第四章 新たなる高みへと向かう

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「――話は分かった」


 今、千鶴の目の前にはノワールの姿がある。

 千鶴は毛布に包まった格好のまま、身体を萎縮させてしまっていた。ノワールの正面に正座し、身を縮こまらせて、審判の瞬間を待っている。

 ああ、見えないはずの視線が痛い――千鶴は下唇を噛みしめ、今にも泣き出してしまいそうになるのを、必死になって我慢していた。




 行きは三十分ほどだった道のりも、向かい風ともなれば、そう容易くは進ませてくれない。寒さなど諸共しない様子だったアンジエールも、顔を顰めながら歩みを進めていた。

 顔を上げることもできなかった千鶴は、息苦しさと戦いながら、アンジエールに縋ることで何とか歩くことができていた。時おり、体調を気づかったアンジエールが声をかけてくるものの、口数は徐々に減っていき、最後には相づちを打つことさえ困難になりはじめていた。


「さあ、先に中へ」


 ようやく岩の裂け目に戻ってきた頃には、千鶴はもうへとへとの状態だった。アンジエールに背中を促されながら足を踏み入れると、やはり風がないだけ随分あたたかく感じられる。 

 腰を低くし、洞窟に向かってよろよろと足を動かしながら、千鶴はぼんやりとこの先のことを考えていた。

 不慣れなことばかりで混乱しているうちは、まだよかった。何となくではあるものの、千鶴は少しずつこの世界のことを知りはじめている。物事を冷静に考えることができるようにもなってきた。おそらく、それが仇となっているのだ。これは夢だと信じていた時の方が、精神的にも気が楽だったのは間違いない。

 いつもならばベッドで横になり、自らの考えと向き合いながら、じっくりと思考の整理をしたいところだった。

 洞窟に戻ってきたところで、千鶴は羽織っていた毛布を脱ぐと、全身を覆っていた雪を払い落とした。後から入ってきたアンジエールは、全身を大きく揺すり、雪を振り落とそうとしている。だが、足の飾り毛や腹回りの毛には、しつこい雪玉がぽこぽことできたまま、一向に落ちる気配がない。


「……大丈夫?」


 どうやらその雪玉が煩わしいらしく、アンジエールはその場に伏せると、自らの口でそれを取り除きはじめた。千鶴はしばらくその様子を眺めていたが、そこへ近づいていくと、すぐ隣に膝をつく。ちらりと千鶴を見たアンジエールは、しゃくしゃくと雪玉を砕きながら、軽く頭を振った。


「これだから雪は嫌いだ」

「手伝ってあげましょうか?」

「いや、君の手の傷に障る」


 そう言いながら、アンジエールは尚も雪玉を砕き続けている。


「もう少し休んだら、別の山道を行こう」


 千鶴の手は、寒さで感覚のほとんどが失われていた。痛みを感じるような気はするが、それも遠くの方で、微かに感じる程度のものでしかない。手の平の色は悪くなっていく一方だったが、怖いもの見たさから何度も確かめてしまうのだ。このまま壊死してしまうのではないかと思うと、怖くなった。


「いつもはどうしているの? 外出するたびにこうして雪をつけていたら大変でしょう?」


 妙な考えは振り払ってしまおうと、千鶴は話を戻すことにした。

 すると、隣の家で飼っていたゴールデンレトリバーが、雪の季節がやってくる度に、大きな雪玉をいくつも足や腹にぶら下げていたことを、不意に思い出す。そのゴールデンレトリバーは、雪玉を作っては大喜びし、誇らしげにしていた。


「都は辺境に比べると雪が少ない。それに、最近は城の外に出ることもなかったからな。これができるのも久しぶりだ」

「お城にずっとこもっていたの?」

「私の役目は女王の住まう城を護ることだ。城の外へ出ていく道理がない。今回は、この耳のことがあったからな、特別だ」


 大層気分が悪そうに顔を顰めたアンジエールは、まだ半分ほど残っている雪玉を忌々しげに睨み付けている。銀色に輝く毛並みを飾る雪玉は穢れのない純白で、綺麗にまん丸だった。だが、しつこく絡みついて、ただ引っ張るだけでは取れそうにない。


