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 先に沈黙を破ったのは、アンジエールだった。

 所在なく、心許なさそうにしている千鶴の姿を視界の端に捉えながら、アンジエールは耳を僅かに動かし、外の物音に聞き耳を立てながら言う。


「疲れてはいないか?」

「うん、大丈夫」

「身体の具合はどうだ?」

「もう平気」

「それならいいのだが」


 取り付く島もない物言いをする千鶴を、今度はまっすぐに捉えたアンジエールは、後ろ足で身体を掻いてから口を開いた。


「チヅルが旅慣れていないことは理解している。どうか無理だけはしないでほしい。つらい時はつらいと言ってもらえた方が、こちらも安心できる」

「うん、分かった」


 もっと他にも言い様があるだろうと思いながら、千鶴は自らを罰するように手の甲を抓った。この寒さのせいで、痛みは少しだけ遅れてやってきた。

 本当は、こんな態度を取りたいわけではないのだ。初めて出会ったその瞬間から、アンジエールに対して抱いている思いは、何一つ変わっていない。この世界で最も信頼している相手だ。

 だが、まるで洋服のボタンを掛け違えてしまったかのような、違和感のようなものが見えない壁になって、目の前に立ちはだかっているのが分かる。それは、早急に取り除いてしまわなければ、あっという間に歪みを生じさせ、取り返しのつかないことになるだろうということも、千鶴は察していた。

 だが、一体何と言って切り出せばいいのか――千鶴がそう考えていると、そうした葛藤を含めてすべてを理解しているというふうな顔で、アンジエールが口火を切った。


「少しだけ昼間の話をしても構わないだろうか」


 千鶴はその表情を見て、アンジエールがずっとその話をする機会を窺っていたのだろうと、そう感じた。もしかしたら、千鶴から質問されるのを待っていたのかもしれない。もぞもぞと尻を動かし、千鶴が佇まいを正すのを待って、アンジエールは先を続けた。


「チヅルには間違いなく、チトセから受け継いだ魔女としての能力が備わっている。既に察しているとは思うが、チヅルはあの時、魔女の力で周囲の者たちの動きを止めていた」

「……やろうとしてそうしたわけではないの」

「それは分かっている」


 頷く代わりにぱちんと瞬いてから、アンジエールは、がたん、と物音が聞こえてきた方向を一瞥した。その物音は、千鶴が確かめた時に、鍵がかかっていた部屋の方から聞こえてきたようだった。


「くしゃみをしたら、なぜかそうなっていて」

「心配するな、よくあることだ」

「そうなの?」

「くしゃみをする瞬間、生き物の身体は無意識的に脱力した状態になる。完全に緊張感の解かれたその状態は、魔法を使用する際の身体の状態と酷似しているのだ。一点に集中してくしゃみをする時、瞬発的に放出される神気は大きく膨れ上がる。それに魔女の力が便乗し、周囲にいた者の動きを制限した」

「そう、だったの……」

「そのおかげで私たちは安全に逃げ出すことができたのだ。敵味方にかかわらず、怪我をした者は誰もいない。それは喜ぶべきことだ」

「でも、ビビアンさんは?」


 千鶴が静かな口振りでそう訊ねると、アンジエールの口角が少しだけ持ち上がる。引き結ばれた口許が、僅かな緊張感を孕ませているような気がした。


「置いてきてしまって本当によかったの? あの人は私たちのことを助けてくれたのに、申し訳ないことをしてしまった。恩を仇で返してしまうなんて、自分が恥ずかしい」

「彼女は――」


 アンジエールは何かを言いかけるが、途端に言いよどむと、千鶴から視線を逸らす。

 囲炉裏の炎を見つめるアンジエールの目は、いつも以上にきらきらと輝いていたが、それと同時に、深く沈み込んでいるようにも見えていた。


「――彼女は、魔女としての矜持と自らの心根の狭間で葛藤を起こし、最終的には天秤を後者に傾かせたのだ」

「待って。それって、どういう意味?」

「ありていに言えば、私たちは売られたということだ」

「売られた?」

「ビビアンにはビビアンの考えがあってのことだろうと思うが」


 千鶴は思わず唖然としてしまった。開いた口が塞がらなくなり、躊躇いがちに揺れているアンジエールの目を睨むように見つめる。

 そんなことはあり得ない――千鶴は真っ先にそう思った。あれだけ良くしてくれた相手を疑うことは酷い侮辱だ。それこそ、恩を仇で返すことになる。


「売られたなんて、冗談でしょう? あの人は私たちを匿ってくれたし、それにほら、手当てだってしてくれた。あなたとは長い付き合いだって、ノワールさんとは同郷で幼馴染だって、そう話してくれたでしょう?」

