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軽い食事の後、酷く苦い薬を飲んだ千鶴は、まるで招かれるようにして、再び眠りの中へと落ちていった。あれだけ眠りこけていたというのに、まだ尚眠れるものなのだと、次に目を覚ましたときに呆れてしまうほどだった。
あれから半日ほど経過しただろうか。ベッドに横たわっていた身体を起こした千鶴は、薄布越しに部屋を見回した。机の上にあるランプは火を灯していないので、室内に明かりはない。窓の外は既に暗く、夜を迎えているのが分かった。規則正しい寝息が聞こえて身を乗り出すと、床にぺたりと伏せたアンジエールが、すやすやと眠っている姿を見ることができた。
セシリアを探して飛び回っていたのだ、きっとアンジエールも疲れているのだろう。ここへ来てからも、ずっと傍についていてくれたようだ。もしかしたら、ろくに眠ってもいなかったのかもしれない。
千鶴はちくりと胸を刺すような罪悪感を抱きながら、寝台から抜け出した。
アンジエールはよく眠っているようで、千鶴が寝台から抜け出しても、目を覚ます様子はない。試されているのかもしれないと思い、軽く耳を引っ張っても、反応はなかった。獣の本能はどこへ行ってしまったのだろう。それとも、ここは警戒心を完全に放棄しても構わないほど、絶対的に安全な場所なのだろうか。
いつの間にかネグリジェのようなパジャマに着替えさせられていた千鶴は、寝台の足元に揃えて置かれていた部屋履きに爪先を引っ掻けた。窓辺に歩み寄って外を眺めてみるが、分厚い雲が邪魔をして、下界には月明りも届かず、驚くほど暗い。
ここは、どの程度の規模の村なのだろう。どのような人々が暮らしているのだろうか。どのような姿で、どのような生活を送っているのだろう。そうした興味は湧くものの、千鶴は知るのが怖いとも感じていた。この世界が、祖母から聞かされていた世界とは、あまりにかけ離れていたからだ。
「……トイレ」
何日か前まではその辺りで済ませていたが、ここではそういうわけにもいかない。そもそも、その辺りで用を足すことに何の抵抗もなくなってしまった時点で、現代人としては非常に問題だと千鶴は自覚している。
千鶴は炎が消えかけていた暖炉の前を通り過ぎ、右側に見えていた扉に手をかけた。そっと開いて隣の部屋を覗き込むと、ダイニングが見える。つい先ほどまで誰かがここにいたらしく、ランプがついたままになっていた。
あまり広くないダイニングには、テーブルが一つに椅子が四脚、あとは戸棚があるだけだった。ルミエールの家でもそうだったように、この家のキッチンも奥まった場所にあるようだ。
「誰か、いませんか?」
千鶴は小さく声をかける。安静にするよう言われているのに、勝手に動き回っては怒られるのではないかと思ったのだ。しかし、その呼び声に応じる者はいなかった。千鶴の声は、静寂の中へと吸い込まれるようにして消えていった。
一瞬躊躇いはしたものの、催しているのだから仕方がない。千鶴はダイニングに出ると、後ろ手に扉を閉めた。テーブルの上にある、ずっしりと重たいランプを手に取り、辺りを照らし出す。
ダイニングには三つの扉があった。一つはキッチンに、もう一つは外に繋がり、最後の一つは鍵がかかっていた。
どうやら目的の場所は外にあるようだ。千鶴はランプを掲げたまま、玄関の扉を開ける。外は歩きやすいように雪掻きをしてあったが、しんしんと降り続いている雪は、苦労を徒労に終わらせてしまいそうだ。
風はなく、静かな夜だった。白い雪がランプの灯りを透かして、あたたかそうな橙に色を変える。思わず触れてみると冷たくて、千鶴は小さく身震いをした。
ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏みつける度に、爪先が冷たくなっていく。こんなものを履いてあの山を下りてきたのだと思うと、千鶴は自分の馬鹿さ加減に笑いたくなった。なんて無謀なことをしていたのだろう。よく見れば、底がすり減り、今にも穴が空きそうだ。
無事にトイレを見つけ、用を済ませた千鶴は、身をすくませながら屋外に出た。
さっさと戻らなくては、また高熱でうなされることになってしまいそうだ――そう考えて前に出しかけた足を、千鶴は不意に止めた。
