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「私、ネイジュさんの気持ちが分かるような気がする」


 しばらくの沈黙の後で千鶴が口を開くと、アンジエールが僅かに首を傾げた。


「きっと、もう女王には何一つ期待していないのだと思う。ううん、違う、期待をしては駄目だって、そう自分に言い聞かせているのではないかな」

「どうしてそう思う?」

「私も同じだから」


 千鶴も、以前は世界に期待することがあった。努力はいつか報われると信じていた。信じていれば何事も叶えられるという希望もあった。千鶴に絶望を与えたのは、他ならぬ祖母の死だ。祖母の死は、千鶴を無気力にさせた。裏切られたとさえ思っていた。

 人はいずれ必ず死ぬ。そのようなことは当たり前で、それが自然の摂理というものだ。そうと分かっていても、千鶴は信じたくなかった。たった一人きりの理解者を失ったのだという現実を、認めたくはなかった。

 ねじ曲がった感情は、いつしか千鶴の性格にまで影響を及ぼしはじめた。誰かを心から信じるということがなくなり、期待することもなくなっていった。

 千鶴はいつの間にか、自分に期待することもやめてしまっていたのだ。自分には無理だ、努力をしたところで報われない、そう頭ごなしに否定するようになっていた。


「誰かに期待していても何も変わらないから、もう自分でやるしかない。誰かに何かを望むより、すべて自分の手で片付けてしまった方が速いと思うの。お洗濯とか、お掃除とか、食事の支度とか」


 千鶴がそう言うと、アンジエールは少し不可解そうな面持ちを浮かべた。どうやら、その説明では分かりにくかったらしい。

 家のことはすべて祖母がしてくれていた。もちろん、千鶴も手伝いはしていたので、勝手は知っている。しかし、祖母の死後、食事を作ってくれる人がいなくなった。千鶴は当然のように母が作ってくれるものと考えていたが、それはお門違いというものだった。

 テーブルにはうっすらと埃が積もって、シンクは汚れた食器でいっぱいになり、洗濯物がかごの中で山のようになっていた。千鶴は買い置きの缶詰や菓子で何とか食べ繋いでいたが、ある日、不意に悟ったのだ。

 黙っていても何も変わらない。じっとしていたら、時間は過ぎていく。物は汚れるし、お腹だって減る一方だ。

 祖母がいなくなったというのに、世界は変わらず回り続けていた。その現実が、ある日突然驚愕の事実として顕現し、千鶴の心を酷く傷つけた。

 そうだ、私はまず、母に期待することをやめたのだ――そう思いながら、千鶴は力なく笑った。

 何日も顔を合わせないことがあった。夕食の用意をしてテーブルの上に置いておくと、そのまま残されていることもあれば、なくなっていることもあった。ごみ箱に捨てられていることもあった。千鶴は、朝起きてリビングに降りていくと、顔を洗うよりも先に、美優の夕食の後片付けをした。


「最初はね、してほしいこととか、そのためには自分が何を手伝えるのかとか、そういう話をしたかった。でも、忙しいからと言って話も聞いてくれない。それでも、聞いてもらえるまで何度も話しかけたけれど、私が望んでいたような答えはもらえなかった。好きにしなさい、勝手にしなさいって、それだけで」


 テーブルには一言のメモも添えられず、裸のまま一万円札が一枚だけ置かれている。毎週月曜日のことだ。千鶴はそのお金を使い、一週間のやりくりをした。欲しいものがある時は、残ったお金をこっそり貯めて購入していた。


「私の場合は些細なことだから比べられはしないけれど、根本的なところは一緒だと思うの。誰もやらないから、自分でやるしかない。使命感とか、そういう格好良いものではなくて、なんていうのかな、一種の諦めみたいな感じで」

「……私にはよく分からない、複雑な感情だな」


 アンジエールはお手上げだとばかりに、口を大きく開けて欠伸をした。鋭い牙を覗かせ、一瞬だけ鼻の頭に皴を寄せると、ぺたんと伏せて前足の上に顎を乗せる。


「ねえ、私もネイジュさんに会える?」

「会いたいのか?」


 アンジエールの物言いはどこかぶっきら棒で、賛成しかねるとでも言いたげだった。


「うん、会ってみたい」


 そう言って頷く千鶴を横目に見たアンジエールは、さて、と言いながら明後日の方向を見た。やはり、会いたいと言ったことを快くは思っていない様子だ。

 だが、あちらにしてみれば、千鶴が直接訪ねて来るのだ、それは願ってもないことだろう。わざわざ王国中を探し回り、捕まえる手間を省くことができる。


「この国で旅を続けていれば、どこかで鉢合わせることもあるかもしれないな」


 本気で言っているとは言い難いぼんやりとした声で、アンジエールが応えた。その顔を横から覗き込むと、輝く目に千鶴の姿が移り込む。眉間にきゅっと皴が寄り、アンジエールの態度に満足していない、という顔をしていた。


