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 やはり縄が脆くなっていたのだ。ぶちん、ぶちんぶちん、と立て続けに太い縄の切れる音が聞こえてすぐ、千鶴は橋から放り出されていた。支えが不十分で斜めに傾いた吊り橋は、これまで以上に大きく風に煽られ、賊たちも次々と振り落とされていく。

 それはセシリアも例外ではなかった。セシリアは千鶴の目と鼻の先で放物線を描くように、宙へと飛び出していった。千鶴は咄嗟に吊り橋の縄を掴もうとしたが、ささくれ立った縄は低温火傷をしている手の平に刺すような痛みを与え、まるで電撃を走らせる有刺鉄線に触れたような刺激が、肌を酷く痺れさせる。

 世界がほんの一瞬、静寂に包まれたような気がした。ひゅっ、という自らの息を呑む音が、現実を引き連れてくる。恥じも何もかなぐり捨てて雄叫びのような悲鳴を上げながら、千鶴は濁流に向かって降下をはじめた。ぐわん、ぐわん、と千鶴の声が渓谷に反響する。

 きつく目を瞑っていると、暗闇が轟音をまとって、千鶴の身体中を包み込んだ。恐怖が心を支配していく。

 ようやく選択したというのに、世界は千鶴の意に反して暗転しようとしていた。

 あちらの世界では、まるで神隠しにあったかのように姿を消した千鶴を、どのように扱うのだろうか。母親の美優は千鶴が家出をしたと思うだろう。なんて親不孝な子だと言って、喚き散らすに決まっている。もしかしたら、何かの事件に巻き込まれたのかもしれないと心配した雅が、警察に通報することも考えられた。

 ああ、いや、母は自分がいなくなったことを、誰よりも喜ぶかもしれないと、千鶴はそう思い直した。邪魔者が消えて、家族三人で暮らしていくことができるのだ。きっと、これ以上の幸せはないだろう。美優は時々、千鶴を邪魔そうに睨み付けていることがあった。

 最初で最後に、母のことを喜ばせることができるのなら、それはそれでいいのかもしれない。母のためにできることがあるとすれば、自分がきれいさっぱり、跡形もなく消え去ることだと千鶴は考えていた。

 唯一の心残りは、弟の成長を見届けられないことと、美優たちには内緒で、雅と一緒に夜中のアイスクリームを食べられなくなることだった。

 思えば、千鶴の短い人生には、いくつもの後悔が積み重なっていた。自らの努力次第でどうとでもできたはずの多くの事柄から、逃げ隠れして生きてきたのだ。最高とは言えないまでも、もっと有意義な一生を築くことだってできただろう。何事にも真摯に取り組み、決してごまかさず、思い残すことのない日々を送れたはずだ。

 諦めてしまった多くも、本当は諦めたつもりでいただけなのかもしれない。心の奥底では、黒々とした未練が澱のように降り積もって、覆い隠された本心が無様に泣き叫んでいる。

 こんなはずじゃなかったのに――千鶴は嘆いていた。

 もしやり直すことができるのなら、その時は、もっと自分に正直に生きていきたい。祖母が傍にいてくれた頃のように、素直で、生き生きとしていた自分に戻りたいと、千鶴は思った。

 あの頃、世界は煌きに満ちていた。それがいつしか輝きを失って、千鶴は特別な力までをも失ってしまったのだ。祖母譲りの、第六感を。

 お祖母ちゃん、ごめんなさい――千鶴は心の中で、祖母に向かって謝罪の言葉を口にした。

 千鶴は、祖母が大切に思っていたこの不思議な世界を、救うことができなかった。志半ばでそちらの世界に行く自分を、どうか許してほしいと思う。

 本当はまだ死にたくはない。だが、こればかりはもう、どうすることもできない。

 ほんの数秒、もしくは数分間、一瞬とも思える時間が過ぎた。千鶴はすぐに何も考えられなくなり、身体から少しずつ力が抜け落ちていくのを感じていた。耳の奥が酷く痛み、頭が窮屈さを覚えはじめる。圧力をかけられているように、眼球の奥も悲鳴を上げていた。