ランプの灯りが、雪の中を進んでいく足跡を捉えたのだ。その足跡は千鶴のものより二回りは大きく、トイレの裏手に回っている。
「……ノワールさん、かな」
雪道を散々歩いて、ずっとその足跡を眺めてきたのだ、まず間違いはないだろう。
千鶴は一分ほどどうするか悩み、結局はその足跡を辿ってみることにした。木の壁に囲われているだけのトイレを回り込むと、足跡は更に奥にある建物の中へと続いているのが見て取れる。
そろり、そろり、と足を進めるものの、雪を踏みつける音は消えない。耳の良いノワールのことだ、千鶴が恐る恐る近づいていることなど、既にお見通しだろう。
その建物は馬屋のようで、外まで干し草の匂いを漂わせていた。戸は僅かに開いていたが、内側から灯りが漏れている様子はない。
千鶴は馬屋の前までやってくると、戸に手をかけようとした。しかし、ふと考える。
入っていったところで、何と声をかければいいのだろう。気分を悪くはしないだろうか。愛馬の命を脅かしてしまったのは、他ならぬ千鶴自身だ。それなのに、のこのこと姿を現せば、セシリアだって不快な思いをするかもしれない。
ここは、大人しく戻ることにしよう――千鶴はそう思い、戸に向かって伸ばしていた腕を引いた。そして、くるりと踵を返す。
「入らないのか?」
千鶴が踵を返した途端に、まるでその動向を一部始終見ていたかのようなタイミングで、ノワールが声をかけてきた。あまりの驚きに妙な叫び声を上げ、手からはランプが滑り落ちそうになる。幸いにも反射神経が働いて事なきを得たものの、心臓がばくばくと激しくあらぶっていた。
「あ、あの、ええと」
「入るのか入らないのか、はっきりしろ」
「は、入ります……!」
勢い任せに入るとは言ったが、千鶴はどうしてもその場から動き出すことができない。その間にも雪はしんしんと降って、千鶴の頭や肩にうっすらと積もっていく。
いや、やはり引き返そう――千鶴は大きく頭を振った。アンジエールが一緒ならまだしも、ノワールと二人きりになるなど、きっと耐えられない。恐怖と緊張に押し潰されて、千鶴の蚤の心臓は今にも破裂してしまいそうだった。
「あ、あの、私、やっぱり――」
部屋に戻ります、と言いかけた千鶴の口は、最初の言葉を形作っただけで、声を発することはなかった。僅かに開いていた戸口から手がぬるりと伸びてきたかと思うと、千鶴の腕を掴んだのだ。そして、ほとんど引きずり込むようにして、千鶴を馬屋の中に招き入れた。
戸にがつんとぶつかったランプの炎が揺らめいて、思っていたよりも狭かった馬屋の中を頼りなく照らし出す。こんもりと積み上げられている干し草からは、外よりも強い匂いが感じられた。その匂いには、祖母と通っていた乗馬クラブを思い出させる懐かしさがあった。
馬は二頭並んでいる。一頭は青毛の美しい馬だった。とろんとした眠たげな目が、少しだけ迷惑そうに千鶴に向けられた。
「デジレだ」
「え?」
「その馬の名だ。デジレという」
ノワールはその名を呼んでやりながら近づいていくと、青毛のデジレという馬にそっと触れた。
鼻筋を優しく撫でられたデジレは、すぐさま安心しきった表情になった。長い足をゆっくり折りたたむと、干し草の上で蹲る。目が閉じられて間もなくすると、落ち着いた呼吸が聞こえてきた。
その隣に、セシリアはいた。触れるとあたたかそうな栗毛の馬は、ランプの灯りを受けてその目を輝かせ、千鶴をじっと見つめている。大きな身体には、ところどころに包帯が巻かれて、酷く痛々しかった。特に銀の矢が刺さっていた場所は、念入りな手当てを受けたようだ。
「セシリア……」
千鶴は恐る恐るその名を呼んだ。セシリアは返事の代わりに何度か瞬いて、木の柵越しに近づいてくる。言葉を饒舌に語り掛けてくるようなその目を見ていると、セシリアは怒ってなどいなかったのだということが、千鶴の心にじんわりと伝わってくるような気がした。
「……ごめんね、セシリア」
自分は護られてばかりで、何も護ることができないと、千鶴はそう感じていた。あちらの世界でも、それは同じだった。千鶴は母親が差し掛けている傘の下で雨を凌いでいる。いつだって護られているのだ。愛されていないと分かっていても、そう強く感じる。
何も護ることができない自分に、この王国を救うことなどできるのだろうか。祖母の愛した世界を取り戻し、護ることなどできるのだろうか。とてもではないが、千鶴には自信がなかった。
