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 ベッドから出て自由に歩き回ることが許されたのは、それから二日経ってからのことだった。

 千鶴としては、こうものんびりしていていいものなのかどうかという、不安感ばかりが増していたが、アンジエールやノワールに慌てている様子は一切見られない。千鶴にはそのような姿を見せまいとしているのかもしれないが、短い付き合いながらも、二人が慌てふためいている姿など、千鶴には想像することもできなかった。


「何かお手伝いできることはありませんか?」


 自分一人だけ何もしないでいることが忍びなく、千鶴はキッチンに立っているビビアンの背中にそう声をかけた。ダイニングからキッチンを覗き込んでいる千鶴を振り返ると、ビビアンは優しく微笑んで、首を横に振った。


「いいのよ、気にしないで」

「でも、私だけ何もしないっていうのは……」

「あなたは病み上がりなのだから、ゆっくりしていてちょうだい。もう少しでお昼だから、それまで本でも読んでいたらどうかしら」


 そう当たり前のような顔をして言うビビアンに向かって、千鶴は曖昧に微笑みかけると、その場でくるりと踵を返した。誰もいないダイニングの椅子に腰を下ろし、人知れずため息を吐く。

 家にいるほとんどの時間を慌ただしく過ごしていた千鶴にとって、暇を持て余すということは、半ば拷問に近い。何かしなければという強迫観念に縛られ、とても落ち着かない気持ちにさせられるのだ。

 それでも、本を読むことでこのざわざわとした気持ちが、少しでも落ち着きを取り戻すというのなら、喜んでそうしたいところだった。しかしながら、どの本も千鶴が見たこともない文字で、長々と文章がしたためられている。図鑑のような挿絵の多い本を眺めたりもしてみたが、いかんせん書いてある内容が分からないだけに、驚くほど早急に興味を失わせた。

 家の外からは、がつん、がつん、とノワールが薪割りをしている音が聞こえてくる。普段から話し相手になってくれているアンジエールは、周囲の様子を見てくると言って、朝早くに出て行ったきり戻っていなかった。ビビアンは終始忙しそうに働いている。

 自分にはやるべきことがあるはずだと、千鶴は常に焦りのようなものを感じていた。

 ここは千鶴にとって安全な場所だ。護られているというのがよく分かる。だからこそ、千鶴は自分が何もせず、何もできずに、ただ時間を無下にしているだけのような気がしてならなかったのだ。

 行かなければならないと思う。だが、どこへ行けというのだろう。誰も何も言わない中で、自分一人が先走れば、面倒に思われるのではないだろうか。何も知らないくせに、分かったようなことを言うなと、そう思われてしまうのではないか――千鶴は、つい疑心暗鬼になってしまうのだ。

 こちらへ来てからというもの、一進一退を繰り返すばかりで、少しも前には進むことができていない。


「はあ……」


 思わずついて出たため息は、自分自身の気を滅入らせるものでしかなかった。

 千鶴は何とか気分を変えようと思い、席を立った。閉じられた場所にいるという息苦しさから解放されるために、玄関の扉を開けた。ひんやりと冷えた空気は、たるみきった気持ちをしゃんとさせてくれるようでありながら、肌をちくちくと刺して、千鶴を家の中へ押し戻そうとしているようでもあった。

 千鶴は暖炉のあたたかな誘惑に負けそうになったが、家の裏側から聞こえてくる薪割りの音を頼りに、外へと足を踏み出した。

 家の裏手に回り込むと、ちょうど振りかぶった斧が振り下ろされる瞬間を千鶴は見た。たいした力も込められていないというのに、斧の刃先が触れただけで、薪が真っ二つに割れる。ノワールは手探りで次の薪を取ると、それを台の上に乗せ、同じ動きをまるで機械のように繰り返していた。


「そんなところで何をしている?」


 家の影からこっそりと覗き込んでいた千鶴に向かって、ノワールの呆れ声が言った。とうに気づかれているだろうとは思っていたが、千鶴はその声に思わず肩を震わせる。


「病み上がりだろう、家の中で大人しくしていたらどうだ?」


 珍しくも優しい言葉をかけてくれたことに、密かに感動しかけていた千鶴だったが、続く言葉に落胆してしまった。


「また倒れられでもしたら迷惑だからな」


 そうだろう、そうだろうと自らに言い聞かせながら、千鶴は憎まれ口を利いてしまいそうになる口を引き結んだ。優しい言葉をかけてもらえたなどと、勝手に勘違いをした方が悪いのだ。

