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あれから険悪な雰囲気が解消されることもなく、ただ二日が過ぎた。
岩山のトンネルは間もなく抜けることができたが、その後は吹きさらしのごつごつとした岩の中を、ひたすらに歩き続けていた。森林限界を超えているわけではなさそうだが、木は愚か山岳植物の類は一切生息していない。景色は変わらず、延々と同じ道を歩かされているように感じられ、千鶴は一向に前へ進んでいる気がしなかった。これが最短距離のようではあるものの、互いに無言続きなのも相まって、苦痛以外の感情が芽生えてこない。
「ちょ、ちょっと、待ってください」
ずいぶん前を歩いているその背中に向かって、千鶴はそう声をかけた。
体温が上がっているのか、吐き出される息が先ほどよりもずっと白く、大きく広がっているようだ。千鶴は自らの膝に両手をついて呼吸を整えながら、周囲をぐるりと見回した。
空は相変わらずの曇天だ。こちらの世界に来てからというもの、千鶴は一度も太陽を見ていない。触れると刺さりそうなほど尖っている山々があちこちにそびえ立っているが、どれも似通っていて目印にもならなかった。風が強く吹いているので、雪は風下に流され、積もることはないようだ。
顔の汗を拭っている包帯代わりの布は、じっとりと湿ってから、間もなくすると霜が降りるように凍る。だが、既に寒さは苦にもならなくなっていた。
「……ごめんなさい、もう大丈夫です」
急いで呼吸を整え、千鶴は再び歩き出した。前を歩いているノワールとの距離は、まったく縮まらない。口を開けば謝るばかりで、千鶴は自分自身にうんざりしていた。
ああ、もう駄目だと、千鶴は何度も思った。その場に座り込んで、もう歩けないと大声で叫びたかった。だが、そうしたところで、ノワールは表情を一つも動かさず、千鶴を置き去りにすることは目に見えている。
死ぬよりも酷いことはないはずだ。そう自分に言い聞かせながら、千鶴は足を前に運び続けていた。気分は滅入るばかりで、落ち込んでいく一方だった。暗くなれば風を凌げる場所を探して休むものの、今度は寒さで眠りは妨げられる。昼間に掻いた汗が乾かず、服を湿らせているので、余計に体温が奪われるのだ。
ノワールはいかにも旅慣れていて、疲れた様子など微塵も感じさせない。他に見るものもないので、その背中にばかり目を向けていると、新たな発見も少しはあった。
目が見えないノワールは音をよく聞き、匂いを感じているようだった。自らの立てた音の反射を聞いて瞬時に距離を測り、匂いで進むべき道を判断しているように見える。もちろん、ノワールが聞いている音や、感じている匂いは、千鶴には何一つ理解できない。
とにかく、常人にはない才能と能力があるのだということだけは、よく分かった。
千鶴は、もう少し優しくしてくれてもいいのにと、そう思うことはやめることにした。期待するなと言われてしまえば、そうするしかない。千鶴は日常的に、他者に対して期待をしないよう、自らを律している節があった。期待するだけ無駄だと思うことには慣れていた。
でも、私は一体何と戦っているのだろう――千鶴の見ている景色が変わりはじめたのは、そうした疑問を持ち、自問自答をするようになってからだ。
徐々にではあるが、目の届く範囲に、低い木が目立つようになってきた。その木々は風下に向かって傾くように立っており、反面にだけ凍った雪を積もらせている。非常に奇妙な姿だ。木が生えているということは、岩ばかりだった地面に、土が混ざりはじめているということでもあった。
更に進んでいくと、木は背が高くなり、数も増してくる。切り立った岩ばかりが目立っていた地形から、少しずつ森に変わっていく様を、千鶴はその目で見届けていた。あれだけ猛威を振るっていた風は弱まり、今はもう無風に近い。どうやら、森の木々が風を遮ってくれているようだった。
森の中の道は舗装されておらず、ぼこぼこの獣道が続いている。その上、がちがちに凍りついているので、非常に歩きにくかった。岩山を歩いている時は、硬い跳ね返りが足の裏を痛め、痺れさせていたが、凍った土の地面は爪先が頻繁に引っかかり、よく転ぶ。溜まりに溜まった疲労のせいもあるだろうが、歩きやすさなら、岩山の方がまだよかったかもしれない。
下山をすればすぐに村へ辿り着けると考えていた千鶴は、とんだ肩透かしを食らっていた。山はとうに下ったというのに、森に入ってからも、ずいぶんと歩き続けている。
騙されたと思いながらも、今更文句を言う気力など、残されているわけもない。もうとにかくへとへとで、呼吸をするのも億劫にさえ思えるほどだった。
「今日はこの先にある小屋で休む」
「……小屋?」
「山菜やきのこ狩りに来る村人が使っていた休憩所だ。使われなくなって久しいから、多少は荒れているかもしれないが」
荒れているかどうかなど、その程度のことはどうでもよかった。屋根のある場所で休めるのなら、何も言うことはないと千鶴は思う。運が良ければ暖炉があるかもしれない。それがなくても、煮炊きをするかまどくらいはあるだろう。