その横顔に触れながらどんよりと沈み込んでいると、セシリアが長い鼻先を千鶴の胸に押し付けてくる。甘えるようなその仕草に驚きを隠せずにいると、隣にやって来たノワールがセシリアの首筋に触れた。
「やはりお前は勘違いをしているな」
「……勘違いって、何をですか?」
ため息と呆れ声の意味が分からず、千鶴は馬鹿にされることを覚悟で問い返した。すると、ノワールはセシリアを慈しむように撫でながら、そっと目を伏せた。
「セシリアが求めているのは謝罪ではない。もっと別のものだ。君にはそれが分からないのか?」
千鶴は以前、ノワールから謝罪は必要ないと、そう言われた時のことを思い出していた。あの時も、千鶴が誤る度にため息を吐き、呆れ果てていた様子だった。
その時は、千鶴には意味が分からなかった。だが、それは今も同じだ。ノワールの言わんとしていることが分からず、千鶴は困惑してしまう。しかし、ノワールはなぜ分からないのだとでもいうふうに、不満を露にしていた。
「……君はチトセに似ても似つかないな」
千鶴は愕然とした。期待外れと、そう言われているような気がしたのだ。頭を言葉の鈍器で殴られ、血の気が引いていくような心地がする。
祖母と比べられてしまえば、間違いなく足元にも及ばないだろう。千鶴にとって祖母は偉大で、世界一の人だ。この世界では一国の女王で、大勢の人々からも慕われていた。それに比べて、千鶴は誰かに誇れるものなど何一つ持っていない。何かを望んだところで、それらは到底手に入れられないものだと思い込んでいた。
この人と一緒にいると、自分の存在そのものまで否定されているようだ――千鶴がそう思い、項垂れていると、セシリアがぶるぶると頭を振り、大きく息を吐き出した。
突然のことに驚いていると、今度は千鶴とノワールの間に頭をねじ込み、自らの主人の顔をじっと睨み付ける。千鶴の勘違いでなければ、それは、セシリアがノワールを非難しているように感じられた。
目は見えておらずとも、その視線は確かに感じ取っているようだ。ノワールは千鶴には決して向けないような、優しそうでいて、どこか困ったような顔を、セシリアに見せていた。
「……俺が悪いというのか?」
そうだとでも言うように、セシリアはふんと鼻で息を吐く。そうすると、ノワールはますます困ったという顔をして、目を伏せたまま微かに呻くような声を上げた。
ノワールには、セシリアの声なき声が聞こえているようだ。それを少しだけ羨ましく思いながら、千鶴は普段なら決して見ることのない表情を浮かべている、ノワールの横顔に魅入っていた。
だが次の瞬間、開け放たれたままだった戸口から、すうっと冷たい風が吹き込んでくると、千鶴は大きく身震いをした。ばふっという音をたててランプの炎が消えかけるが、咄嗟に手の平で風を防ぐと、再び安定した炎に戻る。
「本当に学ばないやつだな」
口を開けば貶すような言葉ばかりを聞かされているような気がして、千鶴は段々と気が滅入ってくるのを感じていた。心がぽっきりと折れてしまいそうだ。
お願いだから、その顔とその声で、傷つくような言葉を平然と吐き出さないでほしいと、千鶴は思った。雅の優しさに浸かり込んでしまっていた千鶴にとって、その声で紡がれる棘のある言葉は、毒のようにじわり、じわりと心を侵していくのだ。
それならばいっそのこと、優しくなどしてくれなければ良いものを、ノワールは自らの上衣を脱ぐと、それですっぽりと千鶴の身体を包み込んだ。
たったそれだけのことで、千鶴の心は大きく揺らいでしまう。
「あ、ありがとう、ございます」
恐々と感謝の言葉を口にした瞬間、ノワールは伏せていた顔を上げ、閉じていた目を開いて千鶴を見た。
見えていないはずのその目には、一体何を映しているのだろう。自分が見ている世界とは、まったく違うものを映しているのだろうか。それは美しい世界だろうかと、千鶴はぼんやりと考えた。
深い闇色の目が煌いているのを見ると、思わず目を奪われてしまう。恐ろしいと感じるのに、同時に美しいとも思ってしまうのだ。複雑な感情がぐるぐると巡って、千鶴の気持ちを惑わせていた。
「それだ」
「……はい?」
「素直にそう言えばいい」
言わんとしていることが理解できず、千鶴は首を傾げる。ノワールは微かに口元の強張りを緩めると、再びセシリアの方を向いた。
「セシリアに贈るべきなのは、そういう感謝の言葉だ。謝罪のために君の盾になってやったわけではないだろう」
