第六章 魔女の後継者は惑う

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 長い一本道の先に見えてきたのは、先ほどの村よりもずっと大きな町だった。

 その町に辿り着いたのは、日が沈んだ後のことだったが、追っ手のことを考えると、不用意に宿をとるわけにもいかない。そうでなくとも、ブランの手の者が既に放たれているだろうというのが、三人の総意だった。

 千鶴たちはそのまま人里を離れると、町外れにぽつんと建っていた民家の納屋を借りることに決めた。何事も金が物を言うようで、当初は面倒臭そうな雰囲気を漂わせていた家主も、ノワールが金子を握らせると途端に態度が一変し、すぐに納屋まで案内をしてくれた。


「火を焚くのは構わないが、火事だけは出さないように気をつけてくれよ」

「ああ」

「そこにある干し草でよけりゃ、いくらでも食わせてやるといい。うちの馬は何日か前に全部売り払っちまってな、もう必要ないんだ」

「では、ありがたく」


 ノワールがぶっきら棒に応じているのを目の当たりにし、もう少し愛想良く振る舞えばいいのにと思っていると、千鶴は家主と目が合った。ここへ来る前に、余計な口は利くなと再三釘を刺されていた千鶴は、家主に向かって軽く会釈をすると、ノワールの隣に並んで荷下ろしを手伝った。


「あんたら、食べるもんはあるのか? 汁物くらいならすぐに用意してやれるぞ」


 あたたかいスープをもらえるのなら、それは願ってもないことだ――千鶴がそう思っていると、ノワールは少しだけ考える様子を見せてから、小さく頷いた。


「よし、じゃあ、待っててくれ」


 そう言った家主が納屋を出て行って間もなくすると、戸をがりがりと引っ掻く音が聞こえてきた。周辺の見回りを終えたアンジエールが、戻ってきたのだろう。ノワールが音を頼りに近づいていき、戸を開くと、身体に雪を積もらせた獣がするりと中に入ってくる。


「どうだった?」

「今のところは静かなものだな。幻惑の呪はまだ破られていないようだ」

「幻惑の呪って?」


 そうして二人の話に口を挟むと、アンジエールは戸の前でぶるぶると身体を震わせてから、荷を抱えている千鶴の傍までやって来た。


「人の目に幻を見せて惑わす呪いだ。とりたてて危険な呪いではないが、その中に閉じ込められた者は、正しい出口を見い出せないかぎり、現実の世界に戻ってくることができない」

「ビビアンさんの家の庭に描いていた模様みたいなもののこと?」

「そうだ」


 ふうん、と相槌を打ちながら、千鶴は納屋の戸をそっと閉めているノワールの姿を横目に見た。いくら自由な振る舞いができるとはいえ、目が見えていないことは確かだ。その証拠に、ノワールは自らの手や足で空間を認識しようと、納屋の中をゆっくりと歩いて回っている。

 馬屋としての役割も果たしている納屋は、広々としたものだった。馬のために仕切られている部屋が六つと、馬具や農具が一緒くたにされている部屋、干し草や薪を保存している部屋の他にも、鍵の掛けられている部屋がある。おそらく、食料保管庫だろう。

 納屋に入ってすぐ左側にある部屋の中は小上がりになっていて、その中央には煮炊きの出来る囲炉裏があったので、今夜は凍えずに済みそうだと千鶴は思った。


「チヅル、どうした?」


 ノワールの動きをじっと見つめていた千鶴を見て、アンジエールがそう声をかけてくる。千鶴は首を横に振ると、地面の匂いを嗅いでいるセシリアに目を向けた。


「身体が濡れているから、風邪を引く前に拭いてあげないと」

「それは私がする」


 既にランプの灯りも届かない奥の方まで進んでいたノワールが、そう声を上げた。


「君の仕事は火熾しだ。できるだろう?」

「はい」


 囲炉裏のある部屋に荷物を運び入れると、千鶴は隣の部屋から、抱えられるだけの薪と一掴みの干し草を取ってきた。宙を飛んでいたので雪玉はつけていないが、身体中の毛を凍らせているアンジエールに声をかけ、囲炉裏のある部屋に入るように言う。


「すぐに火を熾すからあなたもあたたまって、アンジエール」

「それはありがたい」


 アンジエールは濡れた鼻先を持ち上げて機嫌良く応じたが、耳をぴくりと動かしたかと思うと、何も言わずに暗闇の中に身を隠した。何事かと思いながら、アンジエールの消えた方に目を向けていると、納屋の戸口を開いて家主が戻ってくる。


「こんな残飯みてぇなもんしか分けてやれないが、すまないな」

「……いえ、ありがとうございます」


 家主は一番近くにいる千鶴のことを捉まえると、そう言って鍋とパンを差し出してきた。無視をするわけにもいかず、湯気が立ち上っている鍋とパンを部屋に運んでもらえるよう頼むと、千鶴は部屋の外で家主が出てくるのを待った。