 そうして千鶴が口を噤んだままでいると、どうやらそれを不可解に思ったらしいノワールが、薪割りの手を止めて顔を上げる。視線が交わったような錯覚の後、顔が逸らされた。


「なぜ黙っている?」

「今の気持ちを言葉にしたら、必要のないことまで口にしてしまいそうだったので」

「私に気を使っているのか?」

「無駄な言い争いをしたくないだけです」

「……それは殊勝なことだな」


 千鶴の言葉を受けてそう言ったノワールは、薪割りを再開させた。

 この男の言うことをいちいち真に受けていてはだめだと思いながら、このまま立ち去るのも逃げるようで癪だと考えた千鶴は、ゆっくりとノワールに歩み寄った。ノワールは千鶴の気配を一瞥するが、薪割りの手を止めようとはしなかった。

 千鶴は何も言わず、周りに散乱している薪を拾って歩く。抱えきれないくらいの薪を拾い集めると、それを馬屋の中に運んだ。やはり、こうして身体を動かしている方が、千鶴には性に合っているようだった。じっとしていると、どうしても息が詰まる。

 もはや何を言っても無駄だと悟ったのか、ノワールは何も言わずに、千鶴の自由にさせてやろうと決めたようだった。


「もう! だめじゃないの、ノワール!」


 しばらくすると、食事の支度を終えたらしいビビアンが二人の前に現れた。どうやらノワールを呼びに出てきたらしいが、千鶴が薪を拾っている姿を見ると、途端に悲鳴のような声を上げた。


「病み上がりの子に薪割りを手伝わせるなんて!」


 ビビアンは早足で詰め寄ると、腰に手を当て、至近距離から見上げるようにしてノワールを睨み付けている。怒った顔まで美しいと場違いなことを考えながら、千鶴は苦笑いを浮かべていた。何でもかんでも、ノワールばかりが責められるというのは、理不尽なことだ。


「ごめんなさい、ビビアンさん。私が勝手にやっているだけなんです。もうすぐ終わります」

「手伝ってくれるのはありがたいことだけれど、それでぶり返してしまったら、元も子もないでしょう?」

「身体を動かしていないと、どうしても落ち着かなくて。ビビアンさんのおかげで調子も悪くありませんし、それに、いつまでものんびりはしていられませんから」

「わたしはあなたに安静にしていてもらいたいだけなの」

「ありがとうございます。でも、もう本当に大丈夫です」


 千鶴はそう言いながら足元に転がっていた薪を拾い上げると、両腕からこぼれんばかりのそれらを抱えて馬屋に向かった。壁際に沿って積み上げられている薪を眺めながら、これでしばらく心配はいらないだろうと考える。

 額の汗を拭って軽く息を吐くと、馬屋の奥の方で退屈そうに蹲っていたセシリアが、よっこらしょと立ち上がった。白い息を吐き出しながら近づいてきたかと思うと、不満を漏らすように小さく声を上げる。


「あなたも、もうすっかり元気ね、セシリア」


 手と服についた木くずを払い、千鶴はセシリアに歩み寄った。柵の上から伸びてくる長い首を両腕で受け止め、鬣を梳くようにして撫でてやる。上目遣いに見てくる眼差しは何かを訴えかけてくるようで、千鶴はそれを問うように首を傾げた。

 セシリアも旅立ちの時を待っているのだろうか。悠長にしている場合ではないだろうと、そう釘を刺されているような気もする。このままで良いわけがない。千鶴にそう思わせるほど、セシリアの眼差しは力強いものだった。


「でも、どうしたらいい? 私はルミエールさんを助けたいの。どうしたら助け出せると思う? お祖母ちゃんが残してくれた石をすべて砕いたとして、それですべてが解決する? 私は、そうじゃないと思うの。たとえルミエールさんを無事に救い出すことができて、この国に春が訪れたとしても、私の望みはきっと違うところにあるんだ」


 大抵の物語はハッピーエンドで終わりを迎える。めでたし、めでたしで締めくくられることの方が、ずっと多い。だが、現実は違う。世界は理不尽で、不公平で、不平等だ。誰かが笑えば、どこかで誰かが泣いている。嬉しいことがあれば、悲しいこともある。世界はそうして均衡を保っているのだろう。表裏一体というやつだ。

