-5-

 ゆらゆら揺れる。

 まるでゆりかごに揺られているようだと千鶴は思った。自らの腕で確かにぬくもりを抱いている。それがどこか心地良く、もう少しまどろんでいたいのに、意識は徐々にはっきりとしてきた。

 同時に、不調だった体調まで蘇り、千鶴はぬくもりを抱いたまま小さく呻き声を上げる。両腕に力を込めると、ぬくもりは微かに反応を示した。汗で濡れている額に、生温かい風が触れた。


「大丈夫か? 気分はどうだ?」

「……何とも言えないです」

「そうか」


 うっすらと目を開くと、目と鼻の先にノワールの横顔があった。どうやら背負われているようだとは認識するものの、頭がぼうっとして、それがどういうことなのか理解が追いついていかない。


「村まではまだかかる、もう少し眠っているといい」

「どうして……」


 千鶴は、どうしてこんなことになっているのだと訊ねたかったが、喉が痛くて声にならない。しかし、ノワールはそれだけで察したようだ。見えていないはずの目で千鶴を一瞥すると、前に向き直りながら口を開いた。


「戻るのが遅かったからな、様子を見に外へ出たんだ」

「そう、ですか」


 千鶴はかすれた声で言う。


「ごめんなさい、迷惑をかけて」


 ずるりと背中から落ちそうになった千鶴を、ノワールはそっと背負い直した。謝罪に対する返答はなく、返ってきたのはあからさまなため息だった。


「いいから、黙って寝てろ。村までは私が連れて行ってやる」


 ああ、また呆れられてしまったのたと、千鶴は思った。面倒に思われているのだ。千鶴は自らを不甲斐なく思った。じわりと視界が滲んで、鼻の奥がつんと痛くなる。

 自分一人ででも何とかしてみせると、そう豪語していたのは、一体どこの誰だろう。こちらの世界のことなど何も知らないというのに、知った気になっていたのは、どこの愚かな娘だ。

 結局は誰かに迷惑をかけてばかりで、期待をしないとうそぶいたところで、誰かの助力に救われている。所詮は、一人では何一つ成し遂げることのできない、中途半端な見栄を張っているだけの、大馬鹿者なのだ。

 千鶴は唐突に心細くなった。風邪を引いても、誰も傍にはいてくれなかった。以前までは祖母が隣にいてくれたはずなのに、千鶴は一人でベッドに横たわっている。心にぽっかりと穴が空いて、あまりの心細さに、枕を濡らしたこともあった。

 目を閉じると浮かぶのは、祖母がいつも聞かせてくれていた、お話の世界だった。その世界を想像して、さみしさを紛らわせていたのだ。

 こちらの世界に来てからというもの、千鶴は昔のことばかり思い出していた。それがとても不思議で、ある意味では必然ともいえた。


「――」


 千鶴は薄れゆく意識の淵で、何事かを囁いた。自分でも何と囁いたのか分からないまま、瞼がゆっくりと下りて、目の前が黒く染まった。

 ノワールの首に縋っている腕に力を籠め、ほんの少しの隙間もないほどに、ぴたりと身を寄せる。自分が誰に何をしているのかということにも考えが及ばず、相手が初対面の男であるということも忘れ、恥ずかしいとさえ感じてはいなかった。

