-2-

 どれほどの沈黙が続いただろう。恐らく、千鶴が感じている時間よりも、ずっと短かったはずだ。

 最初に動いたのは、アンジエールだった。アンジエールはその場に立ち上がると、ぐぐっと背伸びをするように身体を伸ばしながら、大きく口を開けて欠伸をした。


「さて、私は出かけてくるとしよう」

「待って、どこに行くの?」


 行かないでほしいと、千鶴は切実に思った。今ここでノワールと二人きりにされるのは、どうしても耐えられないと思ったのだ。しかし、アンジエールは何を言っているのだという呆れ顔で、千鶴を見た。


「ノワールが戻ってきたら、私がセシリアを探しに行くという約束だったろう? チヅルは私との約束を守ってくれた。それならば、私も君との約束を守らなければなるまい」


 確かにその通りだ。その通りなのだが、千鶴は複雑な面持ちでアンジエールを見つめてしまう。その眼差しを受け止めたアンジエールは、優しげに目を細めると、すぐ傍にまで歩み寄り、千鶴の頬をぺろりと舐めた。矢がかすめた頬の傷が少し沁みたが、その痛みもすぐに消える。


「そのような顔をするな、チヅル。セシリアを見つけてすぐに戻る。それまでは、あの仏頂面で我慢してくれるとありがたい」

「アンジエール」


 ノワールが不満そうにその名を呼んでいさめると、アンジエールはくつくつと愉快そうに笑った。


「良い子にな。そうすれば、悪いようにはならない」

「うん」


 早く戻ってね、と言いながら、千鶴は太い首に腕を回した。まだ少し湿っている毛並みに顔を埋め、すぐに離れる。


「未来の女王の加護がある。幸運な馬は大事ないだろう」


 アンジエールは千鶴の目を見つめてそう言うや否や、ノワールに向かって「チヅルを頼む」と言い残すと、颯爽と洞窟を出て行った。途端に心細さが募り、千鶴は自らの身体をしっかりと抱き締めた。

 二人の間には沈黙が続き、千鶴はとても居た堪れない気持ちになる。何か言ってくれたらいいのにと思いながら、良く見知った人に酷似している男の顔を盗み見ても、沈黙が破られることはなかった。

 これが夢でないというのなら、どうしてこの人は、ここまであの人に似ているのだろう。所詮は他人の空似なのだろうが、非常に居心地が悪いと千鶴は思っていた。いつだってにこにこと優しく笑っている雅とは対照的に、ノワールは微かにも笑わない。言葉にも棘が感じられ、ちくちくと千鶴の心を突き刺すのだ。


「腹は減っていないか?」


 久しぶりに声が聞こえてきたかと思えば、ノワールがそう小さく言った。


「荷物はどうした?」

「……すみません、川に落としてしまいました」

「そうか」


 ノワールは僅かに思案げな顔をした。どこか困っているようにも見える。それは鞄を落としてしまった千鶴に対する咎か、それとも、二人きりの空間に耐えられないという思いだろうか。

 徐に立ち上がったノワールを見上げ、千鶴は毛布の端をきつく握り締めた。


「君の目を貸してくれないか」

「え?」

「この辺りに、地面をくり抜いた貯蔵庫がある。さすがに食べ物はないだろうが、鍋くらいなら置いたままになっているかもしれない」

「貯蔵庫、ですか?」


 手の平をつかないようにして立ち上がった千鶴は、地面をくり抜いた跡はないかと、その辺りに目を凝らす。だが、ここは壁がうすぼんやりと発光しているだけで、辺りを見渡せるほどの強い光りがあるわけではない。


「貯蔵庫なんて、どこにも――」


 そう言いかけた千鶴だったが、ふらふらと歩きながら足元を注意深く見て回っていると、一か所だけ不自然に隆起している場所を発見した。それは綺麗な正方形をしていて、両側には指先を引っ掻けられそうなくぼみまである。


「ありました、これみたいです」


 千鶴の声を辿って隣までやって来たノワールは、その場に膝をつくと、指先を滑らせて地面に隆起を確認している。どうやらそれが目当ての場所だったようで、小さく頷くと、重そうな上蓋になっている岩をいとも容易く持ち上げた。