「私には人間の複雑な感情の流れというものを理解することができない。残念ながら、彼女が何を思い、何を感じ、どのような解釈をして、そうした決断をするに至ったのかを推し量ることは、とても難しい」

「だったらどうして――」

「当事者にとって裏切りとは突然訪れるものだ。そして、裏切りには相応の理由が伴う。理由なき裏切りは存在しない。彼女にはただ思うところがあった。それだけのことだ」


 アンジエールは言葉にしなかったが、千鶴には、この話題はこれで終わりだと、そう言われているような気がした。

 思い返してみれば、あの時のノワールの様子もおかしかったのだ。あの状況下で共に逃げる選択をせず、後のことは自分でどうとでもするだろう、などという見捨てるような物言いをすることは、普通ならばあり得ないはずだ。

 相手が昨日今日知り合った千鶴のような存在ならまだしも、ビビアンはノワールの幼馴染だと聞いている。みすみす見殺しにするとは思えない。もしかしたら、ノワールはあの瞬間にも察していたのだろうか。もしくは、早い段階から薄々感づいていたのだろう。

 だがしかし、もし本当に売るつもりだったのなら、なぜもっと早くにそうしてしまわなかったのか。高熱で身動きを取ることもできなかったあの時に引き渡してしまえば、それでよかったはずなのだ。そうしなかったことにもまた、理由があったのではないかと、千鶴は考える。


「……あなたたちはビビアンさんを信用していた」

「ああ」

「それなのに、裏切られてしまった」

「その通りだ」

「なら、カルディアさんは?」

「……うん?」

「カルディアさんに裏切られないという保証は? 確証はある?」


 千鶴がそう問うと、アンジエールは僅かに険しげな表情を浮かべたように見えた。


「さっきも言ったけれど、あなたたちが信じるというなら、私も信じる。でも、裏切られるかもしれないっていう心積もりはしておきたい」


 千鶴は、期待を裏切られることには慣れていた。人は愚かだ。だからこそ、いずれ裏切られると分かっていても、期待することをやめられない。その度に傷つけられると分かっていても、前に負った傷の深さや痛みを忘れ、再び期待してしまう。今度こそは違うはずだと、願わずにはいられなくなる。


「私は、この世界のことを知っているつもりだった。知っているつもりになっていたの。でも、話に聞くのと、実際に目にするのとでは、まったく違っていた。私の考えが甘かった。私は今、それを痛感している」


 優しくしてくれる人がいる。その人を好きになってしまうのは道理だ。けれど、その人が真実優しい人とはかぎらない。だからといって、優しくしてくれた相手を嫌いになれるかといえば、そうではないだろう。

 ビビアンは常に優しかった。その優しさに裏があったのだとしても、優しくされて嬉しかったことに変わりはない。

 だからこそ、心がちくちくと刺されるように痛むのだ。裏切りの理由を知りたいと思う。何か訳があるはずなのだと、正当化する理由を求めてしまう。

 その考えそのものが千鶴自身の甘さから来るものだったとしても、今更になって、自分の心を欺くことはできない。


「私は去る者を追わない。故に、裏切りを受けたところで、人ほど感情は揺さぶられず、心に傷を負うこともない」


 アンジエールはそう静かに言った。


「そうした考えを持つ私が言うのもどうかと思うが、カルディアは信頼するに足る男だ。だから君のことを頼みにきた」

「頼むって、どういうこと?」


 ぱたん、ぱたん、と尻尾が動く度に、囲炉裏の炎がゆらりと揺らぐ。アンジエールはその様子を眺めていた顔を上げると、千鶴を正面に捉えた。


「この先、私が行動を共にすれば、悪目立ちをすることになる。かといって、目の見えないノワールだけに君を預けるというのも、いささか心配だ。チヅルのことを考えれば、女性を供とするべきなのだろうが……」