「呪いは解けても、雪は溶かせないのね」

「自然界のものは厄介だ。水や火、風や大地は女王以外の者には決して屈しない」


 以前にも、女王は天候さえ自由に操れると、アンジエールは話していた。

 もし自分にも女王たる素質があるのなら、この天気をどうにかできるのではないか――千鶴がそのように考えていると、それを察したようにアンジエールは続けた。


「君はまだ正当な女王ではないので、この雪や風を止ませることはできない。残念ながらな」


 そう言うアンジエールは心なしか、本当に残念で仕方がない、と思っているように見える。残念に感じているのは、千鶴も同じだった。

 何とかして火だけでも熾すことができれば、アンジエールの雪玉を溶かしてやることができるはずだ。千鶴はそう思いながら、その場にゆっくりと立ち上がった。それを追いかけるようにして、アンジエールが顔を上げる。


「その辺りに燃やせそうなものがないか、探してくるね。前の時に使い残した薪が落ちているかもしれないし」

「いや、大丈夫だ、チヅル」

「私が困るの」


 千鶴がそう言うと、アンジエールは不思議そうに目を丸くして、首を傾けた。


「あなたがそんな状態だと、くっついていることもできないでしょう? 他に暖の取りようがないんだから」

「だが」

「遠くまでは行かない。声の届く範囲にはいるようにする」

「ならば、私も――」

「いいから、いいから」


 千鶴はアンジエールをどうにか宥めると、出入りをしていた道とは別の方に足を向けた。洞窟は一本道になっているので、迷うことはない。だが、何か落ちてはいないかと探す千鶴の目には、うっすらと発光している岩肌が見えるだけだった。足下には、塵一つ落ちていない。


「……やっぱりだめか」


 白い息を吐き出して、千鶴は来た道を引き返そうとした。あまり長く姿を消していると、心配をしたアンジエールが、雪玉を引きずりながら追いかけてきそうだ。

 しかし、奥へと進む道の先から、微かに甘い香りが漂ってくるような気がして、千鶴は思わず足を止めた。


「何の匂いだろ」


 花の匂いにも感じられるが、この極寒の中で咲く花など、存在するのだろうか。千鶴は不思議に思いながら、誘われるようにして香りが漂ってくる方へと進んでいった。

 はあ、と白い息が吐き出される度に、岩の中の鉱石が反応し、ふわりと淡く発光する。千鶴が立っている場所だけが明るく、これから向かう道も、今まで歩いてきた道も、完全な暗闇だ。だがしかし、更に先へ進んでいくと、道の向こうが薄ぼんやりと明るくなっているのを見て、千鶴は警戒した。

 息を潜め、耳を澄ませていると、ぶううん、という唸るような音が聞こえてくる。例えるなら、バイクのエンジン音に近いだろう。だが、こちらの世界にバイクがあるとは思えない。

 引き返した方がいいのだろうか。大声でアンジエールを呼んで、一緒に行ってもらった方が、

安全といえば安全だ。人の気配こそ感じないものの、得体の知れない何かが待ち構えている可能性はある。

 先ほどよりも、甘い香りが更に強くなってきていた。

 千鶴は暗闇を振り返った。アンジエールの息遣いも、岩を引っ掻きながら歩く爪の音も、何も聞こえない。

 もしもの時は、叫び声を上げればいい――そう決めた千鶴は、ぼんやりと明るい方に向かって、再び歩きはじめた。唸るような音は徐々に大きくなり、今や暴走族の集会が行われているようだった。被った毛布の上から両耳を塞ぎ、足音を立てないように少しずつ近づいていく。


「う、わあ……」


 それはほんの微かな明るさだったのかもしれない。だが、千鶴にはとても眩しく感じられ、一瞬だけ目がくらんでしまった。目が慣れてくると、細めた視界の向こう側が、僅かずつ色を取り戻していく。

 その空間に足を踏み入れた瞬間、むせ返るような甘い匂いが、一気に押し寄せてきた。唸るような音は空間の中で反響し、増幅されているようだ。ぐわん、ぐわん、と音に頭が揺さぶられる。

 そこは、一面が真っ赤な花畑だった。いや、一面どころではない。壁や天井にもびっしりと蔦が伝っていて、空間全体が真っ赤に染められていた。あちらの花で例えるならバラに近い。蔦が黒ずんでいるのでどこか毒々しいが、美しい花だ。

 花弁が非常に多く、どこか作り物のようにも見えた。だが、それが本物の花であるというのは、どうやら間違いないらしい。ぶううん、ぶううん、と唸るような音を鳴らしていたのは、蜂に似た虫だったのだ。

