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 巣箱の中の蜂の巣から、蜜を瓶二つ分だけ分けてもらってから、二人は山を下りるべく歩き出した。以前までは、渓谷沿いの危険な道しかなかったそうだが、ここ最近になって、このトンネルのような道が開通したらしい。開通したといっても、道を掘ったのはノワールやルミエールで、賊には見つけられないよう魔法で隠されているという話だ。このいかにも硬そうな岩山を掘り進めるなど、相当な重労働だったに違いない。

 千鶴は、ノワールに借りているマントを踏んで転ばないように気をつけながら、目の前を歩いている背中を、早足で追いかけていた。ノワールには歩調を合わせてやろうという気持ちは皆無のようで、千鶴はほとんど小走りになりながらついて行くしかない。疲れた、少し休みたいと訴えたところで、その要望を聞き入れてもらえるとは思っていなかった。

 中学の頃はもっと体力があったはずだ。マネージャーとして影から部員を支えるようになってからは、確かに運動量が減ってしまっている。以前は、五、六キロ走っても平気だったはずなのに――千鶴は内心で項垂れ、ショックを受けていた。短距離と高跳びの選手ではあったが、多少は長距離を走ることもできたのだ。

 先ほどまでは、あんなにも寒かったというのに、今では汗ばむほどに身体が熱を帯びていた。背筋を伝って落ちていく水滴の感覚が、少しだけ懐かしい。

 千鶴は、身体を動かしている時だけは、何もかもを忘れることができた。走るということが好きだったのだ。学校の勉強のこと、面倒臭い友人関係、家族との折り合いの付け方――すべてのことから解放されて、何も考えることなく、息を止めて一瞬を駆け抜ける。最高の瞬間だった。


「……そうか、私、走ることが好きだったんだっけ」


 どうして忘れていたのだろう。むしゃくしゃしていた思いも、行き場を失った憤りも、日々積み重なるようにして蓄積されていく負の連鎖も、それらを断ち切るために走っていたはずだ。まだ祖母の死を受け入れることができず、立ち直ることのできなかったあの頃、走っている時だけは、頭を空っぽにすることができていたというのに。

 ある日突然、何の前触れもなく、美優が新しい父親を連れて帰ってきた。優しそうな人だと、千鶴はそう思った。結婚をする、お腹にはもう子供がいると聞かされても、千鶴は動揺を表には出さなかった。ただ少し虚しくなって、がむしゃらに走った。

 そうしたことも、今の今まで忘れてしまっていたのだ。

 千鶴は一日のうちに片付けておかなければならないことが増え、家のことと学校のことで手一杯になった。産休と育児休暇で美優が家にいる間も、家事のほとんどは千鶴が行っていた。気分が良い時だけは美優も台所に立ったが、それは本当に、希な出来事だった。

 雅が手伝ってくれるようになったのは、千鶴が交通事故で大怪我を負ってから――いや、そうではない、雅はもっと前から、助けの手を差し伸べてくれようとしていたのだ。ただ、千鶴がそれを受け入れようとしなかった。

 入院中、千鶴は家のことが心配でたまらなかった。病院のベッドで横になりながら、まるで一家の母親であるかのように、家族の心配をしていた。食事は誰が作っているのだろう、洗濯物はたまっていないだろうか、掃除をしなければ、弟の喘息に良くない。

 そんな時に、悠が言ってくれた「がんばらなくていいんだよ」という一言が心に響き、どれだけ救われたことか。雅が「僕のことも頼ってほしい」と言ってくれた優しさが、どれほど嬉しかったことか。


「――何をぶつぶつ言っているんだ?」

「えっ? あ、いいえ、何でもないです」


 千鶴は慌てて首を横に振ると、離れてしまった距離を縮めるべく、歩調を速めてノワールの背中を追いかけた。今は過去を振り返っている場合ではないのだと、自らに言い聞かせた。


「あの」

「なんだ」

「プティーはどうしていました? 何か、危険な目に遭っていたりとかは……」


 いくら最年長者だと説明を受けたところで、外見は弟の悠とそう変わらない。あのあどけなく、可愛らしい少年を放ってきてしまったという負い目は、今もまだ千鶴の心を苦しめている。もし、悠をたった一人で留守番させるなどということになれば、千鶴は心配でいてもたってもいられなくなるだろう。

 だがしかし、ノワールにはプティーの心配をしている様子など、微塵もなかった。


「あいつなら、暖炉の前で気持ちよさそうに眠りこけていた。声もかけずに出てきたが、お前が心配しているようなことは何も起こらないはずだ」

「そうですか」


 それならよかった、と呟くように言うと、ノワールは肩越しに千鶴を振り返る。一瞬何かを言いかけたように見えたが、辺りがあまりに薄暗いので、千鶴からは細かい表情の変化まで確認することができなかった。

 再び沈黙が訪れると思うと恐ろしく感じられた千鶴は、何か話をしなくてはと焦ってしまう。すると、話題は当然のように、脳内の大部分を占めている事柄を選択してしまうようだ。


「セシリアのことですけれど……」


 千鶴は自分で自分の首を絞める話題を選んでしまったことに、思わず苦渋の表情を浮かべた。だが、この先二人で旅を続けていくには、避けては通れない話だとも思う。


「すみませんでした。私のせいで、こんなことになってしまって」

「……別にお前の責任ではない」

「でも、私がぐずぐずしていたから」

「君を護ることがセシリアの意思だったのなら、私には何も言う権利はない」

「だけど、あなたはセシリアのご主人でしょう? それなら、言いたいことの一つや二つはあるはずです。仕方がなかったなんて、思っているわけがないもの」


 そう言った瞬間、前を歩いていたノワールがぴたりと足を止めた。千鶴も同じように足を止めるが、あと少しのところで、大きな背中にぶつかりそうになる。どうにか寸前のところで踏みとどまると、今度こそ後ろを振り返ったノワールをまっすぐに見上げた。