あ、といううわ言のような声が、千鶴の口から漏れた。
「だが、感謝をしてほしいのでもない。要は気持ちの問題だ。かといって謝罪をされる謂れもない。それは自らの意思に従った者の行いを否定することと同じだ。セシリアは君を責めていない。見返りなど以ての外だ。君を護るに足る存在だと判断したからこそ、その身を挺して護ろうとしたんだ」
「で、でも、私は何も……」
「私には君が女王の椅子に相応しいとは思えない」
「それは、もちろん、私だってそう思っています」
「アンジエールだけは、そうは思っていないようだがな」
あいつの考えていることは分からない、そう言いながら、ノワールは肩をすくめてみせた。
「しかし、どうやらセシリアも、アンジエールと同じ意見らしい」
「……セシリアが?」
「そうでなければ私以外の者に良い顔をするものか」
口先で自らの着ているシャツを食んでいるセシリアを押しやろうともせず、それどころか口許に手の平を差し出しながら、ノワールは少しだけ不愉快そうに言った。
「……セシリアに刺さった矢を抜こうとしてくれたそうだな」
ノワールは突然声を低くしたかと思うと、ばつが悪そうに先を続ける。
「あの火傷がそのせいだったのなら、なぜそう言わない?」
「怪我の原因を訊ねられませんでしたから」
「言ってくれればもう少しましな対処法があった」
「いいんです。ビビアンさんのおかげで、この通りすっかり綺麗になりましたし」
この通り、と言って差し出してしまってから、また思い出す。どういうわけか、千鶴はこの人の目が見えないということを、よく忘れてしまうのだ。
「ここまで連れて来てくださって――」
ありがとうございましたと、今度こそは嫌味を言われる前に感謝の気持ちを伝えようとした時、ノワールが千鶴の差し出した手を包み込むようにして握った。意味も分からず、どくん、と心臓が大きく跳ねて、呼吸が止まる。
ノワールは親指の腹で千鶴の手の平をつうっと撫でた。親指は手の平を余すところなく滑り、千鶴はすぐに傷の具合を確かめているのだと察した。非常にくすぐったく、背筋にぞくぞくという悪寒のようなものを走らせる。すぐにも叩き落したい衝動に駆られるが、千鶴はじっと耐えていた。
次いで、ノワールは包み込んだ手を自らの方に引き寄せると、以前にもそうしたように、鼻を寄せて匂いを嗅ぐ仕草を見せた。千鶴は手の平を掲げるような格好のまま、目を伏せているノワールの顔を自然と見上げていた。
何かの映画で、あの人の睫毛は牛のように長いと表現している台詞を聞いて、果たしてそれは誉め言葉なのだろうかと、千鶴は疑問に思ったことがあった。それなのに、千鶴は今まさに、ノワールの睫毛は牛のように長いと、そう思ってしまっている。まるで整えたように上向きで、羨ましいほどだ。色白の肌は少し乾燥しているようだが、荒れているというほどでもない。
それだけのことが分かってしまうほど、ノワールの顔がすぐ近くにあった。それを自覚した途端、千鶴は握られていた手をやんわりと振り解いていた。自分で自分が分からなくなるほど、動揺してしまっていた。
「傷がよくなったというのは本当らしい」
「ほ、本当です。そんなことまで疑わなくたって……」
「ビビアンは昔から薬を煎じることに長けていたからな」
「アンジエールもそう言っていました。ビビアンさんは評判の魔女だって」
千鶴がそう言うと、ノワールの表情が一瞬だけ、険しく歪められたように見えた。だが、すぐに顔を逸らされてしまう。もしかしたら、灯りの具合でそう見えただけなのかもしれない。
「さあ、安静にしていろと言われているはずだ」
「あ、そうでした」
早く部屋に戻らなくては、寝台から抜け出したことを、アンジエールに気づかれてしまうだろう。千鶴はランプを持っている方の手を遠ざけると、もう一方の腕でセシリアの顔をぎゅっと抱き締めた。
「ありがとう、セシリア」
目と鼻の先にある目がすうっと細められるのを見て、千鶴はその目に向かって微笑みかけた。久しぶりに笑ったような気がして、少しだけ頬が引き攣るような感覚に襲われる。
「おやすみなさい」
そう言って千鶴が鼻筋にキスをすると、セシリアは豊かな尻尾をふわりと揺らした。
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