 その虫は黒々としていて実に丸々しく、目だけが鼻と同じように真っ赤だ。花から花へと飛び移っては、蜜を集めて回っているらしい。だが、その大きさはミツバチとは比べ物にならないほど巨大で、どちらかといえばクマバチのような姿をしている。

 どうやら攻撃性はないらしく、その場に立ち尽くしている千鶴の目の前を、何匹もの蜂――のような虫――が、悠然と飛び交っていた。


「こんなところで養蜂……?」


 真っ赤な花畑の中央に、六箱の木箱が並べられていた。そこまで近づいていく勇気はなかったが、どうやら養蜂しているらしい、ということは千鶴にも分かった。

 それにしても、この寒さの中で花が咲いていることもさることながら、昆虫が生息しているという事実を目の当たりにしても、俄かには信じがたい。この空間は他の場所に比べて幾分あたたかくはあるようだが、それでも氷点下なのは確実だ。

 もし、この蜂たちが集めている蜜を少しだけでも分けてもらえたなら、大いに下山の助けとなることだろう。空腹は我慢するとしても、このままではエネルギー不足で倒れてしまいかねない。

 でも、待てよ――千鶴は思った。

 この花に毒性はないのだろうか。もしかしたら、食用の蜜ではないかもしれない。他の用途があるとしたら、無暗に口に入れるのは危険だ。ここは一度引き返して、アンジエールに確認をしてみた方がいい。

 人様の養蜂場に勝手に忍び込み、蜂蜜を拝借していくなど窃盗に他ならないが、今は背に腹は変えられない状況だった。

 駆け足で来た道を戻った千鶴は、愛すべき獣に向かってすぐに声をかけた。


「アンジエール、ちょっと聞きたいことが――」


 しかし、千鶴の声は不自然に途切れる。その傍らに立っている人物を見て、思わず口を噤んでしまったのだ。絶句するほどに驚き、開いた口が塞がらなくなった。

 ほんの数分前まではアンジエールしかいなかったはずの空間に、いつの間にか一人増えている。しかもそれは、ずっと無事を心配していた相手だ。それなのに、千鶴は足がすくむほど恐怖していた。すぐさま脳裏をよぎったのは、セシリアのことだった。


「あ、え、そ、その……」


 千鶴は言葉とは程遠いうわ言のような声を漏らし、アンジエールとノワールの顔を交互に見た。どうやら、千鶴がいない間に雪玉は取り終えたようで、アンジエールはしっとりと濡れている毛を手入れするように、丹念に舌で舐めている。

 何か言ってくれと訴えかけながら軽く睨み付けていると、獣の視線が千鶴とノワールの間で何度か行き来をした。そして、心得たように何度か瞬いたかと思うと、頭をもたげて千鶴を見る。


「私たちが話していた通り、この男は道草を食っていたそうだ」

「何が道草だ」


 アンジエールの物言いにすぐさま反論したノワールの手には、くたびれた麻袋が提げられている。その麻袋は大きく膨れていて、物がぱんぱんに詰め込まれているようだった。ノワールはそれを少しだけ掲げると、声を頼りに千鶴が立っている方を向いた。


「プティーが用意した荷の中に食料がさほど入っていないようだったから、一度戻って調達してきただけだ」

「あ、あんなところまで戻っていたんですか?」


 千鶴が思わず声を上げると、ノワールは小さく頷く。馬を使ってもそれなりの距離だったのだ、歩いて戻ったのだとしたら、相当な時間が掛かったことだろう。


「賊の馬を拝借したからな、たいした手間でもない」

「でも、あの橋はどうやって」

「ああ、酷いありさまだったな。あれはどういうことだ? おかげで馬を置いてこなければならなかった。迎えが来ればいいが」


 ノワールの口から馬という言葉が出てくる度に、びくびくと肩を震わせている千鶴を見て、アンジエールが小さく息を吐き出した。

 自分の口で伝えなければならないと思うのに、唇を噛みしめたまま、千鶴は言葉を紡ぐことができない。身体を覆っていた毛布がはらりと足元に落ちても、身動きを取ることができなかった。