 その物言いでは、アンジエールは他ならぬビビアンを、旅の同行者にと考えていたのだろう。しかし、途中で裏切りの臭いを感じ取り、その計画を断念せざるを得なくなってしまった。そこで白羽の矢が立てられたのが、カルディアだったのだろう。


「あなたとはもう一緒に旅を続けられないの?」

「人目があるからな、終始傍にいるわけにはいかないのだ。だが、姿は見えずとも、いつも傍で見守っている。チヅルが窮地の時はすぐに駆けつけよう」

「……うん」


 千鶴は足を抱えて座り直すと、膝に額を押し付けるようにして顔を伏せた。

 どこからか見守っていてくれるとはいえ、よく知りもしない二人の男と旅を続けることに不安を覚えないほど、千鶴も鈍感ではない。アンジエールも牡には違いないのだが、獣の見た目が異性であることを忘れさせた。


「不安か?」

「少しだけ」

「どちらも無骨な男だからな」


 くつくつというアンジエールの笑い声を久しぶりに聞きながら、千鶴はゆっくりと顔を上げた。


「さりとて、どちらも誠実な男だ。どのようなことがあろうと、君を救い、助けるだろう」


 果たして、自分にそうしてもらえるだけの価値があるのかどうか、千鶴には甚だ疑問だった。

 今はどこかに腰を落ち着けて、これからのことをじっくり考えながら作戦を練る必要があるのではないかと、そう思う。進むべき道も定まらず、ただ闇雲に逃げ回っているだけでは、何の解決にもならない。行動を起こさなければ、皆に迷惑をかけ続けるばかりだ。

 千鶴には、ずっと考えていることがあった。ある者たちには王と称され、この王国に春を取り戻そうとしている、ネイジュという北の魔法使いのことだ。

 不思議なことに、祖母のおとぎ話では、ネイジュという名前も、北の魔法使いという言葉も聞いたことがなかった。祖母は千鶴に物語の明るい面しか見せていなかったのだろう。残りの反面、暗い部分には蓋をし、一点の曇りもない完璧な物語として、千鶴に語って聞かせていた。まるで、自らの思い出を美しい物語に昇華しようとするかのように。


「……お願いがあるの、アンジエール」

「聞こう」


 千鶴の真剣な眼差しを受け止め、アンジエールは真摯に耳を傾ける姿勢を見せた。その様子を目の当たりにした千鶴は一瞬だけ尻込みをしそうになるが、決意を示すように背筋を正すと、呼吸を整えてから口を開いた。


「私をネイジュさんのところへ連れて行って」


 アンジエールは愕然とした面持ちを見せ、次の瞬間、困惑したような表情を浮かべた。もしアンジエールにも眉があれば、それが顰められていると分かったはずだ。


「チヅル、君は――」

「突拍子もないことを言っているって、そう思っているのでしょう? 私だってそう思う。人に散々迷惑をかけた上で、こうして逃げ延びることができているのに、何を言い出すんだって。だけど、逃げ続けていては駄目だと思うの。だって、逃げた分だけ、あの人は私たちを追いかけてくる。その度に誰かに迷惑をかけたり、裏切ったり、裏切られたりするのは、どうしても我慢がならない」

「私は迷惑だと思っていない」

「あなたはそうかもしれない。でも、ノワールさんは? カルディアさんはどう思っている?」

「確認したことはないが――」

「私はね、人の顔色を窺うのが得意なの。どうしてか分からないけれど、その人の顔を見ていると、何を考えているのか分かることがある」


 それが所謂、魔女の能力なのかどうかは分からない。だが、年々その能力が研ぎ澄まされていったことを考えると、恐らくは無関係なのだろう。この能力を手に入れられたのは、大方母親の存在の賜物だ。


