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「昨夜はノワールとゆっくり話ができたようだな」


 ビビアンが運んできた食事を寝台の上で大人しく食べていると、ダイニングから部屋の中に入ってきたアンジエールが、そう声をかけてきた。

 ちょうどスープを飲んでいた千鶴は、それが気管に入り込んで激しく咳き込み、慌てて水の入ったグラスに手を伸ばす。ごくごくと水を飲んでいる姿を、アンジエールは面白いものでも見るように眺めていた。


「な、なに? 起きていたの?」


 呼吸が落ち着いてきた頃にそう問うが、アンジエールは思わせぶりに目を細めるばかりで、何も言おうとしない。それが余計に気まずく、千鶴はアンジエールから目を逸らすと、残りのスープを口に運んだ。


「あいつは素直ではないからな。時々傷つくようなことを言われるかもしれないが、あまり気に留めるな」

「……素直すぎるの間違いではなくて?」


 千鶴は、開け放たれたままになっている扉の向こうまで聞こえないよう、可能なかぎり声を低くして言った。


「私、本当のことしか言われた覚えがない」

「素直ではない正直者なのだ。肝心なことは何も言わないが、嘘も吐かない。ノワールは昔からそういう男だ」

「私のいた世界ではね、アンジエール。そういう人のことを面倒臭いって――」

「誰が面倒臭いだと?」


 突然聞こえてきた声に、千鶴は小さく悲鳴を上げ、手にしていた器を落としてしまった。その木の器はころころと転がり、ノワールの足にぶつかって止まる。

 ノワールは足許に転がってきたものを不思議そうに拾い上げると、首を傾げた。


「私の話をしていたように聞こえたが」

「チヅルのいたところでは、お前のような男のことを面倒臭いというそうだ」

「ちょっと、アンジエール!」


 千鶴は顔に熱が集中するのを感じて、冷え性でひんやりとしている両手を自らの頬に押し当てた。実際に面倒臭いかどうかはさておき、余計なことを言うのはやめてほしいと切に思う。


「ほう、私は面倒臭いのか」

「別に、あなたを面倒臭いとか、そういうふうに言ったのではなくて」


 千鶴はアンジエールを睨み付けた。しかし、当の本人は明後日の方に目を向け、耳の裏を後ろ足で引っ掻いている。我関せずという態度を装っていた。


「で、でも、ノワールさんが正直者だということは本当ですし、それに、正直者っていうのは言葉を変えると、ええと、誠実だということです。決して、あの、面倒臭いだなんて、そんなことは――」

「チヅル、どうやら君は墓穴を掘っているようだぞ」


 涼しげな顔をしてそのように言うアンジエールを、千鶴は忌々しく思った。誰のせいで必死に取り繕っていると思っているのだろう。

 耳まで真っ赤になっている千鶴は、扉の前に立っているノワールに恐る恐る目を向けた。心なしか頬を引き攣らせているように見えるのは、千鶴の気持ちに後ろめたさがあるからだろうか。


「アンジエール」


 いつも通りの厳しい声に呼び掛けられ、アンジエールは頭を傾ける。ぴんと立ち上がっている耳が、ふわりと揺れた。


「ビビアンと少し出てくる」

「そうか、分かった」

「その女王陛下から目を離さないようにしてくれ。これ以上の面倒はまっぴらだからな」

「もちろん、そうしよう」

「それから、あまり甘やかすな。癖になる」

「……私は猫か何かですか?」


 それなら首輪でもつけて、室内に閉じ込めておいてくれればいいのにと、皮肉にもそう思っていると、嫌味っぽく笑ったノワールが千鶴の気配を一瞥した。


「猫みたいに可愛げがあれば話は別だったのだがな」

「なっ――」


 急いで何かを言い返さなければと思うが、咄嗟には反論の言葉が見つからない。唇を尖らせて悔しがっている千鶴の顔など見えているはずもないが、ノワールはどこか勝ち誇った表情を見せながら踵を返した。程なくして部屋に顔を出したビビアンも、アンジエールに留守を頼んでから、千鶴に向かって手厳しく釘を刺した。


「いいこと? 少しくらい調子が良くなったからって、あまりうろうろしないのよ。何か美味しいものを買ってきてあげるから、エルドールとお喋りでもして、大人しく待っていてちょうだいね」