「あんたは一体どこからやって来たんだ?」


 家主はパンを小上がりに置き、鉤棒に鍋の取っ手を引っ掻けると、そう言いながら部屋の外に出てくる。そして、どこか疑わしげな面持ちで千鶴を見下ろし、目の前で足を止めた。


「いくらだって町で宿をとれるだろうに、なんだってこんな馬小屋に泊まりたがる?」


 千鶴は何も言うなと言われていた。そもそも、本当のことを話せるわけもない。

 家主の男は齢三十前後といったところだろうか。長身で屈強な身体つきをしていた。髪は伸ばしっぱなしという印象で、肩よりもずっと長い。無精ひげを生やし、何日も鏡を見ていないのではないかという出で立ちだ。

 他の者たちと一緒に町で暮らさず、こうして人里から離れた場所で生活しているのには、何か特別な理由があるのかもしれないと、千鶴に様々な想像をさせた。

 思わず家主から目を逸らしてしまった千鶴は、助けを求めるように、納屋の奥に視線を送った。しかし、暗闇の中で一体何をやっているのか、ノワールとアンジエールが戻ってくる様子はない。それどころか物音も聞こえず、気配さえ感じさせなかった。

 それを不可解に思いはじめた千鶴をよそに、、家主は寄り掛かっていた壁から身を起こすと、わざわざ視界の中に入り込んでくる。


「口が利けねぇってわけじゃないんだよな?」


 約束は約束だ。ここへ来るまでに迷惑ばかりかけてきたのだから、簡単な約束くらいは守りたい。そう考えた千鶴が頑なに視線を逸らし続けていると、家主がその細い肩を掴み、半ば無理やりに自らを振り仰がせた。

 突然のことにぎょっとしていると、男は千鶴の背中を壁に押し付ける。


「それが一晩泊めてもらおうってやつの態度か?」

「……感謝はしています」

「感謝で腹は膨れねぇよ、お嬢ちゃん」

「お金なら――」

「金? ああ、これか」


 男はそう言うと懐に手を入れ、ノワールから受け取った麻の袋を取り出してみせる。それが千鶴の顔の前で軽く振られると、ちゃり、ちゃり、という、小銭がぶつかり合うような音が聞こえてきた。


「あんたらを売ればもっと金をくれる連中を知ってるって言ったら、どうする?」


 これは、こちらを挑発しているのだろうか。それとも、試しているのだろうか――千鶴は何の迷いもなくそう考えると、男の目をまっすぐに見つめた。

 すると、見つめられた男は僅かに目を丸くし、どこか意外そうな面持ちを浮かべる。


「本気にしてねぇって顔だな」

「取り引きをするつもりがあるのなら、とうの昔にそうしているはずです。こうしてご丁寧に教えてくださる謂れもないと思います」

「連中がここに来るまでの時間稼ぎをしているだけかもしれねぇだろ?」

「それが事実なのだとしたら困りますが、私は同行者を信じているので」

「その同行者はこうしてあんたをほったらかしにしているわけだが?」

「それは――」


 千鶴はちらりと暗闇を一瞥してから、再び男を見上げて、にこりと微笑んだ。


「彼らがあなたのことをよほど信頼しているのではないかと」

「信頼だって……?」

「胸を張って豪語できるほど長い付き合いではありませんが、彼らの人となりはそれなりに理解しているつもりです」


 やむを得ない事情がない限り、アンジエールは千鶴を一人きりにすることはないだろう。ましてや、見ず知らずの赤の他人の前に置き去りにするなど、普通に考えればあり得ないことだ。

 そして、ノワールが酷く用心深い性格をしていることも、千鶴がこの旅の中で学んだことの一つだった。赤の他人を信用することがないとは言い切れないが、この状況下において、行き当たりばったりで民家の納屋を借りることに、そう易々と同意するとは思えない。

 納屋を借りて売られるリスクを負うくらいならば、町で宿を取った方が賢明だということは、千鶴にも分かる。


「あなたが誰なのかは存じ上げません。でも、彼らがここを安全な場所として認識しているのなら、私はそれを信じるだけです」


 ただ、それは千鶴の勝手な思惑であり、アンジエールやノワールの意向は確かめようがない。もしかしたら、まったくもって見当違いなことを口にしているのかもしれないと思いながらも、そうして強がって見せる程度のことしかできなかった。

 男はしばらくの間、じっと睨むように千鶴の目を凝視していたが、不意に表情を和ませたかと思うと、暗闇に向かって声をかけた。


「何だよ、おい。ずいぶん肝が据わったお嬢ちゃんじゃねぇか、アンジエールさんよ」

「……そうならざるを得なかっただけだ」

「お前さんの話を聞いた感じだと、もっとなよなよした頼りねぇ女を想像していたんだがな」


 男はそう言うと、壁に押し付けていた千鶴の身体を解放した。だが、その眼差しは未だまっすぐに向けられ続けている。どこか興味深そうに、好奇心がそそられるとでもいうふうな、見世物を眺めるような目で見つめられていた。