 目をきつく閉じていても分かる。ああ、意識が遠退いていく。私はこのまま死ぬのだ――千鶴はそう悟った。


「――しっかりするんだ」


 獣の冷静な声が千鶴の耳元で聞こえたその瞬間、がくん、と大きな衝撃が首に走った。途端に息が苦しくなり、せり上がってくるような吐き気を覚える。自らの置かれた状況を、千鶴は把握することができない。


「さあ、もう大丈夫だ」


 何が大丈夫だというのだと、千鶴は怒鳴りつけてやりたくなった。

 急降下していた身体が、突然上昇をはじめていた。今度は頭から血の気が引いていき、別の意味で意識が遠くなっていく。

 千鶴はまるで、仔猫のように首根っこを掴みあげられているようだった。服の襟が首に食い込んで、言葉を発することができない。呼吸も更に苦しくなっていた。

 ごうごうという風と濁流の音が辺り一帯に轟いていた。目を開いた時、その川が目と鼻の先に迫っていたが、足の先が激しい川の流れに連れ去られようかというその瞬間、身体が浮上していたのだ。

 景色があっという間に小さくなっていく。冷気に晒されているというのに、もはや肌には感覚がない。朦朧としているのが千鶴自身にも分かっていた。

 そのまま渓谷の上まで運ばれた千鶴は、地面にそっと下ろされた。だがしかし、貧血のような状態に陥っていた千鶴は、自分の両足で立つことができず、その場に崩れ落ちる。肺にどっと冷たい空気が流れ込んでくると、嘔吐感と一緒に咳が何度も繰り返された。喉が引き裂かれるように痛んだ。


「すまないが、もう少しだけ頑張ってくれ。ここにいては君の身が危険だ」

「そ、そんなこと、言われたって……」


 吐き出す息も、吸い込む空気も、冷え切ってしまっていた。身体中が凍えているのに、両手の平だけが、燃えるような熱を帯びている。息を吸っても吸っても足りず、吐き出すことを忘れてしまいそうになっていた。

 しかし、近くの壁に矢が弾かれる音を聞くと、急激な速さで現実に引き戻された。


「ちょ、ちょっと待って!」


 千鶴は、自分を庇うように風上に立っていたアンジエールを押し退けると、地面を這うように進んで渓谷の下を覗き込んだ。


「セシリア! セシリアはどこ?」


 遥か下に見えている川の濁流に、あの優しい栗色の毛並みは見当たらない。千鶴は酷い眩暈を覚えたが、その程度のことは些細な問題だった。馬は泳ぐことができる。だが、セシリアはこの濁流の中で動かない足を抱えているのだ。早く助けに行かなくては死んでしまうだろう。


「私の前に出るな、チヅル」

「だけど、セシリアが」


 千鶴は振り返ると、アンジエールのやわらかな毛並みに掴みかかった。


「そうだ、ねえ、私を助けてくれたみたいに、セシリアも助けてよ。まだそう遠くには行っていないはずだし――」


 しかし、アンジエールの答えは、千鶴が期待していたようなものではなかった。想像していたよりもずっと、冷ややかなものだった。


「それはできない」

「ど、どうして――」

「私には君を運ぶだけで精一杯だ。セシリアは重すぎる。彼女を連れて運ぶことは不可能だ」


 千鶴はアンジエールの豊かな尻尾に包み込まれた格好のまま、その顔を見上げた。獣の表情は読み取りにくいが、眉間には僅かに苦々しげな皴が寄っているように見えた。険しげに目を細め、千鶴を見下ろしている。


