第7話

 朝のホームルームで、担任教師は個別面談の話をしていた。2、3日前からこのクラスで担任と生徒との個別面談が実施されていた。昼休みと放課後に、1人15分程度、入学してからの学校と家での生活の模様、希望する進路、その他要望などを話し合うのである。良和はこの日の放課後に面談を控えていた。この日は水曜日だから、4時過ぎに職員室の向かいの面談室に行けばいいのだと良和は勘定した。

 授業には相変わらず必死について行き、昼休みは気を遣いながらも慣れを感じる穏やかな時間を過ごし、掃除の時間などもいつも通り終わらせると放課後になった。

 面談室の前に行くと、扉に「面談中」の札が掛かっていた。少し待つと、前の生徒が出てきて、担任も出てきた。担任は良和を見ると、「はい。じゃあ次は谷川君」と言った。担任の後に面談室へ入った。面談室は中央に少し大きめの長い机があり、そこに3組くらいの大きな椅子が向かい合わせてあった。右奥には電話の乗った小さな袖机があった。担任に示されて良和は右側の真ん中の椅子に座った。

 向かい合ってから、担任はまず

「どうだい、この学校は。入学してから、もう慣れたかい?」

と切り出した。良和は

「だんだん勝手が分かってきました。きれいな学校だと思っています」

と答えた。答えてから、「きれいな学校」は少し抽象的すぎたかと少し後悔した。そしてなぜだか自分が緊張しているのを感じた。

「クラスの居心地はいいかい?」

と担任が聞くので、

「なかなかいいです。曾木と少し話します」

と答えた。すると担任は

「昼ごはんも曾木君と食べているのかい?」

と聞いてきた。

「いいえ。昼ごはんは4組の徳田と豊島、3組の田口と細野と食べています」

と良和が答えると、担任は笑って

「ああ、あの4人と食べているのか。楽しそうだな。しかし、なぜあの内部生の4人と食べているの?」

と返した。良和は

「徳田と小学校が同じで、友達だったからです」

と答えた。

「徳田君と友達だったのか。彼は結構元気がいいから少し意外だな。4人とはうまくいっているのかい?」

「はい。みんな優しく接してくれて」

「そうか。他に気になる生徒はいる?」

 そう聞かれて、良和はギクリとした。気になる生徒といえば静である。不本意ながら、彼のことは懸案事項として常に胸の片隅にある。どうもまたこの好奇心は、静と、その奥にある絵について知らなければ気が済まないらしい。だが、決して静かに良い印象を抱いているわけではないので、言いたくなかった。その反応をみて、担任は

「言いにくいことでもあるのかい?」

と聞いた。良和は思わず

「実は……2組の中山が」

と言ってしまった。もう隠せなくなってしまった。

「あの中山と仲良くなったのかい?」

と担任が驚くので、取り繕って

「仲良くはなっていませんが、偶然会いました。この学校には他に不良がいないみたいなので、何となく……気になります」

と言った。担任は笑って

「彼ももう少し我々に心を開いてくれるといいんだがね。あんなに絵がうまいんだから、素行を良くすれば孤立することもないはずなんだが」

と言った。その言葉を聞いて、良和は、ああそうだ。絵を褒めてやれば少しは喧嘩腰でなくなるかもしれないというインスピレーションを受けた。このひらめきは画期的なものに感じられたので、嬉しさが表情にでないように我慢した。

 その後は進路のことを話し合った。良和は、自分はT大学へ進みたいと言った。T大学へ行く生徒は進学校光石学園の生徒でも1年に1人いるかいないか、3人いれば万々歳といったとことである。それでも良和は化学の学者になるためにぜひともT大学へ行きたいのだ。担任は、T大学へ入るのは大変な努力が必要である。良和の今の成績はとても良いが、T大学を目指すなら今以上に良い成績を取り続けなければならない。毎日欠かさず授業の予習復習をするのはもちろんのこと、わからないところを作らないように職員室へ通って教員にどんどん質問をしてほしい。模試は学年全員が受けるもののほかにも、希望者のみ参加するものも受けて、自分の実力を常に計って、その向上を目指してほしい。それでもT大学へ入るのは大変なことだ。と諭した。そして、君は努力すれば受かる生徒だと、先生個人的には思うと付け加えた。良和は胸の中に情熱の炎の燃え上がるのを感じた。こうして良和の個別面談は終わった。

