた。周りは変わりように驚いたっけ。注意だの叱責だのしたから、少しずつあからさまな反抗の態度を見せてやった。睨んでくる奴には睨み返した。責めてくる奴には舌打ちと無視で返した。蔑んでくる奴には暴言で返した。そんなことを続けているうちに、怖いものなどなくなった。学校の勉強はずっとしていなかった。全くついていけなくなっていたが、ついていこうという気もなくなった。

 澄まし顔で煙を吐き出す。また今日も、静は屋上で喫煙し、過去を振り返った。孤独であれば、自分を肯定してくれるのは自分だけである。他人と会話する機会の少ない彼は、繰り返し記憶を反芻せずにはいられない。

人気のない屋上は風の音しか聞こえない。泥で汚れたコンクリートに残った雨のにおい。下に見える住宅街のあの青い瓦屋根は、きっと僕を拒絶する気だろう。ひたすら不寛容な顔をしている。楽しいことの一つもない、この雑然とした陰気な街。風景は雑多であるほど見飽きやすい。砂漠の真ん中にでも住めば却って疲れないだろう。体は疲れるかもしれないが。それにしても……静は再び煙草を唇につける。あの谷川とかいう外部生、単身であの地下階にのりこんでくるとは、一体どういう阿呆なんだか。しかも2回も来るとは。静は片眉をあげて狼狽する。あんな風に人並みに扱われたのはいつぶりだろう。

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