第五章 されども困難は立ちはだかり

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「話し声が聞こえると思ったら、目を覚ましたのね。よかったわ」


 アンジエールと話をしていると、寝台から右のほうに見えている扉が控え目にノックされた。反射的に返事をしてしまうと、扉がゆっくりと押し開かれる。その隙間から、ひょっこりと濃い蜂蜜色の頭が覗いた。


「目を覚ましたら呼びに来てくださいって、わたし、お願いしましたよね?」

「すまない、ビビアン。セシリアのことを先に伝えておいた方が、チヅルが安心するだろうと思ってな」


 部屋に入ってきた女を目で追いかけながら、アンジエールが悪びれもせずに言う。女が手の平を振って退けるように合図を送ると、気を悪くするふうでもなく、アンジエールは自分がいた場所を明け渡した。


「気分はどうかしら?」

「大丈夫です」


 千鶴は、自分の顔を覗き込んでくる女を、じっと見つめ返した。


「あの、ありがとうございます。いろいろと良くしてくださったみたいで、とても助かりました」

「あら、いいのよ。気にしないで」


 女は薄布のカーテンを引いて寝台の縁に腰を下ろすと、手を伸ばして千鶴の額に触れた。やわらかく、あたたかい手だ。額から頬に滑った手は一度離れ、今度は首筋に触れる。


「うん、熱は大分引いたみたいね。さあ、手を見せて」


 両手は包帯が巻かれてミイラのようになっていたが、痛みや違和感などはなかった。包帯がするすると解かれていくと、奇妙な色の軟膏が塗りたくられているガーゼが現れる。それが手の平にべったりと貼りつけられて、青々しいすり潰した葉のような匂いが一気に香った。枕と同じ匂いがした。

 女はそれをゆっくりとめくり取ると、ベッドの脇にある小さな机から、新しいガーゼを一枚手に取った。それを使って、手の平に残った軟膏をそっと拭っていく。


「聞いているとは思うけれど、わたしはビビアンよ」


 軟膏を丁寧に拭い取り、手の平の様子を確かめながら、ビビアンと名乗った女が言った。


「これでも一応魔女だから、突然のお客様には慣れているの」


 千鶴がその言葉の意味を理解しかねていると、目が覚めた時と同じ場所で伏せていたアンジエールが、代わりに口を開いた。


「地域によっては魔女や魔法使いが医術師の代わりを担っている場合がある。ビビアンは評判の魔女でな、遠方から訪ねて来る客も多い」

「優秀なんですね」


 千鶴がそう言うと、ビビアンはふふっと花がほころぶように微笑んだ。

 なんて美しい人なのだろうと、千鶴は純粋にそう思った。濃い蜂蜜色の髪は長く、今は高い位置で一つに結い上げられている。青みがかった目は夕暮れ時の東の空のように澄んでいて、長い睫毛に縁取られていた。くりっとしていて、こぼれんばかりに大きい。肌は色白で、頬はうっすらとバラ色だ。唇はふっくらとしていて、熟れた林檎のように真っ赤だった。

 千鶴よりも背の高い身体は見るからにすらりとしていて、映画衣装のような長袖のロングワンピースを完璧に着こなしていた。胸のふくらみと、くびれた腰が、より女性らしさを際立たせている。文句のつけどころのない美人だった。


「優秀だなんて、とんでもないわ。たまたまこの辺りには他の魔女がいないから、仕方なく重宝されているだけよ」

「謙遜だな」

「わたしはただ来る者は拒まないだけです」


 ビビアンは千鶴の手を診察し終えると、うん、と嬉しそうな声を上げた。


「魔法もすっかり取り除かれているし、包帯を外しても問題ないでしょう」

「魔法、ですか?」

「そうよ。あなた、この方がおっしゃるには、セシリアに刺さった銀の矢を素手で掴んだそうじゃない? あれはね、魔法を含んでいるから、そう簡単に抜けるものではないの。だから、火傷と一緒に魔法が焦げついてしまったのよ。シルリアンの葉が手元にあったから何とかなったけれど、そうでなければ途方に暮れていたところだわ」