「使えそうなものはあるか?」

「ええと、小さなお鍋と、食器があります。それから、薪も少しだけ。あとはガラスの瓶が何本か入っています」


 他にも丈夫そうな革製の鞄が収められていた。空気が乾燥している上に、この気温なので、カビなどは生えていないようだ。

 正方形の分厚い上蓋を脇に置いたノワールは、穴に手を入れて薪を取ると、先ほどの場所まで戻り、燃え残りの前に屈み込んだ。肩越しに振り返ってその様子を見ていた千鶴だったが、目の前のものに向き直る。ガラスの瓶を手に取って、これなら蜂蜜をもらっていくのにちょうど良さそうだと考えた。


「あの、ノワールさん」

「なんだ」


 千鶴のびくびくした呼び声に、ノワールの素っ気ない声が返ってくる。


「もう少し先まで行ったところに、養蜂場があったのですが」

「ああ、あれか」


 手元で何かを擦り合わせながら、ノワールは何でもないことのように言った。


「あれはルミエールが世話をしている蜂だ。元々は薬草を育てていただけらしいが、そこに蜂が集まってきたとかで、巣箱を置いたと聞いている」

「少し分けてもらいたいと思うんですけれど、大丈夫ですか?」

「構わないと思うが」


 少し焦げたような匂いがしてくると、ノワールの向こう側から煙が立ち上りはじめた。どのようにして火をつけたのだろうと思い、背後から覗き込もうとするが、ノワールは既に麻袋の中をあさっているところだった。薪はぱちぱちと音をたてて燃えはじめ、まだ若い火が、煙の中で燻っている。


「風邪を引かれたら面倒だ、こちらに来て火に当たっていろ」


 意地が悪いのか、優しいのか分からないその言葉に困惑しながら、千鶴は火の傍に近づいていった。それはまだ小さな火だったものの、近づけた顔の皮膚をちりちりと痺れさせるほどにはあたたかかった。

 思わずほっと息を吐いてしまうが、ぼんやりしている場合ではないと、千鶴は気を引き締める。


「何か腹に入れなくては、この先持たないからな」

「は、はい――」


 カンパーニュほどの大きさがある、しっかりとしたパンをノワールがナイフで切り分け、それを千鶴に向かって差し出してきた。

 この人は本当に見えていないのだろうかと、半ば疑いの目を向けながらパンを受け取ろうとした千鶴は、自らの手が酷い状態であることを一瞬だけ失念していた。焚き火でこわばりが溶けていた指先と一緒に、手の平の膿むような痛みと熱も、再び蘇ってしまったのだ。

 受け取り損ねたパンが焚き火の中に落ち、千鶴はそれを慌てて拾おうとする。しかし、その手首を、がしり、とノワールが掴んだ。


「……怪我をしているのか?」

「たいしたことはありませんから、大丈夫です」


 そう言った声を無視したノワールは、焚き火越しに千鶴の手を引くと、そこに鼻先を寄せた。まさか、アンジエールのように舐めるつもりなのかと思い、ぎょっとして身構えるが、ノワールは手の平の臭いを嗅いでいるだけのようだ。


「臭うな」

「……そうですか?」


 反対の手の平に自分でも鼻を寄せてみるものの、何の臭いもしない。腐臭がしていたらどうしようかと考えていたが、そのようなこともなかった。けれど、ノワールには確かに臭うようだ。ふんふんと臭いを嗅ぎながら、眉間に皴を寄せている。


「なぜ早く言わないんだ」

「なぜって言われても」

「アンジエールのことだ、唾でもつけておけば治るとでも言っていたんだろう」


 そんなことはないと否定をしたかったが、そうでないとも言い切れない。だが、アンジエールの唾液に特別な効能があるのは間違いないはずだ。

 ノワールは少し待っていろと言って、鍋を手に洞窟を出ていってしまった。間もなくして戻ってきたその手には、雪を目一杯に詰め込まれた鍋が抱えられている。それを火にかけて沸騰させると、パンを包んでいたやわらかい布を浸し、湿らせていた。

