第4話
彼のその予感は想定以上に的中した。自分のクラスでは、昼食時には不在であり、某SNSサイトのグループチャットでも気の利いたことを言えないばかりか、あまり発言すらできない良和は、接し方のわからない存在であると認識されていたし、なまじクラストップの成績など取ってしまったために、更に理解をする気になれない、妬ましくすらある者とされてしまったのであった。
良和の知らないところ―例えば良和の行ったことのない学校食堂など―で1年5組の生徒の会話において良和のことは話題に上がることがあり、
「成績良くてもあんな不愛想じゃ……」
「内部生の連中としか仲良くしないしな……」
などと陰口を叩かれることもあったのである。彼らの評価は、良和の中学校の同級生よりもはるかに冷淡だった。
グループ「昼飯」では、中学時代をともに過ごした仲良しのメンバーと、ほとんど初対面だった良和が同じだけ親しく分かり合えるわけもなく、良和は毎日ほとんど一人で弁当の中身を黙々と口に運んでいた。弁当を食べ終えると、良和はいよいよ手持無沙汰となり、雑談を続けるメンバーの中では適当な表情の浮かべ方すらわからなかった。 ある日を境に、良和は昼食を終えるとそうっとメンバーから遠ざかって、こっそり4組を脱出し、残りの時間を自習室で勉強して過ごすようになった。良和はいなくなったことに気づかれていないと信じていて、その工夫を「消える技術」と自分の中で名付けていたほどであった。しかしもちろんグループのメンバー達には気づかれていた。自分たちの話しているうちに、段々後ずさりする良和を最初は不思議に思っていたが、それが毎日続くと、何となく察するようになった。一緒にいたくない者を無理に引き留めるわけにはいかず、かといってそのことを本人に問いただすのも気まずいので、良和がいなくなると、
「また行ったな」
「まあ仕方ない」などと困った顔で話し合っていたのであった。そのような無礼な良和を責めたりしないのは、このグループの良心なのではあったが......。
良和はこのように孤独な日々を過ごしていたわけであるが、彼の思考は決して友人関係を思い悩むだけに使われていたのではないのだ。彼の頭の中にあった一番の関心事は勉学であった。ごく幼いころから勉学こそが彼の人生の中心であったといっても過言ではない。彼は他の者と違って、不思議と勉強を苦痛なくいくらでも続けることができた。時には快楽ですらあった。特に理系科目が得意で、化学が一番好きであった。中学生のころに理科で元素の周期表と化学式を習った時には、彼は感じたことのない胸のときめきを覚えたものである。あの完成され、静かに均衡のとれた記号の式に、良和は無限のロマンを感じるのだ。彼の将来の夢は化学者になることである。あの化学記号と式を一生追及して生きていけたら! 良和はその志を心の中心に常置させ、花に水をやるように夢を毎日育てていたのである。
学校での居心地は確実に悪くなっていきながらも、表面上は目立った動きもなく2週間ほどが過ぎた。その日も良和は昼食を終えて、「消える技術」を使って自習室までやってきて、勉強を始めようとした。化学の自習用ノートを開いてみて、良和は昨日の晩の勉強中、わからない部分を見出したのを思い出した。もう一度考えてみたが、それでもわからなかった。これは先生に聞きに行こうと決心した。化学の教師は理科塔という、実験室や理系教科の器具が置いてある建物にいるはずであった。今いる校舎からはロビー(と呼ばれる中庭)を通っていけばいいのだと、良和は頭の中で地図を思い浮かべた。そして3階の自習室を出て、階段を下り、ピロティ―まで出た。昼休みに校舎から出るのは初めてであった。
ピロティ―を出て、低い階段を上がると、見たこともない昼過ぎの高く日の差す明るいロビーが目に入った。ロビーは赤褐色のレンガが敷かれていて、端には生垣の葉が照らされて光っていた。晩春の空は青く澄んでいて、まばらに雲が流れていた。手前には大きな木が植えられていて、自らの大きな影をレンガの地面に落としていた。良和は詩的な性格ではないが、この風景は中々上品だと思った。ああ俺は、本当に光石に入ったのだ。こんなモダンな敷地を自分のものとしてこれから生活していけるのだ。という晴れ晴れした気持ちになった。そんな嬉しさを感じながら、生徒は意外といないんだなと周りを見回しつつ中央の木の近くへ行くと、良和の思考は急に停止した。木の影の下に、一人の謎の人物が椅子に座って何か手を動かしていたのだ。よく見ると、絵を描いていた。どうして謎であるかというと、彼の髪の毛は明るい金髪であったからだ。それにも関わらず、光石学園高等部の制服を着ていた。この学校では染髪は禁止で、金髪はもちろん茶髪の生徒すら見たことがなかった。教師に見つかれば、即座に注意されるはずである。良和は後ろから、金髪と、着ている制服という明らかに矛盾している両者を交互に見つめて、その組み合わせの謎を解こうとしたが、どう考えてもおかしいという結論しか得られなかった。少しの間固まっていた良和であったが、謎の金髪が気づいて後ろを振り向きかけたので、一気にダッシュしてその場から離れた。走りながら、頭の中で恐ろしい方程式が浮かびあがるのを認識した。金髪=不良、不良は恐らくこの学校に一人。つまり、あの金髪=中山静=例の絵を描いた人物。高校に入学して2度目の大ショックが待っているのかと思うと、冷や汗が出て、胃のあたりが重くなった。結局化学の質問に行く気になれず、そのまま校舎に戻り、1年5組の教室で呆然として昼休みは終わっていった。