 それを居心地悪く感じた千鶴は、すぐさま顔を逸らすと、傍らにまでやって来ていたアンジエールを見下ろした。


「……アンジエール、どういうこと?」

「すまなかった、チヅル」


 アンジエールはぴんと立っていた耳を申し訳なさそうに寝かせると、しゅんと項垂れるような様子を見せた。


「君に不安を強いることは私の本意ではなかったのだが、この男がどうしても君のことを自分の目で見定めたいと言ってきかなかったのだ」

「見定めるって?」

「我が至尊足る人物かどうかを確かめたかったんだよ」


 アンジエールの後を追うようにして戻ってきたノワールは、いつもの口笛でセシリアを呼び寄せると、手綱を取って暗闇の中に引き返していく。男はその様子を何の気なしに眺めていたが、ふんと鼻で笑うように息を吐いたかと思うと、アンジエールに視線を向けた。


「あの野郎は相変わらずってわけか」

「あれのことは後にしよう、カルディア」


 カルディアというのが、どうやらこの男の名前のようだ。へいへい、とぞんざいな態度で返事をしたかと思うと、伸ばしっぱなしの髪を乱暴に掻き上げる。

 千鶴がその姿を横目に見ていると、アンジエールが口を開いた。


「今朝方、私が早くから出ていたのは、このカルディアに会うためだったのだ」

「この人に……?」

「この通り、見てくれは無頼漢のようだが、かつては王国騎士団の騎士団長を担っていた男だ。身元は私が保証する」

「あの、でも、この人が、騎士団長さん……?」


 千鶴は、祖母から聞かされていた王国騎士団――通称、魔女の護り手と呼ばれる者たちの話を思い出していた。騎士団は総勢三百人を数え、それぞれが剣術や弓術などの武術に長けた、王国を守護する集団だという。何度もせがんで話してもらっていた物語に比べると内容はおぼろげだが、騎士団長のことだけは、千鶴の記憶の中にも残されていた。


「……本当に、この人が騎士団長さんなの?」

「あ? なんだ、俺を疑っているのか?」


 ちょっとした疑念を抱きながら独白した千鶴の声に応じ、カルディアが眉根を寄せる。


「俺ぁ別にいいんだぜ、どっちだってよ。こちとら女房子供に出て行かれて、自暴自棄ってやつになってるんだからな。あのいけ好かねぇ魔法使いからもお声が掛かってる。今の俺には、名誉なんてクソの足しにもならねぇもんだ。金が貰えるっていうなら、その方がよっぽどいい」

「お気を悪くされたのなら謝ります。他意はありません。ただ、祖母から聞いていたお話の騎士団長さんとは、その、あまりに違っていたので」


 祖母が話していた騎士団長はとても義理堅く、身持ちが堅いという印象があった。きっちりと礼服を着こなし、身だしなみにも気を使う、紳士的な人物だと思っていたのだ。それは断じて勝手な妄想などではなく、実際に祖母から聞かされていたことだった。

 一体何がこの人を変えてしまったのだろうと千鶴は思うが、もしかしたら、カルディアという男の本質はこちら側が正しいのかもしれない。それとも、長く続く冬が、身持ちの堅い騎士団長の人となりをも変えてしまったというのだろうか。

 そのようなことを考えていると、千鶴は突然の寒気を覚え、身体をぶるりと震わせた。同時に鼻がむず痒くなったかと思うと、くしゅん、とくしゃみをする。その瞬間、どこかで何かが弾けたような破裂音が聞こえ、何の前触れもなく辺りが暗闇に包まれた。

 これを偶然と捉えるほど、千鶴も愚かではない。何が起こっているのかは理解できずとも、自分自身が原因であることは明白だった。


「ご、ごめんなさい、私――」


 申し訳なく思いながらそう言いかけると、暗闇をものともしない足音が近づいてきて、千鶴の肩にぶつかった。前のめりになった身体を誰かが咄嗟に支えるが、腰に回された腕は、すぐに離れていく。


「洋灯が壊れただけだ」


 ノワールの冷静な声が告げた。


「代わりの洋灯は?」

「ここにはない。母屋まで取りにいかねぇとな」


 暗闇に目が慣れてくると、薄ぼんやりとだが人影が浮かび上がってくる。てくてくと歩いているのはノワールだけで、他の者はただじっとしていた。


「火を熾す。薪はどこだ?」

「私が持っています」

「来い」


 ノワールはそう短く言ったかと思うと、千鶴の腕を正しく掴み、暗闇の中を歩いていく。囲炉裏の部屋に足を踏み入れると、千鶴の腕の中から薪を引き抜こうとした。しかし、千鶴は首を横に振ると、目の前に伸びてきたノワールの手を掴んだ。


「火を熾すのは私の仕事です」

「……そうか」


 咄嗟に掴んでしまったノワールの手はとてもあたたかかった。千鶴があたたかいと感じている分だけ、ノワールは千鶴の手を冷たく感じているはずだ。

 何となく名残惜しいような気持ちを抱きながらノワールの手を離した千鶴は、小上がりに身を乗り上げると、囲炉裏に薪を組み上げた。手袋を外した手で干し草をやわらかくなるまで揉みしだき、組んだ薪の中に押し込んでから、マッチを擦って火をつけた。

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