 さて、教室へ帰ってくると、遅刻早退の禁止の0時限授業には今日はもういけないことを考えた。そして、先ほどのインスピレーションを思い出した。明日からは0時限授業は毎日ある。美術室へ行く時間のあるのは今日だけだ。良和は果敢にもあの印象の悪い不良に会いに行き、絵を褒めるなどという照れくさい行為にでることに決めたのである。全ての原因と理由は暴れ馬たる好奇心だ。

 鞄を肩にかけ、良和は高校塔から連絡塔へ歩いていき、地下一階への階段を下りた。かの作戦が功を奏して、例の絵について聞いてみられることを祈りながら。

 暗い廊下の一番奥に、唯一明りのついている美術室が見えた。そのあたりからピアノを弾いている音が聞こえた。美術室へ近づくと、その部屋からピアノの音がしているのであった。中を覗いてみると、奥の方で静が1人、電子キーボードで何か曲を弾いていた。部屋には他に誰もいなかった。曲は穏やかで上品な旋律であった。たぶんクラシックだと予測しながら、良和は恐る恐る

「結構うまいな」

と声をかけた。すると静は素早く振り向いて、

「ちょっとおい! 何聞いてんだ! ふざけるなバカ!」

と取り乱して早口で言った。

「どうしたんだよ」

と良和が聞くと、静は赤面して

「なんでもない。なんでもないから、僕がピアノを弾いてたなんて人に言うなよ?」

と取り繕おうとした。良和はちょっと笑った。

「谷川! 君に用なんてないと言ったろ? 何しに来たんだ」

と静は険しい顔をして怒鳴った。良和はめげずに尋ねた。

「お前今も絵を描くか?」

「美術部員だからな。絵は描くさ。何か文句あるか?」

「文句はないが……」

「じゃあ冷やかしに来たのか? バカにしているのか? どうなんだ」

「バカになんかしていない!俺は……その……」

「何だよ」

「その・・・お前の描いた絵が好きなんだ」

良和は思い切っていった。すると静はその瞬間一層険しい顔をした。

「いつ僕の絵を見た」

「去年の文化祭で……美術室に展示してあったお前の絵を、『春の歌』を見たんだ。俺は絵なんてまるっきりわからないけれど、その絵には感動したんだ」

「ああ『春の歌』か。そうかい。それで、あの絵のどの部分が良かったんだ?」

静は尋問するような口調で迫った。良和は言葉を詰まらせた。頭が真っ白になって、

「その……全体的に……」

と自分でも愚かな返答だと感じつつ述べた。すると静は

「そうかい。やっぱり君はただのガリ勉だ。全くの雑魚だな」

と蔑んだように言った。良和は顔をしかめた。ダメだ。こいつは心を開く気なんてない。諦めよう。「もう帰る。邪魔したな」

と良和が出て行こうとすると、静が

「まあ、待て。鞄に空きはあるか?」

と急に尋ねた。口調が喧嘩腰でなくなっていた。そして美術室の奥へ行き、

「誰か好きな画家はいるか? まあいないだろう。じゃあこれだな」

と機嫌良さそうに言って何かを持ってきた。それは画集であった。表紙に『モネ』と書かれていた。

「この画集を君に貸してやるから、今夜読んで来い。明日感想を聞こう」

と静は大きめの本を渡してきた。良和は状況が良く理解できなかった。静の態度が急に軟化した理由もわからなかった。ただ、そんな画集を貸されても、今夜は読む暇などなく、明日は美術室に来られないことは確実であった。しかし、せっかく軟化した静を元の喧嘩腰にしないために数秒で言い訳と対策を考えなければならなかった。そして、

「本当にありがたいと思うけれど、鞄がいっぱいなんだ。明日も用があって……その画集は借りられない。俺にはもったいないよ。うん。……また今度貸してくれよ」

と恐る恐る言った。静は悲しそうな顔をして

「そうかい。わかったよ。今度来るとも思えないが、まあいい」

と言った。良和は静が怒らなかったことに安心しつつ、

「悪かったな。またな」

と美術室を出ようとした。すると廊下に出かかったところで、急に静が

「しかしガリ勉君、これだけは覚えておけ」

と言うので、少し驚いて振り向くと、

「清らかな芸術作品というのは清らかな人にしか作れないものだよ」

と真剣な面持ちで言った。良和はその言葉の意味と意図を考えたが、しばらくの間はわからなかった。ただその言葉の強い印象は、いつまでも頭の中から消えなかった。

 随分時間がたってから初めて、良和は自分の作戦の成功したことに気付いた。

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