「さあ、今日は疲れただろう。少し眠るといい」

「でも、ノワールさんを待たないと。それに、セシリアも心配だし――」


 このような非常時に、悠長に眠ってなどいられるだろうか。こちらのことについて、もっと聞きたいこともあるのだ。

 しかし、千鶴の願いは聞き入れられそうになかった。アンジエールは眠る姿勢を崩そうとせず、片方の瞼だけ面倒臭そうに持ち上げると、豊かな尻尾で千鶴の身体を覆った。


「同じ待つならば、少しでも身体を休めておく方がいい。いずれにせよ、明るくなる頃には出発だ」

「ノワールさんは、一晩待っても自分たちが現れなければ、山を下りたところにある村の――」

「ビビアンを訪ねろと言ったのだろう? 分かっている」


 再び欠伸を漏らしてから、アンジエールは口をむにゃむにゃと動かした。


「いいから休め。私も少し眠ろう」

「あ、ちょっと」


 その都度千鶴の言葉に反応していては埒が明かないと思ったのか、アンジエールは顔を反対側に向けると、問いかけには一切応じなくなってしまった。身体を揺すってみても、耳を引っ張ってみても、何の反応も得られなかった。

 千鶴はため息を吐いて、アンジエールの身体に背中を預けると、尻尾を掴んで腹の上にかけ直した。どこか清々しい香りが、ふわりと鼻先をかすめた。

 このままでは一人で悶々と考え込んでしまい、到底眠れはしないだろうと思っていた千鶴だったが、なんてことはない、それから五分後には深い眠りに落ちていた。とくん、とくん、と伝わってくるアンジエールの鼓動が心地よく、こうして大きなぬくもりに身を委ねていると、包み込まれるような安心感があった。

 疲れ果てて泥のように眠っていた千鶴が目を覚ましたのは、それから数時間後だった。時間という概念が凍りついてしまっているという今、数時間という時間経過さえ無意味なのだろうが、感覚的にはそう感じる。

 千鶴は身に沁みる寒さより、痛みと空腹で目を覚ました。


「目が覚めたか?」


 耳元でアンジエールが確かめるように問いかけてくる。千鶴は手の甲で目元を擦りながら、こくりと頷いた。そのまま手の平に目をやれば、昨日までは真っ赤に腫れ上がっていた怪我が、今度は黒々とした紫色に変色しているのが見て取れる。我ながら痛々しいと、千鶴はぼうっとする頭で考えていた。


「気分はどうだ?」

「頭が重い」


 手の痛みと空腹のことは、黙っておくことにした。


「でも、大丈夫。ありがとう」


 手の平が痛いから舐めて欲しいと頼むのは気が引ける。それに、腹が減ったと訴えたところで、食べ物が出てくるわけでもないのだ。

 千鶴はアンジエールに寄り掛かっていた身体を起こすと、ふわあ、と欠伸を漏らした。まるで、高級ホテルのベッドで眠っていたかのような、最高の寝心地だった。昨日あれだけのことがあったというのに、寝起き特有の倦怠感はあるものの、身体の疲れは不思議と残っていない。


「あなたは神獣とか幻獣とか、そういう神聖な生き物なの?」

「そう呼ぶ者たちもいる」


 アンジエールは、ぱちん、と大きな目を瞬かせてから、先を続けた。


「私を創造したのは、この王国の女王だ。女王は魔女であり、核なる力。創造主たる女王の御力によって形作られていると考えれば、神聖とも言われよう」

「創造主と神様は違う?」

「魔女は魔女だ。限りある生の者を、普通神とは呼ばないだろう?」


 朝のぼうっとしている時にするような話ではなかった。千鶴は失敗したと思いながら、大きく頭を振った。昨日、今日の付き合いではあるが、アンジエールは少しだけ、頭が固いという印象を受ける。

 ああ、でも、それを言うならノワールの方がずっと――千鶴はそこまで考えたところで、はっとしてアンジエールを振り返った。


「ノワールさんは?」

「まだ到着していない」

「……そう」


 酷い嫌悪感が募った。アンジエールは昨日のうちに戻ったというのに、なぜノワールは一晩過ぎた今も、戻らないのだろう。もしかしたら、ノワールの身に何かあったのではないか。傷を負い、どこかで倒れているのではなかろうか。ルミエールのように連れ去られたのではと、悪い考えばかりが脳裏をよぎる。

 その思いが顔に出ていたのか、アンジエールがくつくつと笑ってから口を開いた。


「あいつのことが心配か?」

「あなたは心配ではないの?」

「ノワールがあの程度の賊にどうこうされるとは考えていないからな」

「それなら、どうしてまだ――」

「心配するな。どこかで道草でも食っているのだろう」


 あの堅物そうな男が、自分の責任を放り出して道草など食うことがあるだろうかと、そう千鶴は考えていた。それでも、アンジエールが目を細めて笑っているのを見ると、少しだけ心が楽になるのを感じる。

