第3話遠くて近いセラエノの皇太子

 大吾は今、人生で最も充実した時間を過ごしていた。

顔を変形させた上で街に展開した警官隊を殺害。クトゥルーとあまりに長い間接続していた彼の肉体は大きく人のそれから変容を遂げている。

その体重は同年代の男性の2倍。異常な可塑性を獲得しており、用途に応じて器官を萎縮させたり、異常に発達させることが出来る。


 大吾が走る姿は人間というより、人型のF1カーとでも解釈した方がいい。長く伸ばした指で撫でられるだけで、人体が水風船のように爆ぜる。

犠牲者の魂をルルイエに送り、残ったタンパク質を戴く。


 並走するのはクトゥルーの分身。

彼の肉体を介して地上にいる彼女――性別に意味は無い。大吾の好みを読み取っただけだ――は、大吾が動けば同じ速度で動く。

たかだか武装警官ごときに呪文により支援など、今の大吾には必要ない。


「ところでクトゥルー様、ダゴンさん達は元気ですか?」

「元気だよ。アメリカの連中も、日本のコロニーも活気づいてる」

「そうですか。こっちを片付けたら、一度顔を出しておきましょう」


 駄弁りながら喋っている内に、彼らは丸の内の「Ceoanel」前に到着。


「およ?」

「何かあったんでしょうか…」


 社屋は無残な有様だった。

ガラスが叩き割られ、表通りに面したロビーのあちこちに死体が散乱している。

暴徒が侵入したのだろうか?しかし、息のある者達も僅かに残っていた。

停止したエレベーターを無視して、階段から現れたのは、黄色い装身具を身に着けた、服装のバラバラな男女31名。

無傷のものはいない。怪我をしているが、重症を負った者はいない。彼らは両手から触手を伸ばした男を見るや、銃撃を仕掛けてきた。


「彼らは」

「ハスター教団か、魔術師なら魔術使えっつーの!魔術!」


 クトゥルーは腕を振り上げ、口を尖らせた。彼女の言動は、一事が万事、冗談めいている。


「まぁ、そう怒らないで。撃たれるのも好きですよ、僕は」

「マゾいねぇ」

「生きてますから。どうせ生きるなら、血を流すほど必死に生きるべきだ!」


 支援は結構、と言い残して銃口の群れに飛び込む。

魔術により肉体を護らずとも、彼には強靭な表皮と脂肪層、再生能力がある。

あえて受ける気は無いが、守りに入る戦いはしない。銃弾が1発掠る度、5から6名の信者が真っ二つになり、トドメに踏みつぶされる。

掃討を済ませた後、大吾はオフィスの探索に向かおうとする。


「そっちには誰もいないよ」

「!――そうですか」

「うん。こっちこっち」


 死屍累々の国道を、クトゥルーの案内に従って歩く。

急ぐ旅ではない。大吾は敵手を待ちわびていたし、クトゥルーも、彼の企みが失敗に終わるとは最早思っていない。

現在アンと名乗っている友達は存命、蘭子やカールと言った優秀な者達も生きている。

彼らは坂を転がるように滅んでいく国家に代わる、新しい勢力を打ち立てんとそれぞれ活動中。人類史は明日にでも燃え尽きるだろう。



 九十九の弟、百雄は五月末に失踪。

警察に被害届を提出したが、23歳の彼の為に、大規模な捜索は行われない。

母親と共に、九十九も余暇を割いて、通行人に情報提供を求める。

そして来たる6月2日の夜更け、地下鉄駅付近の路地で、犬とも人ともつかない生き物に襲われた。


 慣れた手並みで下水道に引っ張り込まれ、悪臭を纏った怪物に囲まれて全身を齧られる。

生命危機に陥り、遠のいた意識は、不可視の力の前に引きずり出された。


――恐れるな、我が息子。父たる私が、鍵を開く…。


 九十九の皮膚を食い破り、何者かが飛び出す。

血が沸き立つような感覚の中、歓びとも恐れともつかない感情を叫びと共に吐き出した彼は、地球の下水道に帰還した。

あたりには細切れの肉が散乱、絨毯を敷いたように巨大な水たまりが尻の下に広がっている。


 下水道を脱出した九十九は、母に何も言わなかった。

犬のような顔の化け物について言いたくなかったし、己の身体に違和感を抱いていたからだ。九十九とは異なる何者かが巣食っている…。そいつは血と肉を求めており、飢えを感じると、九十九に獲物をせがむのだ。


 幾度となく夜を超え、様々な化け物を喰らった。

彼の身体は敵の息遣いを感じると、無数の触手が寄り集まったような、奇怪な姿に変化するのだ。


 時間は現在に戻る。日が没した時、名古屋は死んだように静かだった。

いや、事実死んだのだ。今や気力を失っていない者は、彼岸の住人のみ。

無人の平屋の中、九十九はプロテインバーの夕食を済ませると、膝を抱えて眠りについた。

その眠りを打ち破るように、サイレンに似た大音響が九十九の脳を揺らす。


「あぁ、…なんだよ……もう」


 半世紀前、ハスター教団の一派は呪わしい実験を執り行った。

信者の女と、崇めている本尊を千切らせたのである。九十九はその99番目――つまり半神である。

その体質ゆえ、クトゥルーの呼び声を受け取っても、魂を焼かれる事がない。九十九は這うようにして、今夜の塒と定めた平屋から出ていく。


「やぁ、ようやく会えましたね」


 声の方に振り向くと、闇の中に男が一人立っていた。

恵比寿のように細い目をした、中肉中背の男。如何にも夏らしい、半袖のシャツにチノパン。


「なにか…?あぁ、いや」


 今のサイレンを聞いたか、と九十九は尋ねようとした。

問いかけを終えるまでに、彼の胸に槍のようなものが突き立つ。だが、死なない。

敵と認識すると、行動は早かった。男――大吾目がけて、右腕の触手を振り上げるが、大吾の腕から滑り出たブレードで斬り落とされてしまう。

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