 このノワールという男が、雅に瓜二つだから悪いのだ。自分の責任ではないと、かろうじて冷静な自分が残されている頭の片隅で、千鶴はそう言い訳をしていた。



 今度は、もう何日も眠り続けていたのではないかと思うような、ぐったりとした疲れの中で、千鶴は意識を取り戻した。相変わらず、頭はぼうっとしている。

 千鶴は目を閉じたまま、自分がどこかふかふかとしている場所に寝かされているのを感じていた。ほんの数日前までは普通の感覚だったというのに、今ではとても懐かしい。

 頭上からは、こそこそとした話し声が聞こえ、千鶴は思わず聞き耳を立てていた。


「――相手は女の子なのよ」


 最初に聞こえてきたのは、女の声だった。


「あなたは昔からそうなんだから」

「手当てはしてやった」

「手当て? これが手当てですって?」


 透き通るような美しい声が、相手を厳しく叱りつける。その声が思った以上に大きかったと感じたようで、声の主が窺うような視線を寄越したような気配を察した。

 未だ意識がはっきりしているわけではない千鶴は、目を瞑ったままじっとしていた。


「いいこと? あなたが言う手当てなんてね、傷口に唾を塗って済ますのと同じようなものだわ。見なさい、こんなになってしまって、かわいそうに」

「見ろと言われて俺に見えるとでも思っているのか?」

「そういう揚げ足取りだけは一人前なんだから」


 まったくもう、という声と同時に、千鶴の額が優しく撫でられた。その手はひんやりとしていて、火照った顔には気持ちが良かった。


「高熱の原因は、極度の疲労とこの火傷でしょうね」


 それに、と言いながら、女は千鶴の手首を取って、そっと持ち上げた。


「これ、ただの火傷じゃないわ。魔法の痕跡が残されているから」

「魔法? アンジエールはそのようなことを一言も言っていなかったが」

「あのね、あのお犬様が何でもかんでも教えてくれると思ったら大間違いよって、わたしは何度も言ってあげているでしょう?」


 学習をしない人ね、と言ってから、女は諦めたようにため息を吐いた。


「わたしは薬を煎じてくるから、あなたはこの子の傍にいてあげてちょうだい」

「どうして俺が――」

「ノワール」


 女がその名を呼んで言葉を遮る。


「あなたはもう少し優しさを学ぶべきよ。陛下が消えてしまわれてから、あなたはすっかり変わってしまったもの」

「……ビビアン」

「はいはい、図星をついてしまってごめんなさいね。ほら、よろしく頼んだわよ、騎士様」


 手首を掴んでいた体温が離れていく。傍にいた人の気配が遠ざかっていくと、残された者の大きなため息が聞こえてきた。

 この人にはずいぶん嫌われてしまったらしい――千鶴はそのことを改めて自覚しながら、軽く寝返りを打とうとした。しかし、身体中の関節が軋むように痛み、思わず唸り声をあげてしまう。途端に無視をしていた熱や眩暈、嘔吐感が蘇ってきた。


「……目が覚めたのか?」


 千鶴は何も答えなかった。痛みに耐えながらゆっくりと寝返りを打ち、声の聞こえた方に背中を向ける。何となく瞼を持ち上げると、目の前には白い壁があるだけだった。

 そのまま何も応じずにいると、うわ言を漏らしただけだと思うことにしたのか、ノワールがそれ以上の言葉をかけてくることはなかった。椅子に腰を下ろしたような気配は伝わってきたが、それ以降は衣擦れの音さえ聞こえなくなる。じっと監視されているような視線を感じて、千鶴は背中の真ん中あたりがむずむずとしてくるようだった。

 それからは、何度か目を覚ましては眠るという、不規則な状態が続いた。意識の狭間で、誰かが甲斐甲斐しく看病をしてくれているようだとは感じるものの、それが誰なのかまでは認識できない。しかし、その繊細な指先に触れられる度に、気分が良くなっていくのが千鶴にも分かった。

 清々しい新緑のような香りがして、まるで春の草原に横たわっているように思える瞬間があった。身体にまとわりついていた不快感が徐々に消滅していき、呼吸が楽になってくる。

 だからだろうか、次に意識を取り戻した時、千鶴はすっきりとした気持ちで目を覚ますことができた。


「ずいぶん長く眠っていたな、チヅル」


 ぱち、ぱち、と薪のはぜる音が聞こえた時、千鶴は一瞬だけ、自分がまだ森の中の小屋にいると錯覚をした。寝たり覚めたりしていた時の記憶はとても曖昧で、夢のようにも思えていたからだ。だが、自分が見知らぬ部屋にいることを自覚すると、何度か瞬きを繰り返す。その視界の中に、伏せた白黒の獣の姿が映り込んでいた。


「……アンジエール?」

「いかにも」


 くつくつとおかしそうに笑いながら、アンジエールは千鶴を見て目を細めた。


「寝惚けているのか?」


 千鶴は壁をくり抜くようにしてあつらえられている寝台に寝かされていた。真綿の敷布団の上で横になり、羽毛の掛け布団が身体をふわりと覆っている。ふかふかの枕からは、眠っていた時に感じていたものと同じ、新緑のような匂いが香っていた。部屋と寝台を隔てるように、透き通るほど薄い生地のカーテンがかけられていたが、向こう側にいるアンジエールの姿はよく見えた。

