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「――くしゅんっ!」


 千鶴が特大のくしゃみをすると、頭から被っていた干し草が一気にはじけ飛び、辺りに散乱した。ぱら、ぱら、という音をたてながら、こんもりとした干し草の山が崩れ、そこから千鶴の姿が現れる。

 これはまずいことになった。間違いなくノワールに怒鳴りつけられる。いや、それ以上のことが起こるに違いない。これはまさに、万事休すというやつだ――千鶴は顔面を蒼白にさせ、愕然としながら、ゆっくりと顔を上げた。

 まるで時間が止まってしまったかのように――確かに時間は止まっているのだが――千鶴の目の前にいる男たちは、ぴたりと動きを止めている。

 少し手を伸ばせば触れられる距離にいるブランは、目を大きく見開かせ、傷のある顔に驚愕の表情を貼り付けていた。反射的にだろう、その手にしていた大剣を構え、千鶴に向かって突きつけようとしているのが分かる。

 対してノワールは、見るからに呆れ果てたという様子を隠そうともしない。やれやれとでも言わんばかりに肩をすくめ、明後日の方を向いたまま――やはり動きを止めていた。


「……なに? これは、どういうことなの……?」


 千鶴には訳が分からなかった。ノワールとブランは、まるで蝋人形か何かのように、ぴくりとも動かなくなってしまっていたのだ。呼吸さえしていないように見える。はっとして馬たちの方に目をやると、セシリアとデジレも、剥製のように作り物めいた状態になっていた。

 ゆっくりとその場に立ち上がった千鶴は、身体中に干し草をまとわりつかせたまま、ブランとの距離を縮めた。だが、どれだけ近くに寄ろうとも、ブランは微動だにしない。ガラス玉のような目が千鶴の姿を追いかけることも、手にしている大剣の切っ先が突きつけられることもなかった。その目は大きく見開かれたまま、ただ一点を、じっと睨んでいる。

 千鶴は手を伸ばし、恐々とではあるものの、ブランの身体に触れようとした。それが本当に生きた人間なのかどうか、確かめなければならないと思ったのだ。何かの拍子に魂が離脱し、ただの抜け殻になってしまったのではないかと、そう思ってしまうほどには、内心パニックを起こしていた。


「その男に触れるな、チヅル」


 その声を聞いて、千鶴は我に返った。いつものように朗らかだが、どこか厳しい声がそう告げる。声が聞こえた方に目を向けると、開いていた馬屋の戸口から、アンジエールが顔を覗かせていた。


「アンジエール!」

「無事か?」

「私は大丈夫だけれど……」


 千鶴はブランに触れかけていた手を引くと、馬屋の中をぐるりと見回した。全員が蝋人形と剥製になってしまっているこの状況を、果たして無事と称して良いものかどうか分からない。そう考えた途端、言い知れぬ恐怖が襲い掛かってくるのを感じた千鶴は、慌ててアンジエールに走り寄った。


「これは一体どういうことなの? どうしてみんな動かなくなってしまったの?」

「時間がない、詳しい話は後にしよう。今は一刻も早くここを離れなければならない」

「でも――」

「案ずるな」


 アンジエールは不安に震える千鶴の目を見つめてから、すっ、とノワールに視線を向けた。


「すまないが、ノワールのやつを起こしてやってくれないか? 君が触れれば目を覚ますだろう」

「触れるだけでいいの?」

「ああ、頼む」


 千鶴は、ブランに対してそうしようとしたように、ノワールの腕にそっと手をかけた。すると、ノワールは途端に身体のバランスを崩してよろめき、すぐ後ろにある柵に背中をぶつける。そのままずるりと落ちそうになる身体を支えようと、千鶴は咄嗟にノワールの腕を掴んだ。


「大丈夫ですか?」

「……何だ? どうなっている?」

「悪いが今は説明をしている時間がない。大急ぎで荷物をまとめてくれ。すぐに出発だ」


 ノワールは釈然としない様子だったが、アンジエールの声を聞いて頷くと、すぐに馬屋を出て行った。未だ状況を把握しきれていない千鶴は、馬屋を出て行く背中から視線を引き剥がし、すぐ傍らにいるアンジエールを見る。


「次はセシリアを起こそう。我々には彼女の力が必要だ。鞍の付け方は知っているな?」

「うん」


 アンジエールは落ち着いた様子だったが、今は急がなければならない理由があるようだ。

 千鶴は次々に質問したくなる気持ちを抑え、セシリアの身体にも手を触れた。直前まで剥製のようだった身体は一瞬にして生気を取り戻すが、寸前の警戒心をも蘇らせてしまったらしい。