 だが、セシリアのことがあるのだ。ノワールが無事に現れれば、アンジエールが探しに行ってくれるという話だったが、それは叶わなくなってしまった。


「では、こうしよう」 


 肩を落としている千鶴を見かねたのか、アンジエールが口を開く。


「渓谷沿いの山道を行けば、途中でセシリアを見つけることができるかもしれない。だが、昨日と同じように、風と地吹雪に晒されるぞ。村へ行くのにも遠回りになるが、それでも構わないか?」


 千鶴はその提案に二つ返事で了承していた。大きく頷いてアンジエールの首に腕を回し、抱き締めると、手の平の痛みが少しだけ和らいだ。


「その代わり、また賊に襲われる可能性は高くなるだろう。昨日のような危険とも常に隣りあわせだ。それらの危険に見舞われた時は、私の言う通りにすると約束するか?」

「うん、約束する」


 ほとんど考えることもせず、千鶴はアンジエールに約束をした。もう既に、一度命を救われている相手だ、逆らえるはずもない。

 真剣な面持ちでいる千鶴を、心の奥底まで見透かそうかという目で、アンジエールはじっと見つめている。それが深い考えのない上辺だけの返事だと分かっていながらも、当面はそれで構わないと、そう思うようにしたようだった。

 千鶴は洞窟で拝借した厚手の毛布に身を包み、深呼吸をして覚悟を決めると、昨日辿ってきた岩山の割れ目を引き返した。表情を引き締めて一歩、渓谷沿いの道に出る。その途端、昨日と同じ暴風と地吹雪が吹き荒び、千鶴の身体を攫っていこうとする。足許を取られて二、三歩谷底へ近づいた千鶴の背中を、アンジエールが毛布をくわえて引き戻した。


「また私につかまっているといい」

「ありがとう」


 千鶴はアンジエールの言葉に甘えることにした。後ろからぐるりと回り込んで、やわらかな首筋の体毛に身を寄せる。たったそれだけのことで、風が和らいだように感じられるのが不思議だった。

 肌を刺すような寒さは相変わらずだが、誰かが傍にいてくれるというだけで、とても心強い。ふんわりと心に明かりが灯ったようなあたたかさを感じる一方で、そこに吹き込んでくる隙間風が、今にもその明かりを吹き消してしまいそうな心許なさもあった。


「酷い地吹雪……」


 千鶴はアンジエールのやわらかな毛に顔を半分ほど埋めたまま、その背中越しに辺りを見渡していた。だが、実際に見えるものなどほとんどない。ホワイトアウトと呼ばれる現象だ。

 そこには確かに渓谷があって、落ちれば死ぬという危機感も、恐怖もある。けれど、昨日は見えていたはずの谷底が、すっかり見えなくなってしまっていた。手を伸ばせば、自らの指の先さえ見えなくなるのではないかと思うほど、世界は白に覆われている。

 これは引き返した方がいいのではないだろうかと、千鶴は思った。アンジエールはもっと安全で、風や地吹雪には晒されずに山を下りられる道があると、そう言っていた。今からでも道を買えた方が良さそうだと、一瞬でもそのようなことを考えてしまう。


「……ううん、だめだ」


 セシリアは千鶴を助けるために銀の矢を受け、谷底へと落ちた。それなのに、今更見捨てるなどという選択をするのは、ただの裏切りでしかない。自分が一緒にいるなどと言っておきながら、一緒にいられない現実が、千鶴にはとても不甲斐なかった。


「どうする、引き返すか?」


 まるで千鶴の心を読んだかのようなアンジエールの言葉に、千鶴は毅然と首を横に振った。


「大丈夫、行こう」


 結果から伝えてしまえば、山を下りる道中で、セシリアを見つけることはできなかった。地吹雪が酷く、視界が悪かったせいもある。だが、そうでなくても無理だったのだ。渓谷沿いの山道は崩落し、それ以上先へは進むことができなくなってしまっていた。アンジエールに縋りついたまま歩き続け、三十分ほど進んだ先の出来事だった。


「ここはだめだ、チヅル。引き返して別の道を行かなくては」

「だけど、セシリアは……」

「セシリアも我々の行き先を知っている。無事ならば自力で村を目指すはずだ」

「無理だよ、足が動かないんだよ? 怪我をしているかもしれないのに!」


 千鶴は目深に被っていた毛布の下から、アンジエールの目を覗き込んだ。


「あの吊り橋から落ちて、無事でいると本気で思っているの?」

「私の言う通りにすると、そう約束をしたはずだ」


 思いの外厳しい声音でそう言われてしまえば、千鶴には返す言葉もなかった。確かにその通りだと思ったからだ。

 今にも泣き出しそうな顔になって口を噤んだ千鶴を見上げ、アンジエールは息を吐いた。


「とりあえず、先ほどの洞窟まで戻る。話はそれからだ」

「……分かった」


 千鶴は出鼻をくじかれた思いだった。

 それでも、確実に身体は疲弊し、空腹で意識が朦朧として、寒さで眠気に襲われる。もうこれ以上、この極寒の最中を歩き続けることは困難であるということは、千鶴にも分かっていた。

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