 このところ、白湯のようなものしか口にしていなかった千鶴は、美味しいものと聞いてつい嬉しくなってしまうと、従順にこくりと頷いて見せた。ビビアンはそれに満足したのか、目のくらむような美しい微笑を浮かべると、ノワールを引き連れて家を出ていく。

 ビビアンが言っていた美味しいものとは、一体何だろうと千鶴は考えていた。

 千鶴が風邪を引くと、祖母はよくプリンを蒸してくれた。店で売っているような、ふわふわ、とろとろのプリンではない。スプーンを刺すと程よい弾力があって、存在感のある、昔ながらのプリンだった。口に入れるとぷるんと弾んで、舌で押し潰すようにして食すと、甘い風味がふんわりと鼻を抜けるのだ。ほろ苦いカラメルと和えて食べる瞬間が最高に幸せで、風邪を引いたことを嬉しく思うほどだった。

 雅やよくアイスクリームを差し入れてくれたが、こちらの世界に、プリンやアイスクリームがあるとは考えにくい。そう思って千鶴が訊ねると、アンジエールはさも当然という顔をして頷いた。


「あるぞ」

「やっぱりそうだよね、あるわけが――って、え? あるの?」

「ああ、チトセが作って食べさせてくれたからな。調理法も残されているから、食材が揃えば作れるはずだ。一時は都でも大流行で、臣民たちも舌鼓を打っていた」


 祖母は料理上手だった。お菓子作りも得意で、小学校に上がってからは、千鶴も一緒にキッチンに立っていたものだった。

 ここへ来てからというもの、忘れかけていた祖母の記憶が次々に蘇って、千鶴の心は不安定に揺れている。声も、顔すらも忘れかけていたというのに、今はすぐ傍にいてくれるような気さえしていた。それは嬉しいことのはずなのに、どういうわけか、千鶴を酷く落ち着かない気持ちにもさせていた。


「チトセは山ほどの書物をこちらに持ち込んで、あちらの世界のことをいろいろと教えてくれた。料理はもちろん、織物や焼き物、ガラス細工などもだ。おかげで、都の職人たちは毎日城に通い詰めだった」

「お祖母ちゃんは、人に何かを教えるのが上手だったから」

「とりわけチョコレートを食べたことのない者は不幸だと言って、魔法でカカオの木を生成し、農園を作ったほどだ。この寒さで木が枯れていないといいが」


 祖母のチョコレート好きは類を見ない。出掛ける時は常に持ち歩き、途中で行きつけの店に立ち寄ると、必ず新しいものを買って帰った。部屋にある机の引き出しには、様々な種類のチョコレートがいつも隠されていた。

 だが、まさかチョコレートを食べたことがない者は不幸だからと、魔法でカカオの木まで生成してしまうとは、物凄い執念だと千鶴は思う。

 それからしばらくの間、千鶴はアンジエールから聞かされる祖母の思い出話に、終始耳を傾けていた。どれも面白おかしい楽しげなものばかりで、時折腹を抱えて笑い転げるほどだった。

 しかし、不意に思い出すのだ。千鶴が役目を果たしてしまえば、こうして祖母の話をすることもなくなる。こちらの世界でも、あちらの世界でも、それは同じことだ。そして、千鶴はまた一つずつ、祖母のことを忘れていく。

 そういえば、と千鶴は口を開いた。


「アンジエールはお祖母ちゃんの話をたくさんしてくれるのに」

「うん?」

「ノワールさんは、あまりお祖母ちゃんのことを話してくれないなと思って」


 千鶴はふと疑問に感じたことを口にしただけだったが、アンジエールの表情が少しだけ強張るのを見て、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうかと不安になった。


「あいつは、まあ、そうだな」


 アンジエールにしては珍しく歯切れの悪い様子だった。どこか居心地が悪そうに、後ろ足で首の辺りを掻いている。それは犬がするのと同じように、自らの緊張を和らげようとしている行動に思えた。


「これからも話したがることはないかもしれない」

「……どうしてなのか、聞いてもいい?」


 千鶴が控え目にそう問えば、アンジエールは僅かに困ったような表情を浮かべ、眉間に皴を寄せた。耳をぱたりと後ろに倒したかと思うと、丸い目をアーモンド形にし、心許なさそうに千鶴を見る。