「平気だよ、セシリア。大丈夫だから」


 何の根拠もない言葉でなだめながら、千鶴はセシリアの顔に手の平をゆっくりと這わせた。鼻筋や顎の下を撫でてやりながら、静かに声をかけ続ける。落ち着いた頃を見計らって手綱と鞍を装着し、柵を外すと、セシリアを馬屋の外まで連れ出した。


「デジレは?」

「彼は必要ない」


 アンジエールは切り捨てるようにそう言ったかと思うと、千鶴の前を歩き出す。セシリアの手綱を引きながら慌ててその後ろをついて行くと、向こう側にノワールの姿が見えた。その傍らには、ビビアンが立っている。


「よかった、ビビアンさんも無事で――」


 ビビアンに怪我はないようだった。しかし、他の者と同じように、その場に立ち尽くしたまま、ぴくりとも動かない。千鶴は咄嗟に腕を伸ばし、ビビアンの身体に触れようとした。ノワールやセシリアに対してそうしたように、ビビアンのことも目覚めさせようとしたのだ。

 しかし、千鶴の指先がビビアンの腕に触れようとした刹那、その手をノワールが掴んだ。咄嗟に見上げた横顔には、何かに対して失望しているかのような、悲しみを帯びた表情が浮かんでいるように見える。


「行くぞ」

「え、でも――」

「後のことは自分でどうとでもするだろう」


 ノワールは千鶴の腕を掴んだまま、ぐいぐいと引きずるようにして歩き出した。後ろ髪を引かれるような思いで振り返ると、後ろをついて来ていたアンジエールが、まるで地面に模様を描くように、摺り足で歩いている姿が目に入った。


「おい、さっさと歩け」


 家の敷地の至るところに、あの黒いマントを羽織った者たちが棒立ちになっていた。扉や窓など、逃げ道となり得るすべての場所を封鎖していたらしい。ノワールは進行の邪魔をしている黒い影の間を縫うようにして進むと、家の前にある通りに出た。

 その瞬間、しん、と静まり返っていた世界に、何の前触れもなく音がよみがえってきた。すぐ目の前をがたごとと荷馬車が通り過ぎていったかと思えば、積まれていた黒い石が少し先でごそっと地面に落ちる。

 あっ、と千鶴が声を漏らし、反射的に手伝いに向かおうとするのを、ノワールが引き留めた。


「放っておけ」

「だけど」

「放っておくんだ」


 念を押すようにそう繰り返したノワールは、口笛を吹いてセシリアを自らの傍らに移動させると、素早くその背に跨った。千鶴は荷馬車から落ちた石を拾い集めている者の姿を横目に見ながら、差し出された手に掴まり、セシリアの背中に身を乗り上げる。

 石を拾い集めていたのは、千鶴とそう年格好の変わらない少女だった。剥き出しになっている御者台には、少女よりも小さな子供が、両手に息を吹きかけながら、寒さをしのいでいるのが見える。


「アンジエール」

「ああ、今終わった」


 ノワールの苛立たしげな声がその名を呼ぶと、アンジエールはくるりと尻尾を振り、家の敷地を飛び越えた。刹那、アンジエールが庭に描いていた模様が淡く発光するが、すぐに見えなくなる。


「行こう」


 アンジエールのその声を合図に、ノワールは馬を駆って走り出した。セシリアが荷馬車のすぐ隣を駆け抜けていく。千鶴は一瞬だけ、両手を真っ黒に染めながら、黒い石を拾い集めている少女と目が合ったような気がした。どうしてもその存在が気になって振り返る千鶴を、並走していたアンジエールが見上げてくる。


「どうした、チヅル」

「あの子たち、何を運んでいたの?」

「石炭だ」


 見えていなかったはずのノワールが素っ気なく答えた。


「道を戻った向こうの山に炭鉱がある。もう廃鉱になって久しい炭鉱だが、まだいくらかは取れるらしい。取れると言っても微々たる量だが、子供たちはそれを売って金にしている」

「子供が廃鉱に入って、石炭を掘っているの?」

「哀れと思うか?」

「それは……」

「あれがこの王国の現状だ」


 千鶴は思わずぞっとして、セシリアの背中で身体を縮こまらせた。何か見てはならないものを見てしまったかのような、罪悪感にも似た感情が身体中を萎縮させる。

 千鶴は自宅のリビングで、何度も似たような感覚に見舞われたことがあった。テレビの前に座り、世界中のニュースを耳にする度に、感じることがあった。しかし、それは自分とは何ら関係のない、ここではないどこか別の世界で起こっていることなのではないかと、そう感じていたのだ。

 働かざるを得ない状況にある小さな子供たちの映像を見て、ただ可哀そうにと思うことは、おそらく罪ではない。最も罪深いのは、見て見ぬふりをすることなのだろう。だが、人の行動の善悪を多数決ではかるのなら、圧倒的に多いのは後者の選択だった。中途半端に哀れむくらいならば、無関心でいる方がずっと賢明だと、千鶴は思う。

