第3話

 帰ってから、ベッドに横になって、疲れとやりきれなさを覚えたが、良和にはやるべきことがある。去年の9月の文化祭で見た、「春の歌」の作者の中山静という子のことを徳田に聞いてみることである。初対面の、しかも複数いる同性の前で女の子について尋ねられるほど良和は大胆ではなかった。徳田とは結局二人きりになる機会を得られなかったので、記録が残るのも恥ずかしいが、某メッセージアプリで聞くことを決めた。そのアプリを開いてから、今日新しいクラスのグループチャットに入りそびれたことを思い出した。良和は、またしても新しいクラスの仲間入りに出遅れたと悔しく思った。しかし、それより中山静という女の子について聞くことが重要であった。グルチャには明日入れてもらおう。良和は意を決して徳田にメッセージを送った。「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」と。すぐに返信が来て、「その前に俺らのグルチャ入んなよ」と書いてあった。そして招待され、良和は参加した。グループ名は「昼飯」であった。そして、徳田からグループチャットではなく個人チャットで改めて「何を聞きたいんだ?」とメッセージが入った。良和は「中山静ってどんな子?何組か知ってるか?」と尋ねた。徳田からは「なんであんな奴の名前知ってんの?」と返ってきた。そしてすぐに「高等部にあがってクラス替えがあったばっかだから、何組か知らんけど、あんな奴と関わらない方がいいよ。ぶっちゃけ不良だぜ。ちょっとばかり絵がうまいからって調子に乗りやがって。昔は女子にモテてたみたいだけど、あんな奴今はもう誰も相手にしねーよ。ローも近づかない方がいいぜ」と返ってきた。良和は混乱した。すぐに、「女子にモテてたって、中山静って男なのか?」と送った。すると、「男だよ。素行の最悪なバカ。なんであんなのがうちの学校にいるんだろ」と返ってきた。

 良和はぐたりと倒れた。あの学校に入ることに決めたのは、半分以上あの絵を描いた素敵な女の子と仲良くするためだったのに。不良でしかも男だなんて最悪だ。と落ち込み、俺の人生の希望の一つが潰されたとすら考えた。部屋は静まり返り、時計の秒針の回る音だけ響いていた。何も起きないいつもの空間には良和の失望が波紋となって広がっていくかに見えた。そんな波紋の中心でしばらく天井を見上げていて、ふと先ほどの徳田からのメッセージを見て、無意識のうちに覚えた違和感が頭に浮かんだ。もう一度見てみると、「ローも近づかない方がいいぜ」と確かに書いてある。ああそうだ。俺はローレンスとかいうあだ名をつけられたんだっけ。皆は苗字で呼び合っているのに、なんで俺にだけあだ名をつけるんだよ。まあいいけど。でもいきなり略すか?普通。良和は当惑と照れくささを覚えた。少し笑っていると、台所から「ご飯だよー」という母の声が聞こえた。

 翌日ようやく良和は自分のクラスの某メッセージアプリのグループチャットに参加した。良和以外は全員前日にグループチャットに加わっており、良和は明らかにクラスの輪に入るのに出遅れていた。良和はいささか疎外感すら覚えた。しかし、他のクラスメイトは良和を他の者よりおろそかに扱っていることに気づいていないのである。更に言えば、半ば良和の存在に気づいていないのである。中学時代の良和は生徒間の世界では、権力こそは手にしていない大人しい存在であったが、その成績の良さにより、一目置かれた存在ではあった。試験の度に賛辞の言葉をかけられた。それは少々一部の生徒に妬まれる原因ともなったのであるが、とにかく良和は名の知れた優等生として通っていたのである。その知名度が、高校入学とともに消え去り、良和はもはやその他大勢の中の一人にしかすぎなかった。これは良和もある程度は予想していたことであったが、実際に味わってみると、考えていたよりもずっと明白で厳しい現実であった。誰にも知られていなければ、存在しない位も同然だと恐怖した。しかし、知名度という点のみにおいては、その現実は数日後に一変することになるのだが。

 原因は中学の頃と同様、試験であった。良和が一足遅れてグループチャットに参加した日のさらに次の日は、高校入学直後のテストであったのだ。真面目な良和は、春休みの間も毎日勉強していた。厳密にいえば、良和を机に向かわせた一番直接な原因は、この高校入学直後のテストで悪い点を取ってバカにされるのが嫌だという、名誉欲であったから、無欲に努力したというわけではないのであるが、その程度の利己的な欲求を全くもたない者がどれくらいあるだろうか。動機はともかく、入試から解放されても怠けることもなく勉強を続けたことは、少なくとも他者から見れば十分に「真面目」な態度なのであった。