「だったらどうしたらいいの? セシリアの前足は凍ってしまって、動かすこともできないの。あんな足じゃ泳げない」

「セシリアは自らの意志で君の盾となり、あの銀の矢を受けた。何があっても承知の上だったはずだ」

「たとえそうだったとしても、私のために彼女を見殺しになんてできない!」

「我々にとって最も重要なのは君の無事であり、命だ。君を護るためならば、私はもちろん、誰の命が犠牲になっても構わない」

「でも」

「チヅル」


 アンジエールは静かに嗜めた。


「セシリアの思いを無下にするつもりか?」

「だったら、ほんの少しだけでも、様子を見てくるだけでも――」

「もしここで私が君の側を離れれば、君を護る盾はすべて失われる。進んで凍り漬けになりたいのであれば話は別だが、そうではないだろう?」


 こうしている今も、銀の矢は次から次へと飛んできている。それはまるで、機械仕掛けのように一定の間隔だ。けれど、それは何らかの力が働いているとしか思えないほど、ことごとく軌道を外していた。

 千鶴にはその矢が、苛立ちを孕んでいるように感じられていた。狙いを定めているというよりは、数を打てば当たるかもしれないとでも考えているようだ。何本も岩肌にぶつかっては、氷の結晶を散らしながら、割れるように弾けている。

 恐らく、矢が軌道を外れているのは、アンジエールのおかげなのだろう。この獣の側を離れれば、銀の矢は今度こそ正確に千鶴の心臓を捉えるはずだ。

 何も言えなくなった千鶴を見て、アンジエールは立つように言った。言われるがままに立ち上がった千鶴は、星屑を散らしたような輝きを持つ目を、じっと見つめる。


「あの矢に射られても死にはしない。あれは魔法の矢だ。対象者を殺さず、凍り漬けにする。呪いの一種だ」

「……呪い?」

「幸い程度の低い呪いで、私にならばその呪いを解くことができる」


 だったら、と言いかけた千鶴を、アンジエールは視線だけで黙らせた。


「まずは、君を安全な場所まで連れて行く。そこでノワールを待ち、彼が現れたら、私がセシリアを探しに行こう」

「本当に?」

「君に嘘は吐かないと約束する」

「だけど……」


 千鶴はアンジエールの向こう側に見えている吊り橋に目をやった。

 ノワールがあの吊り橋を渡った後ならばいい。だが、もし今もまだ向こう側にいるのだとしたら、あの盲いた目では、あの状態の吊り橋は渡れないのではないだろうか。吊り橋は今や崩壊寸前で、場所によっては文字通り足の踏み場もなさそうだ。

 それに、セシリアのことはどう話せばいいのだろうという思いが今、急激に千鶴の感情を支配しようとしていた。そもそも、ノワールは無事でいてくれるのだろうか。考えれば考えるほど、いろいろな意味で恐ろしくなってくる。


「……分かった」


 千鶴がこくりと頷いた時、その頭上を銀の矢がかすめていった。当たらないとは分かっていても、千鶴は思わず身をすくめてしまう。

 すると、アンジエールは矢が飛んできた方向を煩わしそうに見やり、大きく息を吸い込んだ。そして次の瞬間、びりびりと空気を震わすような声で、恫喝するように吠える。

 嫌な予感を覚えた千鶴は咄嗟に耳を塞ごうとしたが、あと一歩遅かった。耳元でその声を聞いてしまい、激しい耳鳴りと頭痛が一気に押し寄せてくる。まるで、スピーカーの前でハウリングを聞かされているようだった。


「ああ、すまない」


 両手で耳を塞ぎ、顔を顰めている千鶴を見て、アンジエールはたいして悪びれもせずにそう言った。


「少々小バエがうるさかったものでな」

「……次にそれをやる時は、前もって教えて」

「そうするとしよう」


 アンジエールが小バエと称した人物は、遠目からでは分かりにくいが、どうやらその場に平伏しているようだ。恐らく、気を失っているのだろう。


「あそこに放っておいても大丈夫? 凍死しない?」

「やつらにも我々のような仲間意識があれば、同胞の危機に駆けつけるだけの甲斐性は見せるだろう。君が気に病むことはない」


 今は誰よりもセシリアが心配だった。しかし、いくら自分を狙っていたのだとしても、橋から落ちた者たちのことも、千鶴は気がかりだった。もし、もしも、命を落とすようなことがあったら、とても居た堪れない。