風呂に入りたいなどと贅沢は言わない。今はとにかく、泥のように眠りたい。千鶴の願いは、ただそれだけだった。
落ち葉や枯れ枝を含んで凍りつき、雪と交じり合った土に足を取られながらも歩き続けていると、鬱蒼と茂る森の木々の中に、千鶴はようやくその小屋を見つけた。
それはしっかりとした小屋というよりも、簡易的に建てられたほったて小屋のようで、とても小ぢんまりとしていた。本当にちょっとした休憩所という印象だ。木造で所々腐敗しているようだったが、大きな風穴はあいていない。雨風が凌げれば千鶴はそれで十分だったが、煙突が屋根から突き出しているのが見えると、少しだけ嬉しくなる。
扉を守っていた鍵は、長い年月を経て朽ち、ばらばらになって地面に落ちてしまっていた。ノワールは手探りで取っ手を探し当てると、立て付けが悪くなっているらしい扉を、力任せに引き開けた。軋みながらも扉が開くと、僅かに思案するような様子を窺わせてから、千鶴を振り返る。
先に入れということだろうか――そう解釈をした千鶴は、ノワールの脇を通り抜けて、小屋に足を踏み入れた。
外観から想像していたよりも、小屋の中は広々としていた。六畳ほどはあるだろう。もしかしたら誰かが定期的に訪れ、小屋の管理をしているのかもしれない。埃はうっすらとしか積もっていなかった。
家具はテーブルと椅子が一つ、あとはクローゼットがあるだけだった。かまどはなかったが、暖炉で調理ができるようになっているらしい。空の大鍋がテーブルの上にひっくり返して置いてある。薪は壁際に積み上げられていて、不自由ない量が用意されていた。
千鶴は自らの身体が寒さで震えだす前に、暖炉の前に座り込んだ。
暖炉の灰は綺麗に掻き出され、手入れが行き届いている。そこへ薪を三角になるよう組み上げ、中央の空間に薪割りくずの焚き付けを置いた。火はないかと視線を彷徨わせていると、テーブルの上にマッチ箱が転がっているのを見つけ、手に取る。
だが、思っていた以上に手がかじかんで、千鶴は上手くマッチを擦ることができなかった。何度も失敗をしてはマッチを折ってしまい、それらを次々と暖炉の中に放り込んでいった。
「貸してみろ」
後ろ手に扉を閉め、小屋に入ってきたノワールが言った。マッチを擦ろうとしているのを、音で察したのだろう。千鶴の隣に膝をつき、手の中からマッチ箱を奪っていく。そして、残り少なくなったマッチ棒を一本取りだすと、難なく着火させ、それを差し出してきた。
火が消えてしまわないうちにマッチを受け取った千鶴は、それを焚き付けの中に放る。薪割りくずはあっという間に燃え上がり、千鶴はその火が消えないように、次から次へとくずを足していった。
「薪に火をつけられるのか」
「……小さい頃にお祖母ちゃんから仕込まれたので」
意外そうな顔をしているノワールを横目に見ながら、千鶴は薪割りくずをもう少しだけ火の中に降らせた。徐々に薪にも火が移っていき、炎が大きくなりはじめる。タイミングを見計らって薪を数本足し、落ち着いたのを確認すると、その場を離れた。
近づいていったのは、部屋の隅に置いてある古びたクローゼットだ。両開きになっているが、片方の取っ手が外れてしまっている。もう片方も外れかけているので、千鶴は壊さないようにそっと手をかけた。
案の定、中には何枚かの毛布が、丁寧に折りたたまれて収納されていた。
「毛布、テーブルの上に置いておきますから」
自分でも疲れが滲んでいると分かる声でそう告げてから、千鶴は二枚の毛布を腕に抱えた。一枚は二つに折りたたんで床に敷き、その上で丸くなるようにして身体を横たえる。上からもう一枚の毛布を掛けると、それを顔の半分が隠れるくらいまで引っ張り上げた。目から上だけを覗かせて、暖炉の炎をじっと見つめる。
同じ場所で膝をついていたノワールは、千鶴が動かなくなると、不可解そうな面持ちで何もない空間を眺めた。
「……何をしている?」
「横になっています」
「その前に何か腹に入れて――」
「私はいいです。今日は疲れたから、もう寝ます」
本当は、少しでもいいから何か食べた方がいいことは、千鶴にも分かっていた。だが、食欲がないのだ。口を動かすのも、物を飲み込むのも、今はわずらわしく思えて堪らない。
幸運にも寒さだけはしのげるので、胃が空っぽでも凍死することだけはないだろう。暖炉の近くに転がっていれば、身体が冷える心配もないはずだ。
その後もノワールは何かを言っていたようだが、千鶴は聞く耳を持たなかった。今度は頭まですっぽりと毛布をかぶり、両手で耳を塞いで、身体を更に丸める。
目を瞑ると、身体中がじんじんと痺れているのが分かった。もう身体はがたがたで、関節だって軋むように痛い。追っ手が掛かっていることも理解している。だが、千鶴にとってこれまでの道のりは、とてもではないが過酷すぎるものだった。
毛布の上から身体に手をかけられるのを感じた千鶴は、肩を揺すると、その手を振り落とした。もうこれ以上、雅と同じ顔の人に酷い仕打ちを受けるのはごめんだと、そう思った。