 そうしてテストの日を迎えた良和であった。本格的な定期試験と異なり、一日で終わるものだ。良和は緊張して、頭の中がかき混ぜられるようなあの感覚を、入試の時と同様に覚えた。個々の雑念はそれぞれが叫び声をあげ、感情は脳内をめちゃくちゃに走り回っていた。今回のテストはどれくらいのことが問われるのか全く予測できなかった。しかしながら、このテストの出来具合はそのままこのクラス、この学年での自分の位置を表すのであろう。そして教師達の自分への評価も少なからず決定づけるのだ。と良和はプレッシャーを自分に与えた。良和にとって、勉強面での自分の評価は何よりも重要なものであった。切迫した状態であったが、いざテストを受けてみると、入試より簡単だと良和は感じた。窒息しながらひとつひとつ目を通した問題も、良和を絶望させることは一切なかった。テストが終わると良和は朝の緊張も忘れ、現金にものんきな気持ちになったのである。帰りのホームルームで、来週の月曜日にはテストの結果が発表になるだろうと担任が言っていた。

 休日はどっと疲れを感じた良和であった。慣れない環境で3日間過ごし、心身ともにストレスが溜まっているようであった。しかし、そのような中でも新しいクラスのグループチャットでは見えない大勢の相手とのそれぞれの探り合いが続いていた。良和は、ごくわずかに、無難なところで無難に発言できただけであった。この時点では良和は相変わらず地味で目立たない存在であった。

 月曜日になって、休日に疲れとストレスを解消しきれなかったことを感じながら、良和は、またあの気分の落ち着かない教室に入った。ところが、朝のホームルームで良和の状況は一変した。担任が、

「先週のテストで、とても良い成績を収めた生徒がいました。このクラスの谷川良和君です。谷川君はこのクラスでトップの成績でした。数学と英語を別とした内部生と共通の科目では学年トップです。学年の先生方もこのような優れた成績をとる生徒がいたことに驚いたくらいでした。皆さんも谷川君を見習って勉強しましょう」

と言ったのである。数秒かけて、クラスのほぼ全員が良和の方を盗み見た。そして少し囁き合う声が聞こえた。良和自身は、あのテストそんなにできていたんだ・・・。と少し驚き、恥ずかしさと照れの混じった当惑を覚えた。そして、クラスの全員の視線を感じながら、あの贅沢な「困惑」を感じた。中学時代の試験後と同じ、目立ちたくなくても目立ってしまうあの「困惑」は久しぶりに感じられたものであった―その本当のありがたみが分かるのは、何年先になるのだろうか―。

授業前に、曾木は前の席から後ろを向いて、

「お前すげーな。一気に有名になるぜ」

と予言するように言った。そしてその予言は的中するのである。休み時間にはクラスのあちこちから

「あれがクラストップの……」

とか

「出来る奴っているんだな……」

とか、良和の方を見ながら囁くのが聞こえた。良和は悪くない気分であったが、どんな仕草をすれば良いのかわからなかった。とりあえず、気づかないふりをして新品の教科書を読むふりをしていた。

 昼休みに4組の教室に入り、徳田たちのところへ行くと、徳田も、田口も、豊島も、細野も、皆口々に

「ローちゃんすげーな、成績良かったんだって?」

「マジすげー!」

「秀才だな」

「やっぱローちゃん只者じゃなかった」

などと褒めた。あまりにみんなではやし立てるので、誰がどのセリフをいったのか良和は判別しきれなかった。どう返答をしたら良いか困ったが、苦笑いをして

「どうもありがとう……」

と何回か答えておいた。

ひと段落して、徳田が

「まあ俺らも頑張っぺよ」

と言ったのは良和にも確認できた。すると、細野が

「俺は光石入ってから成績のことで褒められたことないからマジでうらやましいよ。俺なんてホントもう……」

と言って笑った。徳田が話を振った。

「おい細野、いつも話すあれローに教えてやれよ。あの理科の悲劇」

「ローちゃん俺の悲劇聞きてえか?」

「どんな悲劇?」

良和が尋ねると、細野はおかしくてたまらない様子で語りだした。

「中二の時よお、後期の期末試験があったんだけど、理科の試験の時間、俺問題用紙見たんだけど、一個もわかんねえの。ホント、一個もだぜ。でもよお、最後一番後ろの奴が答案集めんだろ?そんとき答案真っ白だったら恥ずかしいじゃん?あんまりみっともないから、答えの欄を「縦」とか「横」とか「高さ」とかよお、小学校の算数のテストに出てくるような単語を書いて一応全部埋めたんだよ。それで答案真っ白で集める奴によっぽどのバカだと思われんのは避けられたと思って、とりあえずホッとしたんだけど、先生を怒らせちまったみてえで、返却されたら、答案の一番下に「不勉強!」って殴り書きされてたんだよ。マジ悲劇だろ?」

細野が話している間、他の3人はクスクス笑っていた。良和は、

「それは気まずいな」

と苦笑いして返したが、正直この細野という男子に軽蔑の念を抱いた。どれだけ準備を怠ったら、試験問題が一つも解けないなんてことになるのだろうか。授業は聞いていなかったのか?ノートとかとらないのか?良和は、そんな無駄な見栄を張る細野も、その話を笑って聞く他のメンバーも、彼の価値観とは接触しない、遠くの方に各々の認識を持っているのだと感じた。しかし、この者たちの前ではそんな違和感を表に表すわけにはいかないのであった。良和は本音と建前に著しい差を生じさせながら、これから先この学校で生活しなければならないことを予感し、密かに不愉快と恐怖を覚えたのであった。

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