「チヅルはお前のことを酷く心配していたぞ」

「心配?」

「自分のために囮にしてしまったと、心を痛めていた」


 のっそりと起き上がったアンジエールは、そう言いながら千鶴に近づいていく。そして、足許に落ちている毛布をそっと銜え、拾い上げると、優しく差し出した。


「同じように、セシリアのことも」

「セシリア?」


 その名前を聞いて、ノワールの表情が僅かに変化した。


「セシリアがどうかしたのか?」


 不思議なことに、この場に自らの愛馬がいないことを、ノワールが気にしている様子はない。むしろ、それで当然と思っているようだ。


「セシリアはここまで入ってこられない。彼女は私がいなくても、渓谷沿いの山道を歩いて、自分だけで山を――」

「違うんです」


 千鶴は絞り出すような声で言うと、何も映すことのない暗い色の目を見つめた。その冷たく感じられる眼差しが、確かに自分を見ているような気がした。


「ノワールさんと別れた後、セシリアと一緒に、渓谷の吊り橋までは何とか無事に辿り着くことができました」


 今から思えば、吊り橋まで無事に辿り着いたという考えそのものが、千鶴自身の幻想だったのかもしれない。

 橋の上まで追い詰めることができれば、千鶴は逃げ場を失うだろう。足場が悪く、旅慣れしていない千鶴にとって、あの吊り橋は難易度が高すぎたのだ。それを見越した賊たちが、地の利を生かそうと、あえて千鶴を泳がせていただけとも考えられた。

 本当は背後から、じわり、じわり、と忍び寄り、その瞬間を見計らっていたのではないか。そう思うと、千鶴はますます自分が不甲斐なく、情けなく思えて仕方がなかった。 


「でも、吊り橋を渡っている途中で見つかってしまって、逃げようとしたんですけれど、吊り橋の踏み板が落ちて、それで……」


 口から心臓が飛び出してくるのではないかと思うほど、千鶴は極度の緊張感に襲われていた。眩暈を覚えるほどだ。ノワールから伝わってくる妙な威圧感に押され、喉を詰まらせていると、アンジエールが助け舟を出してくれた。


「チヅル、こちらに来て座りなさい。ノワール、お前もだ」


 座れと言われた通り、千鶴は洞窟の中程まで進み出ると、そこに腰を落ち着かせた。まるで、これからお説教を受ける子供のように、正座をして背筋を正す。ノワールが焚き火の燃え残りを挟んだ正面に胡坐を掻いて座ると、二人を見守るような位置取りでアンジエールがそっと伏せた。


「ゆっくりで構わない。私も最初から見ていたわけではないからな。君の口から詳しく話してもらえると助かる」


 アンジエールの声は普段通りに朗らかで、聞いている者の心を癒すようだ。だがそれも、今の千鶴にはあまり効果がない。大きく一度だけ息を吐く余裕ができた程度だった。上手な呼吸の仕方も忘れ、心臓の辺りが僅かに窮屈さを覚えた。


「……踏み板が落ちたところに、セシリアの前足が落ちてしまって。でも、その時は何とか引き上げることができたの。だけど、すぐに矢を射られて、身体が……」


 逃げなければいけないと千鶴は思った。それでも、身体が硬直して動かない。恐怖の前で完全な敗北を味わっていた。自分の弱さが、悲劇を招いてしまったのだ。


「ごめんなさい、私、本当に……」

「謝罪はいらない」


 ノワールの冷ややかな声が千鶴の言葉を遮った。


「それで、セシリアはどうした」

「……銀の矢が射られて、それが彼女の足に」


 いっそのこと怒鳴りつけて、声を荒げてくれたらいいのにと、そう千鶴は思った。淡々とした冷静な口振りが、千鶴を一層怯えさせていた。


「セ、セシリアは、私を庇ってくれました。それからすぐ、矢を受けたセシリアの足が凍りはじめて、痛みで暴れはじめたと思ったら、次の瞬間にはもう、橋が崩れてしまったんです」


 端から宙に投げ出された時の、ふわり、と胃の辺りが浮かび上がるような感覚が、不意に思い出された。一瞬、時間が止まり、そこから急激に加速する。世界が黒く黒く染まっていき、意識が遠ざかっていく。空が遠くなっていく中で、指先が天を求めた。


「私が助けられたのは、チヅルだけだった」


 沈黙を破ったのはアンジエールの声だった。今はその朗らかさを消して、ほんの少しの厳しさを孕ませている。


「そうか――話は分かった」


 いつもと同じ声の調子のまま、ノワールが言った。

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