「ノワールは、他の者たちと比べても、チトセに対する思い入れが深すぎるんだ」

「思い入れ?」

「あいにく、私はそのような感情を持ち合わせていないので分かりかねるが、あえて言葉にするのなら、他の者たちよりも、より親密な間柄だったと言えるかもしれない」

「親密って、どういうこと? もしかして、二人は恋をしていたということ?」

「その恋というものが私にはよく分からない」


 自分には恋愛感情というものがないからな、と言うアンジエールの様子は、酷くあっけらかんとしていた。そのことを悲観しているふうはない。おそらく、本当に恋に伴う感情を理解することができないだけなのだろう。


「こういう話は私よりもルミエールに聞いた方がいいだろう」

「でも、ルミエールさんはここにはいないし」

「まあ、そうだが」


 アンジエールは小さく息を吐いた。


「プティーは二人の間に何かが起こって、チトセが戻らなくなったのではないかと、ずっと疑っていた」


 俗にいう、恋愛感情のもつれというやつだろうか。いや、それとは違うような気がする。

 ノワールが祖母の話をする時は、決まって祖母と自分を比べていることに、千鶴は気づいていた。千鶴の中にある祖母の面影を探そうとするかのような、どこか探るような気配を察していた。だが、それをどこにも見つけることができず、失望しているようにも感じられていたのだ。本当はまた会いたいと願っているのに、それが叶わないことを心の奥底で嘆いている。

 出会った人が千鶴と祖母が似ているという中で、たった一人、ノワールだけが似ていないと断言をした。それは、目が見えないからこそではなく、ノワールの気持ちの問題なのではないか。常に比べて見ているからこそ、違うと言い切ることができるのではないかと、千鶴は思っていた。


「……ノワールさんは、まだお祖母ちゃんのことを思っていると思う?」

「彼女を思っているのはノワールだけではない。だが、チトセに最も執着しているのは、ノワールなのかもしれないな」

「アンジエールも?」

「もちろんだ。私は彼女の身近に仕えていた従者だからな。そして、今もまだ忠誠を誓い続けている。こうして君に力を貸すのは、君が次期女王だからという理由もあるが、チトセがそれを強く望んでいると思うからだ。チトセが君にこの王国の話をして聞かせていたのは、すべてを譲り渡す意図があったからだろう」

「……この王国の女王になったら何でもできるって、あなたは言ったでしょう?」

「この世の理に反しない限りはな」

「だったら、みんなにお祖母ちゃんの記憶を残したまま、私が次の女王になることも可能なの?」


 それなら、と千鶴は思った。それならば、この旅を引き受けることは容易だった。何の後ろめたさも感じずに、この王国のために働こうと思うことができる。すべての人々が、祖母のことを忘れず、覚えていてくれるのなら。

 しかし、アンジエールはあまりいい顔をしなかった。


「可能ではある。が、推奨はしない」

「なぜ?」

「以前にもそう願った女王がいたという記録は残されているが、結局は耐えきれず、臣民たちの記憶に手を加えてしまった。前の女王が偉大であるほど、つらい思いをすることになる。チヅルの女王としての資質は計り知れないが、国民は君ではなく、チトセを望むようになるかもしれない。もしそうなった時、君は自分が耐えられると思うか?」

「それは、分からないけれど……」

「国民ばかりではない、城にいる臣下の多くが君の政に納得できず、反旗を翻すことがあるかもしれない。前女王と現女王、比べる者が二人しかいない場合、大体の場合は思い入れのある、そして美しい思い出とされている前女王に加担したくなるのが、人の常というものなのだ」


 黙り込んだ千鶴を見て、アンジエールは自らの感情を鎮めようとするかのように、ふう、と息を吐き出した。


「だが、最終的にどのような判断を下すか、それを決めるのは君自身だ。君がどうしてもというのであれば、それを止めることは誰にもできない。もしこの先も旅を続けていくのなら、ゆっくり考えればいい。チヅルが女王となった時、自ずと答えが見つかるはずだ」

「そうなると、遅かれ早かれネイジュさんにも会うことになるのでしょう?」

「そうだな」


 千鶴の問いに、アンジエールは少し渋い顔をした。


「それに、ほら、ルミエールさんのことも助け出さないといけないしね」


 気分を変えようとして千鶴がそう意気込むと、アンジエールは驚いたように目を見開いてから、少しだけ呆気にとられたような表情を浮かべる。

 だが、またいつものようにくつくつと笑ったかと思うと、星屑が散ったような双眸を煌かせ、どこか希望に満ちた眼差しで千鶴を見つめていた。

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