「ノワールさんは最初から私を気に入ってはいなかった。今も面倒だって思っている。カルディアさんは、人のことをお嬢ちゃんだなんて呼んで、私をただの甘ったれた世間知らずのよそ者扱いをしているけれど――でも、それは正しい。そうして正しいことを言って、私の心を使い古したぼろ雑巾みたいにぼろぼろにできたら、それでいいと思っている。そうすれば、私は現実を思い知らされて、ただ大人しく自分の世界に帰ると考えているから」


 アンジエールの心が読めないのは、当人が獣であるからか、本当に真実しか語ってはいないからだ。

 普段は無関心を装い、何も見ないようにしていた。目を閉じ、耳を塞いでいれば、自分の心は護られる。口を噤んでいれば、誰かを怒らせることもない。


「私は、途中で――志半ばで投げ出したくないの。でも、このままでは埒が明かない。それに、私が直接出向けば、ルミエールさんを解放してくれるかもしれないでしょう?」

「ルミエールはそれを望んではいない」


 そう言って千鶴とアンジエールの会話に割って入ったのは、部屋の外に立っていたノワールだった。いつからそうして盗み聞きをしていたのか、何とも思っていないような無表情で戻ってくると、小上がりの段差にぶつかる前に足を止める。


「ルミエールの望みは、君が無事にあちらの世界へ戻ることだった。こちらの世界のいざこざに巻き込みたくなかったからこそ、大人しく帰るように言ったんだ」

「それでは何の解決にもなりません」

「自分の力で解決できるとでも思っているなら、それはただの自惚れだ」

「そんなおこがましいことは考えていません。私はただ――」


 千鶴は微かに苛立ちを覚えかけた感情に蓋をすると、気持ちを静めるために一呼吸置いた。


「――ただ、今のままではいけないと思うだけです。仮にこのまま旅を続けたら、私は何も知らないまま事を運んでしまいます。だから少なくとも、自分は正しいことをしているんだっていう正当性を証明したいんです」


 そう言う千鶴に不快そうな表情を見せたかと思うと、ノワールは小上がりに膝をつき、長い腕をまっすぐに伸ばした。それは少しだけ見当違いに空を切ってから、千鶴の腕を掴み、強く引き寄せる。


「誰も君の正当性など証明してはくれない。他者から与えられた正しさになど何の価値もない。その見当違いな心意気だけですべてを解決できるなどと思っているのなら、君の頭の中はおめでたいことこの上ないな」

「……無理に力を貸してほしいとは言いません」


 目と鼻の先に迫る険しい形相を睨みながら、千鶴は負けじと言い返した。しかし、その声は自信がなさそうに震え、怯えを滲ませている。虚勢を張ってみたところで、自分に嘘を吐くことはできなかった。


「それで北の魔法使いに挑むつもりか? 君に勝ち目などないぞ」

「勝つために行くと言っているのではないので」

「だったら何のためだ」

「話をするためです」

「……そうか」


 そう言うと同時に、ノワールは皮肉っぽく笑った。そして、千鶴の身体を押しやるようにして突き放したかと思うと、その場にすっくと立ち上がる。うっすらと開いた目は酷く冷淡で、背筋を凍えさせるほどの恐ろしさを感じさせた。


「私は君の自殺行為に手を貸すつもりはない。行きたければ勝手に行け。だが、あの魔法使いが快く迎え入れてくれると思っているのなら、その考えは早急に捨て去ることだ」

「待て、ノワール。どこに行くつもりだ?」


 吐き捨てると共に踵を返したノワールの背中に向かって、アンジエールがそう声をかけた。その声は驚くほど普段通りに朗らかで、場違いにさえ思えるほどだ。

 部屋を出る前にぴたりと足を止めたノワールは振り返らず、付き合っていられないとばかりに片手を振った。


「今夜はセシリアのところで寝る。明日の朝になっても、その娘の考えが変わらないようなら、私は降りる。後は好きにやればいい」

「もしチヅルが失敗すれば、お前は己の力を失うことになるが、それでも構わないのか?」

「それは私にかぎったことか?」


 違うな、と自問自答するように呟いてから、ノワールは今度こそ部屋を出て行った。

 扉の横で壁に寄り掛かるようにして立っていたカルディアは、髭の生えている顎をぼりぼりと掻きながら、呆れたような目でノワールの背中を見送っていた。

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