 この物語の結末は、千鶴にとってのハッピーエンドにはなりえない。

 魔女の王国に巣食っていた悪は払拭されました。長きに渡って国民を苦しめていた冬の時代は終わりを迎え、新たな春が訪れます。根雪は溶け、土は緑を芽吹かせるでしょう。蕾はいずれ花となり、王国を彩ります。人々は寒さに凍えることも、食べるに困ることもなくなるのです。さあ、新たな女王を戴きました。これで皆、幸せに暮らしていくことができるでしょう――とは、ならない。

 千鶴の望みは、皆が祖母を忘れないでいてくれることだ。アンジエールはそれを難しいことだという。比較され続けるという重圧に、千鶴自身が耐えられなくなるだろうと言った。もしかしたら、その通りなのかもしれない。だがしかし、祖母を忘れたこの世界にも、同じように耐えられなくなるだろうと、千鶴は思うのだ。

 同じことばかりを繰り返し考えては、泥沼にはまっていくようだった。

 その時だ。今の今まで千鶴に撫でられながら大人しくしていたセシリアが、急に落ち着きを失いはじめたのだ。そわそわと頭を振り、干し草の敷かれた地面を、前足で何度も踏みつけている。

 青毛の馬、デジレもすっくと立ち上がったかと思うと、外の気配を窺うように、くるくると耳を動かしていた。


「……どうしたの?」


 馬屋の外にはノワールとビビアンがいるはずだ。千鶴はセシリアから離れると、二人のところへ戻ろうとした。だが、何やら様子がおかしい。外が妙に騒がしかった。

 ビビアンを訪ねてくる者は少なくないと聞いていたので、おそらく魔女の助力を乞いにやってきたお客か何かだろう――そう考えた千鶴が馬屋から足を踏み出そうとした時、その身体が強い力で押し戻された。


「えっ? な、なに?」

「静かに」


 千鶴の身体を押し戻したのは、他ならぬノワールその人だった。肩を押さえつけられたかと思うと、そのまま壁際まで押しやられる。目の前が真っ黒に遮られると同時に、頭の中が真っ白になった。


「ここも見つかってしまったようだ」


 ノワールの淡々とした声がそう告げた。

 千鶴はその言葉の意味をよく噛みしめてから理解すると、意を決して顔を上げた。ノワールの顔が目と鼻の先にあったが、心臓は別の意味で大きく震えていた。


「あのブランという人に?」

「ビビアンは私たちが頼れる数少ない知己だ。いずれ露顕するだろうとは思っていたが、あいつにしては到着が早かったな」


 耳を澄ましてみると、ビビアンが何者かと話している声が聞こえてくる。話している内容までは分からないが、不穏な空気が漂っていることだけは感じ取れた。


「どうしたらいいんですか?」

「外でビビアンが時間を稼いでくれている。その隙に逃げるんだ」

「そんな、今度はビビアンさんを囮にするつもりですか?」

「あいつなら大丈夫だ、心配はいらない」

「だめです、もう耐えられない。私なんかのために、誰かが酷い目に遭うなんて、もうこりごり――」

「もっと声を低くしろ」


 いつかの時のように、手の平で口を塞がれた千鶴は、ノワールの手首を両手で掴むと、それを引き剥がそうとした。だが、その手はとてもではないが、びくともしない。唸り声をあげて抵抗しようとするものの、ノワールの手の力は増すばかりだ。


「――おい、そこにいるのか!」


 次の瞬間、馬屋の外から怒鳴り声が聞こえてくる。ノワールが小さく舌を打った。何も映さないはずの目が千鶴を睨み、額が触れ合うのではないかと思うほど近くに、顔を寄せてくる。


「いいか、君はアンジエールが戻るまで、ここでじっとしていろ。絶対に馬屋から出るな。分かったら、黙って頷け」


 千鶴はそのあまりの迫力に圧され、考えるよりも先に、震えるようにして首を縦に振ってしまっていた。空気の動きを感じ取り、千鶴が頷いたのを確認したノワールは、迫る足音と怒号を振り返る。


「あいつ――」

「……え?」


 ノワールが何かを囁いたような気がして、千鶴は問い返すような声を上げた。しかし、ノワールは頭を振りながら千鶴の首根っこを掴んだかと思うと、ほんの僅かな躊躇いも感じさせず、干し草の中に放り込んだ。