 その手際の良さに関心しながら眺めていた千鶴だったが、ノワールが隣に移動してくると、無意識のうちに身体を強張らせる。


「手を」

「じ、自分でできますから」

「両手を痛めていることは分かっている。いいから早く出せ」


 出せと言っておきながら、ノワールは強引に千鶴の手を取った。そして、手の平の汚れを丁寧に拭っていく。その無骨ながら優しい手に驚いていると、今度は懐から取り出した小さな瓶の栓を口で抜き、とろりとした液体を手の平に落とした。


「……これは?」

「ただの化膿止めだ。今は応急処置しかできないが、山を下りたらきちんとした手当てをしてやる」


 擦り込むようにしていたそれを塗り終えると、ノワールは反対の手にも同じように薬を塗った。少し無愛想で憎まれ口の多い様子とは裏腹に、手の平を撫でる指先が思った以上に優しく、千鶴の心臓は別の意味でうるさかった。異性に怪我の手当てをしてもらうなど、生まれてこの方一度も経験したことがなかったのだ。


「村に着くまでは、これで何とかなるはずだ」


 もう一枚の布を細く裂いて包帯代わりにすると、それを両手に巻きながらノワールが言った。


「ありがとう、ございます」

「……まだ痛むか?」

「え?」

「すまない」


 ノワールは仏頂面のまま口を開いた。


「私は言葉にされない思いは汲み取れないんだ」


 それは優しさというより、ただ事実を述べているだけのようだった。その代わり、言葉にされた思いはすべて汲み取れると、そう言っているようにも聞こえる。


「……少しは痛いですけれど、大丈夫です。このくらいなら我慢できます。我慢強いことだけが取り柄ですから」


 特に誰かから我慢強い子だと褒められたことはなかったが、千鶴は自分をそのように評価していた。


「無理に我慢をされて取り返しのつかないことにでもなれば、後で迷惑を被るのはこちらだ」


 実は、この男も他の者たちと同じように優しく、良い人なのかもしれないと思いはじめていたが、そういうことか、と千鶴は妙に納得する。優しくしてくれたとばかり思っていたことはすべて、後々の迷惑を軽減させるための、一つの策だったというわけだ。

 この人は最初から、私を迷惑がっていたではないか――千鶴は内心で苦笑いを浮かべた。


「……以後気をつけます」


 新しく切り分けてもらったパンを、今度こそは落とさずに受け取り、千鶴はそれを口に運んだ。パンの匂いよりも、香りのきついハーブのような薬の匂いが鼻につく。それでも、久しぶりに食べ物を口にすると心底ほっとして、心と身体の緊張が解けていくようだった。

 炙ったチーズを乗せたパンをもう一枚と、鍋で温めた山羊のミルクを二人で回し飲みすると、身体がぽかぽかとあたたまりはじめる。

 このままゆっくりしていたら、ついうたた寝をしてしまいそうだ。そう千鶴が思っていると、食事の後片付けを手早く済ませたノワールが、すっくと立ち上がった。


「そろそろ行くぞ」

「でも、ノワールさんは到着したばかりですし、もう少し休んでからの方が――」

「私の心配は必要ない。そもそも、こんなところに長居をしていたら、寒さで体力を無駄に消耗するだけだ。さっさと下山する」


 貯蔵庫に入っていた革製の鞄を取ると、ノワールはそこに麻袋を押し込んでいる。雪を溶かした水で濯いだ鍋も、どうやら持っていくつもりのようだ。空のガラス瓶も鞄に入れて、正方形の上蓋を元の場所に戻している。


「これも着ていけ」

「え、でも」

「私は寒さに慣れている」


 ノワールは羽織っていたマントを外すと、それを千鶴の肩にかけた。オニキスの嵌め込まれた金のフィビュラで首元を止めると、千鶴の身体はすっぽりと黒いマントに包み込まれる。マントの内側は赤黒いベルベットのような素材で、とても肌触りが良く、あたたかかった。


「下山には数日かかるものと思っていろ。途中でセシリアと合流できるものとばかり思っていたからな。村まで歩くとなると、それなりに時間と体力が必要だ」

「……置いていかれないように善処します」

「良い心掛けだ。アンジエールに言われた通り、良い子にしていれば、悪いようにはしない」


 その時になってはじめて、千鶴はノワールの笑う顔を見た。しかし、その表情は千鶴が知っている男の笑顔とはまるで違う、酷く皮肉っぽい微笑だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る