「シルリアンの葉は薬草の一種だ」


 不可解そうにしている千鶴の表情を巧みに読み取ったアンジエールが、補足をするように付け加える。


「貴重な薬草だ。ギルドロ山脈の岩場に時々芽吹くことがある。風が止んで、太陽の出ている日が狙い目だ。僅かな雪解け水が岩の亀裂に流れ込んで、凍っていた種を溶かす。次に吹雪くとすぐに枯れるから、入手が困難だ」

「ちょっと、そんな言い方をしたら余計に気を使ってしまうでしょう? やめてください、エルドール」

「……エルドール?」

「私の俗称だ」


 アンジエールは一気に面倒臭そうな顔になった。


「前に話した女王のことは覚えているだろう? あの頃についた俗称らしいが」

「どういう意味なの?」

「金色に輝く翼よ」

「金色に? アンジエールの翼は真っ白に見えたけれど」

「そう呼ばれるのには理由があるの」


 ビビアンは机に置いていた水瓶からグラスに水を注ぐと、それを差し出しながら言った。礼を言ってそれを受け取り、千鶴は喉を潤す。ぬるい水だったが、とても甘く、不思議な味がした。


「その昔、人里離れた森の奥に小さな村があってね。その村では多くの優秀な魔女や魔法使いが生まれてくるというので、それをわずらわしく思った女王が、闇討ちをかけたそうなの。それでも、なんとか夜のうちは持ち堪えていたのだけれど、朝が近づくにつれて村人たちは疲弊していった。そこにこの方が現れたそうよ。朝日を受けて、白い翼が金色に輝いて見えたから、それ以来多くの民草は敬意を込めてエルドールとお呼びしているわ。普段は城の護り手として王都におられるけれど、民草が危機に陥った時は、きっと助けに来てくださるからって」

「へえ」


 感嘆の声を漏らしながら千鶴がアンジエールを見ると、やめてくれとでも言いだしそうな目に見つめ返される。どうやらその俗称や逸話を当人は気に入ってはいないようだった。

 確かに、ビビアンはアンジエールに対して丁寧な言葉遣いで接している。それが敬意の表れなのだろう。犬のような外見で油断をしてしまいがちだが、実は物凄い存在なのだと、千鶴は改めて実感させられていた。


「……私、あなたに気安く接しすぎている?」

「そのようなことはない」


 アンジエールは千鶴を見つめていた目を細めた。


「チヅルはそのままで構わない。私は君に仕える従者だ、畏まられる謂れがない」

「だけど、私はまだこの国の女王というわけではないし……」

「いずれそうなる日がやってくるかもしれない。その時になって、お前などいらぬと言われぬよう、今から取り入っておかなくては」


 こういう時のアンジエールの物言いは、冗談なのか、はたまた本気なのか、やはり千鶴には判断がしづらかった。今はその目が悪戯っぽく輝いて見えたので、きっと冗談なのだろうと、そう解釈しておくことにした。


「さて、と」


 二人の話を少し引いた場所から聞いていたビビアンが、汚れた包帯やガーゼを手に取りながら口を開いた。千鶴がそちらを見ると、美しい色の目と正面から視線がぶつかり、思わずどきりとしてしまう。


「お腹が減ったでしょう? 何か消化に良いものを作ってくるわね」

「あ、ありがとうございます」

「何日も寝たきりで体力だって落ちているでしょうし、とりあえず、しばらくは安静にしていること。エルドール、しっかり見張っていてくださいね」

「心得ている」

「あら、それはどうかしら」


 ビビアンはくすくすと笑いながら部屋を出ていった。

 ただその場に立ち上がり、歩き、話しているだけだというのに、ビビアンにはまるで、スポットライトを浴びているような輝きがあった。ビビアンがいなくなった部屋の中は酷く薄暗く感じられ、光を失ったかのようだった。