「私が君に向かって怒鳴り散らし、恨み言を嘆きながら掴みかかれば、それで満足なのか?」


 そう言うノワールに表情はなかった。それなのに、盲いた目はぎらぎらとしていて、千鶴を鋭く睨み付けているように感じられる。

 千鶴はごくりと唾を飲み込み、その眼差しから逃げず、正面から向き合った。膝が少しだけ震えていた。


「ど、怒鳴り散らすくらいならいいですけれど、掴みかかられるのは、ちょっと困ります」


 きっと恐ろしすぎて失神してしまうだろうと、千鶴は冗談抜きで思った。


「でも、それで満足するなら、どうぞ」


 セシリアのことを思えば、その程度のことなど、どうということもないはずだ。矢に貫かれる痛みも、身が凍っていく恐怖も、橋から放り出されて川に落ち、流されていく苦しみも、千鶴には分からない。ならばせめて、一発殴られるくらいの甲斐性は見せるべきなのだろう。

 千鶴は覚悟を決めて歯を食いしばると、両足でしっかりと地を踏みしめた。ぎゅっと目を閉じてあらゆる衝撃を想定し、心の準備をする。


「……君は何か勘違いをしていないか?」


 はあ、という大袈裟すぎるため息の後で、酷く呆れたような声が頭上から掛けられた。

 千鶴は片目ずつゆっくりと開いていき、恐る恐るノワールを見上げる。無意識のうちに拳を握り締めていたようで、少しだけ伸びていた爪が皮膚に食い込み、ちりっとした痛みを覚えていた。

 ノワールは顰め面で後ろ首を掻きながら、言葉に迷っている様子だった。


「セシリアに君を護るように言ったのは私だ。何があろうと君を無事に送り届けるのが、セシリアに与えられた使命だった。たとえ君がぐずぐずしていたから矢を射る隙を与えたのだとしても、間に割って入ったのはセシリア自身の選択だ。それは君が負う責任ではないと、私はそう言っている」


 でも、と千鶴は口を挟もうとした。だが、ノワールはそれを察したように手の平を見せる。


「吊り橋の崩落は不可抗力だ。それを責め立てるほど、私も理不尽ではない。アンジエールがセシリアを抱えて跳べるわけがない。君だけを助けたことに不平不満を漏らすような男だと思われているのなら、それこそ心外というものだ」


 千鶴はぽかんと口を開けたまま、早口でまくしたてるノワールを唖然と見上げていた。無口で無愛想、朴訥としているものとばかり思っていた人物が饒舌に語る様子を見せつけられ、言葉を失ってしまう。


「ご、ごめんなさい」

「そもそも、セシリアが死んだとでも思っているような口振りが気に入らない」

「え?」

「君が思っているほど、あれは貧弱な馬ではない」


 怒っているようなその物言いの後、ノワールは身体の向きを変えると、千鶴を置いて再び歩き出してしまった。それは先ほどよりもずいぶん速い足取りで、千鶴は追いかけるのに苦労する。


「私はそんなつもりではなくて」


 千鶴は息を弾ませながら言った。


「もちろん、セシリアの無事は願っているけれど」

「君に無事を願われるまでもない」

「生きていてほしいって思っているけれど――」

「くどい!」


 ぐわんっ、と狭い空間にノワールの声が響き渡った。ノワールはもう一度足を止めたが、今度は千鶴を振り返らなかった。


「……君の責任ではないと、そう言っているはずだ」


 でも、とはもう言えなかった。言える雰囲気などではなかった。ぴりぴりとした緊張感が二人の間で張り詰めて、今にも弾けてしまいそうだった。


「セシリアを君に預けた、私の責任だ」


 その言葉は、鋭利な刃物のように、千鶴の心を貫いた。君の責任だと、そう言われるよりつらいことを、ノワールは口にしたのだ。責任さえ問わない。謝らせてもくれない。君のことなどこれっぽっちも信用していないと、そういうことだった。

 千鶴は愕然として、その広い背中を見つめることしかできなかった。


「セシリアの話は、もう止そう」

「……はい」

「断っておくが、私はアンジエールのように気安くも、優しくもない。君を女王として認めるつもりもなければ、協力してやる謂れもないと思っている」

「……よく、分かりました」

「君はチトセの孫娘だ。だから護ってやりはするが、私に多くは期待しないでくれ」


 ノワールの目が見えていないことも忘れ、千鶴はこくりと頷いた。それが空気を通して伝わったのか、ノワールは、ふん、と鼻で息を吐くと、千鶴を置いて歩き出した。

 千鶴はすぐには追いかけることができなかった。一本道を歩いて行く足音が、徐々に離れていくのを、立ち尽くしたまま聞いていた。

 昨日今日の付き合いしかない相手を信じろとは言わない。千鶴も、すべてを信じることなどできはしない。だが、この王国は祖母が大切にしてきた世界なのだ。千鶴は小さな頃からこの世界の話を聞かされ、育ってきた。だからこそ、ほんの少しだけでも力になれるのなら、最善を尽くしたいと思う。この思いは余計な気遣いなのだろうか。

 そのまま動き出せずにいると、間もなくしてノワールの足音が止まった。よく通るため息が聞こえてくると、千鶴も足を前に進める。

 これから数日は二人きりなのだと思うと、憂鬱に思うよりも、絶望の方が強く感じられた。千鶴はセシリアの無事を祈ると同時に、アンジエールが速く戻って来てくれることを、切に願うばかりだった。

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