既に限界を超えてしまっていた身体は、睡魔の手によって眠りの中へと引きずり込まれていった。千鶴の意識はどろどろとした暗闇の中に取り込まれる。足首を掴まれ、底なし沼に沈められるような感覚を味わっていたかと思えば、徐々に荒波に揺られる小舟に乗せられているような感覚に取って代わっていった。
恐ろしく気分が悪くなって、千鶴は目を覚ました。
つい今しがた目を閉じたばかりだと思ったが、重たい瞼を押し上げてみれば、窓の外は明るさを取り戻しはじめている。もう朝がやって来てしまったのだ。
額を支えるようにしながらゆっくりと起き上がると、暖炉の前に立っている黒尽くめの後ろ姿が、視界に入り込んできた。火が絶えていないのを見ると、度々薪をくべてくれていたようだ。
「死んだように眠っていたな」
暖炉の前で大鍋を掻き回しながら、振り返りもせずにノワールが言った。
それは皮肉なのだろうが、やはり、千鶴には言い返すだけの気力がない。毛布を被ったまま項垂れ、乱れている動悸を落ち着かせようと胸を撫でていると、目の前に湯気の立ち上る器が差し出された。
「今日中には村に到着したい。これを食べて精をつけろ」
「……起きたばかりで?」
「昨日もろくに食べていなかっただろう」
「疲れていてそれどころではなかったんです」
「少しは休んだのだから食べられるはずだ」
ほら、と顔に寄せられた器の中には、白い粥のようなものが入れられていた。これが米を炊いたものだという確信が千鶴にはないが、恐らくはそうなのだろう。ミルクとチーズの香りがする。ふりかけられた香辛料の匂いは、普段ならば食欲を誘うのだろうが、今は食事を口にできるような気分ではなかった。
食事を作ってもらえることは、純粋にありがたい。いつもならば美味しくいただくが、千鶴は湯気と共に立ち上る匂いに負けて、思わず器から顔を逸らした。
「食欲がないんです」
「なくても食べるんだ」
「本当に――」
いらないと言いかけた口を、千鶴は噤んだ。
せっかく用意した食事なのに、手もつけずに残される者の苦痛を、誰よりも知っていたからだ。たとえ相手がこの上なく憎たらしい人物だったとしても、自分のことを考えて作ってくれたものを突き返すことなど、千鶴にはできるはずがなかった。
「……いただきます」
器と木のスプーンを受け取った千鶴は、毛布の上で座り直してから、改めてその食べ物をじっくりと眺めた。スプーンを差し入れて一口頬張ると、優しい味と香りが身体と心に染み渡っていくのを感じる。やはり、ミルク粥だ。体調が良い時ならば、次の一口を急ぐほどに美味しいのだろうが、今はもったりとしたチーズの味わいが、一口目を飲み込むことさえ困難にさせていた。
それでも、千鶴は黙々と食べ続けた。食べるというより、流し込むと言った方が正しいだろう。ほとんど噛みもせずに最後の一粒まですっかり食べてしまうと、器をノワールの手に返した。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
しかし、そう言うと同時に、我慢していたものが胃からせり上がってくるのを感じて、千鶴は両手で口を覆った。ノワールに気づかれないよう吐き気が治まるのを待って、立ち上がる。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」
はじめこそトイレと言っても理解されなかったが、何度か繰り返しているうちに、それがはばかりだと察したようだ。ノワールは頷いて済ませるだけになっていた。
千鶴はなるべくゆっくりとした足取りで歩き、小屋の外に出た。あたたかかった室内から身震いのするような寒さの外に出たというのに、ひんやりとした空気が気持ちよく感じられる。これはいかにも、体調がすぐれないらしい。
小屋から離れた場所までやってくると、千鶴は茂みの影で、今食べたばかりのものをすべて吐き出した。酸味のある、とげとげとした液体が喉を焼くように痛め、同時に涙も溢れてくる。
近くの木を揺らし、落ちてきた雪で口許を拭った。舌に残る不快感が気持ち悪く、口の中に雪を詰め込んでは溶かし、吐き出す作業を繰り返した。
気分は一向に良くならなかった。けれど、早く小屋に戻らなくては、不審に思ったノワールが後を追ってくるかもしれない。嘔吐したことが知れたら、また何を言われるか分からないと千鶴は思った。
「……早く戻らないと」
茂みの影から立ち上がった千鶴は、ふらふらと身体を揺らしながら歩き出した。時折、視界がぐにゃりと歪んで見えた。たいして動いているわけでもないのに息が上がる。頭は酷く重たいのに、身体はふわふわと浮遊しているような感じがしていた。
ああ、これは、本当にだめかもしれない――千鶴は膝からその場に崩れ落ちて、冷たい地面に倒れ込んだ。視界は少しずつ黒に染まっていき、ついには何も見えなくなる。
遠くの方で、扉が開き、閉まる音が聞こえた。誰かの声が千鶴の名を呼んでいる。
身体が燃えるように熱くなっていた。
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