「ビビアンさんって素敵な人ね」


 明るく、元気で、はつらつとしている。その上美人だ。気立てがよく、おとぎ話に出てくるような悪役の魔女とはまったく違う。


「あの人との付き合いは長いの?」

「ああ、幼い頃から知っている。ノワールの幼馴染だ」

「ノワールさんの?」

「同郷だからな」

「そう」


 意識と無意識の狭間で二人の会話を聞いていたような気もするが、よく覚えていない。そもそも、森の中の小屋以降の記憶が、千鶴には曖昧だった。背負われてきたという覚えはおぼろげながらあるものの、思い出そうとすると靄がかかったようになり、不明瞭なことが多かった。


「あ、でも」


 千鶴ははっとして言った。


「しばらくって、どのくらい? 私はどのくらい安静にしていればいいの?」

「さあ、七日か、八日か。そのくらいだろう」

「そんなにのんびりなんてしていられないんでしょう? ルミエールさんだって心配だし、それに、早くしないとお祖母ちゃんが残してくれた石が壊されてしまうかも――」

「チヅル」


 早口でまくしたてる千鶴に向かって、アンジエールが静かに呼び掛けた。白く細い髭をそよがせながら、落ち着いた様子で千鶴を見上げている。その目に見つめられるだけで、ざわついていた心が落ち着きを取り戻していった。


「はやる気持ちは分かるが、今は十分な休息が必要だ。なに、今更七日や八日出遅れたところで大差はない」

「だけど」

「体調は万全に整えておいた方がいい。この王国の冬が過酷であることは、その身をもって理解したはずだ」


 もし不調が残る状態で旅を続ければ、同行者に迷惑をかけ、足を引っ張ることは目に見えていた。だが、自分のせいで旅立ちの時が遅れるという事実も、千鶴には許しがたいことだった。

 だが、先延ばしにできるのなら、それはそれでいいのかもしれない。石が一つ消滅するごとに、祖母の記憶が、この王国の人々の中から少しずつ失われていく。千鶴にとってそれは悲しく、同時に惨たらしくも感じられていた。自分自身の手で祖母の思い出を破壊していくと思うと、居た堪れない気持ちになる。

 千鶴は、そんなことがしたいわけではなかった。だが、このままでは祖母の愛した王国が消えてしまうかもしれない。魔法の力を失い、それによって生かされているアンジエールやプティーのような存在が消えてしまうのなら、やはり旅を急ぐべきなのだろう。

 きっと、どちらを選んだとしても、最後には後悔してしまうんだ――千鶴の心の中には、そう漠然とした思いが居座っている。

 押し黙ってしまった千鶴に向かって、アンジエールは言葉を促すように首を傾げて見せた。


「……私ね、お祖母ちゃんが愛したこの王国がなくなってしまうのは嫌なの。それに、私もこの王国の本当の姿を見てみたい」

「ああ」

「でも、みんなにお祖母ちゃんのことを忘れて欲しいとは思わない。たぶん、お祖母ちゃんも本当は忘れて欲しくないって思うだろうから。私が石を破壊することで、あなたやプティー、ノワールさんたちからお祖母ちゃんとの思い出がなくなってしまうのは、とても悲しい」

「それがこの世界の理だ」

「たとえそうだとしても、私はあなたたちに、お祖母ちゃんのことを覚えていてもらいたいと思う」

「前にも言っただろう? 我々は記憶を失くしたという記憶さえ忘れる。誰も苦しむことはない。チトセが女王だったことは記録として残り、我々はいつでもそれを閲覧することができる。だが、閲覧したところで、チトセに特別な感情を抱くことはない」