放課後家に帰って、夕食を食べ終えると、良和は自分の部屋で覚悟を決め、徳田に、「昼休みにロビーの木の辺りで絵を描いている奴がいたんだけど、もしかしてあれは中山静かなあ」と某メッセージアプリで聞いてみた。徳田からは「たぶんそうだ」と返ってきた。「どれくらいの確率で?」と食い下がると、「十中八九中山だよ。昼休みに木の絵なんか描いているバカはほぼあれ一人だ」と返ってきた。良和はみぞおちにストレートパンチが命中するのを感じた。ベッドに倒れこんで、深いため息をつき、スマートフォンを持った手首を回して表裏を眺めてみた。そしてまたしても深く息を吸い、今度は短く吐いた。全く面白くない。あの美しい絵を描いたのは、あの不審な不良で、俺の期待した清楚な女の子とは一ミリも一致しない。そのように嘆いてみると、どんどん今の生活への不満が浮かんできた。昼休みはグループ「昼飯」の談話を黙って観察することしかできない。そのせいでクラスの連中とは仲良くなれない。グルチャでもうまく発言できない。どうして俺はあんな高校に入ったんだろうか。いつまでこんな孤独が続くのだろう。気分が悪いので、この日良和はいつもの勉強もせずに入浴して眠ってしまった。
次の日、いつものように午前中の授業を終えて、4組へ行くと、皆いつになく良和を見つめて黙っていた。席に着くと、田口が
「ローちゃん、今日は実は謝りたいことがあるんだ」
と真面目な顔で言った。普段「消える技術」を使っている良和はギクリとしたが、平静を装って
「何のこと?」
となるべく軽く聞いた。田口は、
「実はさ、俺ずっとローちゃんに申し訳ないと思っていたんだ。昼休みは俺らばっかしゃべっててさ、ローちゃんにあんまり話振れなかったよね。置いてきぼりにしちゃってたかなと思うよ。何せ初対面だからローちゃんがどんな趣味をもっているのかとか、何に興味があるのかとか全然わかんなくてさ、何を聞いたらいいかわからなくて…。いや、こんなこと言ったら言い訳になるね。これからはちゃんとローちゃんが付いてこられるような話をするよ。本当に、ごめん」
と言った。良和はこの謝罪の言葉を聞いて、まず田口の気遣いとやさしさに胸を打たれた。続いて、会話に積極的に参加しなかったのは半分以上自分が悪いのに、と罪悪感を覚えた。そして、自分はこの4人に対して、目立つのは困るが放っておかれるのも嫌だ等とわがままな期待をしていたことに気づき、自分が恥ずかしくなった。正確な順序で良心の呵責を感じたのである。そして
「いや、俺があんまり社交的でないばっかりに、あんまり会話に入れなかったけど、気にしていないよ。フツウに俺が悪かったよ」
と、両手で制止のポーズをとりながら言った。そして一気に回路がつながって、
「昼飯が終わったら教室を出ていたのは、ちょっとこの学校の授業が初めてでわからないところがあったからで、それは昨日解決したから、今日からは昼休みはずっと皆といるよ」と早口で大嘘だが釈明した。誰の顔もピントを合わせて見られず、適当に目の焦点をぼやかしながらであった。呼吸をうまくできなかった。すると徳田が
「それで昨日ロビーにいたのか」
と気づいたように言ったので、良和は思わぬフォローを大変有難がりながら、
「うん。そう」
とうなずいた。その時点でようやく4人の顔を見られるようになった。喉の下で心臓が跳ねた。豊島が
「ロビー?」
と不思議そうに尋ねると、すかさず徳田が
「こいつ昨日ロビーで中山に会っちまったんだとよ」
と笑いだしながら答えた。すると、瞬く間に4人の間に大笑いが起こった。
「中山、あの中山に!?」
「そらビビるわー!」
と豊島と田口が笑いながら言った。良和もつられて笑いだした。細野がわざと真面目な顔をして
「俺はあいつよりは成績いいぜ?」
と芝居がかった声を出し、徳田に
「中山と比べてどうすんだよ」
と突っ込まれていた。良和は無理に笑うのを継続させながら、中山静の嫌われ具合を察した。一方で、自分が予想以上に大切にされていたのを幸福に感じた。
家に帰ってから、良和は中山静について考えた。あの嫌われようは一体どこからくるのだろうか。余程素行が悪いのだろう。そんな奴が美術部員で、あんなにきれいな絵を描いたのか……。不良が絵なんて描く気になるのか?良和は「不良の美術部員」をイメージしようとしたが、不可能であった。そしてその姿を考えるうちに、胸の内で好奇心が沸々と湧き上がるのを感じた。この好奇心というものは良和のなかで良くも悪くも統制のとれない暴れ馬であり、満たされるまで駆けまわるのをやめない厄介な存在であった。この暴れ馬のおかげで学問は結構順調に進むが、一方で途方もない失敗を良和の生活にもたらしたことも数回あった。 しかしどちらにせよ、15年生きてきて、この好奇心を鎮めることのできないのを良和は痛感していた。俺は放課後美術室へ行ってあの金髪に文化祭の時に見た絵について聞いてみることになるのだろう。今日は金曜日だが、来週からは0時限授業というのが始まるから、その後に行くことになるだろう。あとは決心だけである。俺は男だ。たった一人の不良なんかにビビるものか。いくら不良だって初対面の者にいきなり殴りつけたりしないだろう。もし殴られそうになったら避ければいい。こうして良和は大胆にも中山静と会うことにしたのである。
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