 そこは、とても素朴な感じのする部屋だった。窓辺には使い込まれて古びてきている机と椅子がある。机の上には、ガラスの部分がくすんで白くなっているランプや、開きっぱなしの本、インク瓶に羽ペン、紙などが少し粗雑に置かれていた。棚には見慣れない文字の本がずらりと並んでいる。

 その部屋のほぼ真ん中に、アンジエールが何食わぬ顔で伏せていた。


「でも、どうして……」

「セシリアが見つかったことを知らせねばならぬだろう? あれだけ心配をしていたからな、目が覚めたらすぐにでも教えてやるべきだと思い、こうして待っていたのだ」

「セシリアって――あっ!」


 半分寝惚けていた千鶴の頭が、一瞬にして覚醒した。


「見つかったって、本当なの? セシリアは無事なの?」


 千鶴は身体を覆っていた羽毛の布団を勢い任せに剥ぐと、寝台を降りてアンジエールに詰め寄ろうとした。しかし、床に足を下ろして立ち上がったところで、かくん、と膝が落ち、その場に崩れ落ちる。


「病み上がりなのだから、まだ無理をしてはいけない」


 絹のような肌触りの、美しい薄布に絡まっている千鶴を見て、アンジエールが生真面目に言う。のっそりと起き上がると、何とか立ち上がった千鶴の腹を、鼻先で寝台に押し戻した。


「さあ、布団をかけて」

「そんなことよりも――」

「だめだ。君が大人しく横になるまで、私から話すことは何もない」


 そう言われてしまえば、千鶴は従うしかなかった。

 千鶴は、急く気持ちを押し込めて寝台に身を乗り上げると、剥ぎ飛ばした布団を引き寄せた。若干潰れていた枕を何度か軽く叩くと、ふんわりとした感触が戻ってくる。それを壁と背中の間に挟み、寄り掛かって座った。


「これでいいでしょう?」


 だから早く聞かせて欲しいという目で睨むと、アンジエールはその場に座って、満足そうに頬の筋肉を緩めた。


「彼女は川の流れに逆らうことができず、しばらくは下流に向かって流され続けていたようだ。だが、君のおかげで助かった」

「私のおかげって?」

「君が身を挺してセシリアの足から矢を引き抜こうとしてくれただろう?」


 身を挺していたわけではない。ただがむしゃらに、どうしたらいいのかも分からないまま、自分にできることを必死に探していただけだった。目の前で凍っていくセシリアの足を見て、どうにかしなければと千鶴は思った。銀の矢を引き抜けばセシリアは助かるのだと、そう根拠もなく思い込んでいただけなのだ。


「君が引き抜こうとしてくれていたおかげで、ほぼ抜けかけていた矢が川の濁流に揉まれ、足から外れたらしい。魔法を宿した矢は普通、そう容易に抜けるものではない。銀の矢が抜け落ちたことで、セシリアを襲っていた魔法の侵攻が止まり、足以外は凍らずに済んでいた」

「そうだったの」

「下流の方までは流されていたが、岩場の一つに流れ着き、助けが来るのを大人しく待っていた。凍りついた足は多少低温火傷をしているが、他に大きな外傷はない。少しばかり低体温にはなっているようだが、今はビビアンが見てくれている。心配はいらないだろう」

「ビビアン、さん?」


 朦朧とした意識の中で、その名前を聞いたような気がすると思いながら、千鶴は自らの額に手を触れた。ノワールからも、山を下りた先にある村の、ビビアンという人を訪ねるように言われていたのだ。


「ビビアンはこの辺りでは唯一の魔女だ」

「魔女?」

「前に話して聞かせただろう。多くの魔女や魔法使いたちは、核なる力の恩恵を受けて魔法を用いる。ビビアンもそのうちの一人だ。魔女とはいっても、彼女の場合は薬草を煎じることや、織物の方が得意のようだが」


 薄布越しにアンジエールの話を聞きながら、千鶴はとりあえず、胸をほっと撫で下ろしていた。セシリアが生きている。それが分かっただけで、胸のつかえが取れたような心地がした。

 目下の心配事はこれで解消されたことになる。もちろん、まだルミエールのことや、各地に散らばっているという封印の石のこともあったが、今はただ、安堵の息を吐きたかった。

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