「……あなたはつらくないの?」

「それも今だけの感情だ」


 アンジエールは、つらい、とは言わなかった。だが、その言葉は自らの感情を吐露し、認めているも同然だった。心なしか表情も悲しげで、声も沈んで聞こえた。


「チヅルは思慮深い、優しい子だな」

「そんなことは……」

「チトセはそこまで多くに考えを巡らせる様子を見せてはくれなかった。あるがままを受け入れ、疑うということをしなかった。封印の石を破壊するように言えば、言われた通りにした。何の躊躇いもなく」


 祖母はさっぱりした人だった。考え込んで悩み続けているより、決して後ろを振り返らず、まっすぐに前を見据えているような人だった。だが、一度は女王のことを真剣に思ったはずだと、そう千鶴は信じている。すべての人々の思い出から忘れ去られてしまう、哀れな者のことを思い、心を痛めたはずだ。

 それでも、祖母は次の瞬間にはもう決断している。頭の回転が速い人だった。だからこそ、他者から見れば少しばかり短慮に感じられてしまうだけなのだ。その頃にはもう、すべてを受け入れる準備ができていたに違いない。前の女王が残してくれたものを全部背負って、進む覚悟を決めていたのだ。


「お祖母ちゃんは、私と違って頭が良かったから。何か問題が起こっても、あっという間に、しかも一人で解決してしまっていたでしょう?」

「確かに、我々には何の相談もなく対処してしまうことが度々あった」

「私はね、そういうことがとても苦手なの。だから、お祖母ちゃんはすごいなぁって。いつかお祖母ちゃんみたいになりたいって思っていた」

「だが、君はチトセにはなれない」


 当たり前ではないか、とでも言いたげな声で、アンジエールが漏らす。千鶴は苦笑いを浮かべながら、その通りだと頷いた。


「私はありのままを受け入れられない。自分のことだって疑ってしまう。封印の石を

破壊するように言われて、一度は決心したはずなのに、結局は今だって悩んでいるの」

「悩んでもいいのだと、私は思うが」


 アンジエールは僅かに目を伏せてから、再び千鶴を見上げた。


「自らを疑うことのできる者は、自らに溺れることのない賢人だと、私は思う。妙に自信が見え隠れしている輩ほど信頼のおけぬ者はいない」

「そうなの?」

「自らが絶対的に正しいのだと誤った思想を強いるような者に好意を抱けるか?」

「……ううん」

「チトセに近づきたいという思いが今でもまだ残されているのなら、私はやはり、封印の石を砕く旅へ出るべきだと思う」

「なぜそう思うの?」

「封印の石には女王が残した核なる力の他に、最後の思念が封じられている。厳密に言えば、思い出の欠片に核なる力を込めて、石を封印しているのだ。新たな女王は、その思念や思い出の欠片を見ることになる」

「ここにいた頃のお祖母ちゃんを見られるということ?」

「おそらく」


 新たな女王は石を破壊する度に前の女王の記憶を残し、それ以外の者たちは、否応なく記憶が消されていく。千鶴だけが、祖母を忘れずにいられるのだ。

 だがそうなれば、この世界ではもう誰も、祖母のことを覚えていない。祖母の話をしたくても、誰にも理解されない。それはとても不公平で、そして、やはり残酷だと千鶴は思った。


「いずれにせよ、私がとやかく言わずとも、君は最後に決断するのだろう」


 何の見返りもなく、ただ信じているというような眼差しを向けられ、千鶴の心は動揺していた。今すぐ逃げ出したいような衝動に襲われる。

 春の訪れを待っている人々がいる。そうした人々のために、理に反することだと理解していても、春を蘇らせようとしている人がいる。その思いに賛同し、助力を惜しまない人々がいる。

 全員、気持ちは同じなのだ。長く続く冬を終わらせたい。芽生えの季節を迎えたい。あたたかい日差しを浴びたい。それだけなのだ。すべての思いが切実で、だからこそ、軽はずみなことはできない。無責任なことはできないのだ。

 こんなとき、お祖母ちゃんならどうするだろう――千鶴はそっと目を伏せながら、遠い日の記憶の中にいる、祖母の姿を思い出していた。

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