「早く干し草の中に隠れろ」


 こんもりと積まれている干し草の山を唖然として眺めていると、ノワールが促すように背中を押してくる。逃げ道がないとはいえ、あまりにお粗末な作戦ではないだろうか。千鶴はそう思ったが、言い返す間も与えられず、頭上からは大量の干し草が浴びせかけられる。

 馬屋の外から人が入ってきたのは、それとほとんど同時のことだった。ノワールは慌てもせず、手にしていた残りの干し草をセシリアに与えているのが、千鶴にも被った干し草の隙間から見えていた。


「これはこれは、ノワール閣下じゃあないか」


 以前は背中に担いでいた大剣をその手に構え、頬に傷のある男――ブランは、ノワールの姿を捉えるなりにやりと笑い、いやに猫撫で声でそう言った。ノワールは背中でその声を聞きながら、敵意を露にしようとしているセシリアを優しくなだめている。

「こんなところで会うことになるとは、思ってもみなかったぞ。妙な偶然もあるものだな。それとも、女王に忠誠を誓う騎士殿は、崇高な任務の最中というわけか?」


「申し訳ないが、名乗りを上げてはくれないだろうか。貴殿が何者なのか、私にはとんと見当がつかない」


 冷ややかな声がそう告げた刹那、ブランが手にしていた大剣をノワールの背中に突きつけた。その先端は微動だにせず、ノワールの心臓を背後から一直線に突き立てんとしている。しかし、そうされている当人は至って平然としており、恐れている様子は微塵も感じさせなかった。


「ノワール閣下ともあろう男が、ずいぶん迂闊だったんじゃないか?」

「何の話だ?」

「しらばっくれるなよ。例の小娘を出せ。ここにいることは分かっているんだ」

「さて、知らんな」

「二度は言わんぞ」


 ブランが脅すような口振りで言う。柄を握る手に力を込めると、大剣の切っ先が僅かに上下した。ノワールの羽織っていた黒いマントが音もなく裂け、本物の血のような色をした裏地がちらりと覗いた。

 ノワールはそっと目を伏せたまま、ふっ、とこぼすように笑った。ブランは不可解そうな面持ちを浮かべ、険しげに眉を顰めた。


「私を脅したところで娘は現れない。既にアンジエールとこの地を離れている」

「……何だと?」

「残念だったな。さっさと北の城に戻って、大魔法使い様とやらに報告をしたらどうだ? 所望の娘を取り逃がしたとな」


 アンジエールの名を聞き、はじめこそその表情に警戒の色を浮かべたが、ブランは小さく頭を振ると、口の端を持ち上げるようにして笑った。


「お前、俺たちがいつからここを見張っていると思う? あいつが一人で飛び去ったという報告は受けている。あの娘はここを出てはいない」

「ならば、自由に調べて回るがいい。どこを探しても娘はいない」

「では、そうさせてもらおうか」


 千鶴は思わず声を上げてしまいそうになった。隠れていろということは、匿ってやるということではないのか。心臓の鼓動が速まって、それと同時に、自らの意思とは反して呼吸が荒くなってくるのを、千鶴は感じていた。

 絶対に見つかりたくはない。だが、もし捕まってしまったとしたら、一体どうなるのだろう。そもそも、北の魔法使いの真の目的は、この王国に春をもたらすことだと聞いている。その条件とは、一体何だったか。

 千鶴は、瞬時に聞かされた話のすべてを、頭の中で順序立てて整理し直した。

 まずは、祖母がこの王国の各地に残した石を、すべて破壊する必要があるという。石が破壊される度に、祖母の記憶が王国から奪われていき、石に込められた核なる力が、破壊者に流れ込む。そして、最後の石が破壊されるその瞬間に、ダイアモンドの指輪を手にしていた者が――そこまで考えた時、千鶴は出し抜けに、鼻にむず痒さを覚えた。

 だめだ、今だけは我慢をしなくてはならない。千鶴は歯を食いしばり、必死になって耐えようとした。だが、鼻の頭に意識を向ければ向けるほど、むずむずとした違和感に全神経が集中してしまう。ゆっくり息を吐き出すと、顔にのった干し草の先端が、まるで生き物のように鼻をくすぐるのだ。

 ああ、もう我慢ならない――千鶴は心の中で、ただただ謝った。心底申し訳なく思いながら、自らの内側に蓄積された鬱憤を吐き出すが如く、干し草を吹き飛ばす勢いで、溜め込んでいた我慢を一気に解放してしまった。

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