 小さな村の外に出てしばらく進んでいくと、森の中を通り抜ける一本の馬車道に入った。何組かの人々とすれ違うこともあったが、千鶴たちのように素のまま馬の背に乗っている者の姿は、当然ながら見られない。この寒さの中で馬車も使わず、ただ馬に跨っている姿は酷く滑稽だろう。

 だが、今の千鶴には、それだけのことを考えている余裕もなかった。駆け続けている馬の背で口を開けば、舌を噛んで痛い目に遭う。そうでなくても、今は誰かと話をしたい気分ではなかった。自分が立ち向かおうとしているもののあまりの大きさに、尻込みをしてしまいそうになっていた。


「手綱を頼めるか」


 手綱を引き、セシリアの速度をぐっと落とすと、ノワールが千鶴にそう声をかけた。千鶴がかじかむ手で手綱を受け取ると、ノワールは抱えていた大きな荷物の中から、厚手のマントを取り出す。


「君のマントだ」

「え、私の、ですか?」

「用足しの時に、ついでに買っておいた。長靴もある。それから、襟巻と手袋だ」


 あるならあるで、もっと早くに出してほしかった――などとは、言わない方がいいのだろう。そう思った千鶴は、手綱を片手に持ち直すと、ノワールの手からマントを受け取ろうとした。しかし、それよりも早く両手でマントを広げたノワールは、千鶴の身体を後ろからすっぽりと包み込む。赤黒い色をしたマントは、内側が起毛になっていて、とてもあたたかかった。

 次に手渡されたのは革のブーツだ。ブーツの内側には毛皮が貼り付けられている。教えてもいないのに、サイズは合うのだろうかと不安だったが、革のブーツは不思議と足にぴったりだった。


「私の足の大きさ、どうして分かったんですか?」

「手首から肘の長さ」

「……はい?」

「人間の足形は手首から肘の長さと大体同じだ」

「そう、なんですか」


 マントを羽織り、ブーツを履いて、マフラーと手袋を身に着けると、驚くほど身体が護られているように感じられた。これまでが心許なさすぎたのだろう。マントには何かが焚き染めてあるのか、春の風のようないい香りがする。


「ありがとうございます」

「軽装のままで旅はできないだろう」

「は、はい。でも、あの、お代は……?」

「君は金を持っているのか?」

「持ってはいませんけれど」


 あちらの世界に戻れば、祖母が用意してくれた口座の中に手付かずの貯金が残されているが、こちらの世界で日本円が使えるとは思えない。こちらへ来てからというもの、人の世話になってばかりだ。世話になるどころか、迷惑をかけてばかりだと思うと、千鶴は自分が嫌になってくる。

 そうした諸々の感情が顔に表れていたのか、少し先の様子を見てくると言って姿を消していたアンジエールが、戻ってくるなり不思議そうに首を傾げた。


「あたたかそうな装いになったな、チヅル」

「うん……」

「どうした? 何か気に入らなかったのか?」

「ううん、そんなことない」


 千鶴はそう言いながら、毛織物のマフラーに顔をうずめた。考えれば考えるほど不甲斐なく感じられ、泣きたくもないのに、涙がこぼれてくる。それを悟られまいと下唇を噛みしめるが、ごまかしようのない嗚咽が漏れると、背後の気配が僅かに動いた。


「おい、まさか泣いているのか?」

「ノワール」


 冗談だろうとでも言いたげな声が千鶴にかけられると、それを下から見上げていたアンジエールが、感心しないというふうな声を上げた。星屑を散らしたような目を忌々しそうに細め、ノワールのことを睨みつけている。だが、睨まれた当人は意に介さない様子のまま、荷物を鞍に括り付けると、千鶴から手綱を取り返した。


「一体何のために泣いている?」

「やめないか、ノワール」


 いつの間にか歩みを止めていたセシリアが、ノワールの号令で動き出すと、千鶴は反射的に両足の内側に力を込め、自らの身体を支えた。雪玉がつくことを嫌ったアンジエールは、大きな翼を広げ、ふわりと空中に浮かび上がる。

 何のために泣いているかなど、千鶴自身にも分からなかった。ただ、張り詰めていた糸がぷっつりと切れてしまったかのように、感情の制御が利かなくなってしまった。それだけのことだった。


「あまり泣くと凍瘡になるぞ」


 繊細さの欠片もないように感じられる言葉に、返事をする声はなかった。アンジエールは、怒りよりも呆れを強くした目でノワールを見てから、やれやれと頭を振っている。

 今の千鶴には、次々と溢れてくる涙を拭っては、早く止まってくれと祈るように念じ続けることしかできなかった。

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