 千鶴はアンジエールの尻尾に護られながら、もう一度だけ渓谷を覗き込んだ。どこかの突き出した岩に、誰かが引っかかってはいないかと注意深く見渡してみたが、そこにあるのは無機質な灰色の岩肌と、荒れ狂う赤茶けた水、地吹雪、お化けのような氷柱だけだった。


「さあ、取り急ぎ場所を変える必要がある。この風は君の身体に障るだろう」

「う、うん」

「ノワールは君と別れる時に何か言っていなかったか?」

「吊り橋を渡ったら、川下に向かって進めって。しばらく行くと岩に割れ目があるから、そこを潜った場所にある洞窟で待つようにって」

「では、そこへ急ごう」


 そう口にしたアンジエールだったが、千鶴の姿を上から下まで見ていたかと思うと、子犬のように小首を傾げた。


「ずいぶん身軽そうだが?」

「あ、荷物!」


 千鶴はアンジエールに指摘されてようやく思い出し、両手で口許を覆った。


「ごめんなさい、荷物もセシリアが運んでくれていたから、全部川に……」


 あの鞄の中には、プティーが大急ぎで準備してくれた当面の食べ物や地図、その他にも必要なものが詰め込まれていた。それをなくしてしまっては、この先の道中をどのように攻略していけばいいのだろうと、途方に暮れてしまう。

 食料、地図、防寒具――手元には何も残っていない。

 それなのに、千鶴が考えているのは、食料危機についてのことではなかった。ようやく物事を冷静に思考できるようになり、今になってはじめて、それを疑問に思ったのだ。


「ア、アンジエール、あなた――」


 千鶴は座っているアンジエールの背に手を伸ばし、指先でそれに触れた。


「空を飛べたの?」

「飛べなければ君を助けにはいけないだろう?」

「でも、ついさっきまでは翼なんてなかったのに」

「目に見えるものがすべてではない」


 淡々と語っているのに、それはどこか悪戯っぽくも聞こえる。

 千鶴がその毛皮に覆われた、身体よりもずっと大きな翼を撫でていると、アンジエールは少しくすぐったそうに身をよじった。


「普段はどうしているの?」

「そんなことに興味があるのか?」

「私のいた世界ではあなたほど大きな犬はいないし、ましてや翼なんて生えていないもの」


 アンジエールは千鶴の疑問には答えず、それを実際に見せてくれた。すっと身体の力を抜くように息を吐きながらアンジエールが目を細めると、背中で折りたたまれていた純白の翼が、吸い込まれるようにして消えていく。その場所は以前見た通り、白い毛が天使の羽のような模様を作っていた。


「では、行こうか。まだどこかに賊が潜んでいるはずだ、見つかる前にここを離れたい」

「うん」


 ふさふさの尻尾が身体から離れていくと、千鶴は殺人的な寒さに身震いをした。


「や、やっぱりちょっと待って……」


 前に立って歩き出そうとしていたアンジエールが、肩を抱いている千鶴を見上げた。少しでも体温を上げようと二の腕を擦っていると、アンジエールは千鶴の言わんとしていることを悟ったようだ。


「ああ、そうか。その格好では寒いだろう」

「くっついて歩いてもいい?」

「もちろんだとも」


 承諾を得てすぐ、千鶴はアンジエールのやわらかな体毛に、しがみつくようにして身体を寄せた。火傷を負った手の平は真っ赤に膨れていたが、首周りの毛並みに指を絡ませていると、痛みが和らいでくるような気がする。

 途端にどろどろとした激しい睡魔に襲われかけたが、千鶴はその度に手の平の痛みを思い出し、アンジエールに縋りつきながら、約束の場所を目指して歩き出した。

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