-2-

 何をするべきかは、千鶴よりもセシリアの方がよく分かっていた。

 千鶴がその背中に跨ると当時に、セシリアは走り出す。風に押し戻されそうになる身を起こして前のめりになり、頭を低くしてセシリアの鬣にしがみついた。肩に引っ掛けていただけの毛布は強風に吹き飛ばされ、既に渓谷の彼方だ。それが自分の行く末のようにも思えていたが、実際のところ、そのようなことを考えている余裕さえない。

 どうしよう、どうしよう、と何度も舌の上で同じ言葉を転がしながら、千鶴は再び背後を振り返った。見るからに柄の悪い集団は、互いに何かを確認し合うような目配せをしたかと思うと、自らを鼓舞するように大きく奇声を上げながら迫ってくる。

 これだけの大きな揺れと重みに耐えられるほど、この吊り橋は頑丈ではないだろう。どこもかしこも古びていて、踏み板も所々腐り落ちている。

 このまま渓谷に落ちるのではないかという、差し迫った恐怖が千鶴の思考を支配しようとしていた。どうにかしなければならない。しかし、どうすればいいのかが分からない。

 吊り橋を無事に渡りきったところで、あの集団は千鶴をどこまででも追いかけて来ようとするはずだ。土地勘のない千鶴が闇雲に逃げ回ったところで、自らにとって不利な状況にしかなりえないことは、分かりきっている。

 千鶴は半ば泣きそうになりながら、正面に向き直った。手元にあるのは弓矢だけだ。これを持たされたということは、これで自分の身を護れということなのだろう。だが、何の訓練設けていない千鶴には無理な話だった。

 もし、千鶴にも何かできることがあるとすれば、あの集団が渡りきる前に吊り橋を落とす程度のことだが、そのようなことをしては人を殺してしまいかねない。それに、後から来るはずのアンジエールやノワールが、渓谷を渡れなくなっては困るのだ。


「どうしたら――うわっ!」


 どうしたらいいのだろうと深く頭を悩ませていたその時、がくり、と視界が落ちた。セシリアの嘶きが渓谷に響き、千鶴は馬の背から投げ出される。踏み板の上を滑り、あと少しのところで谷底へ真っ逆さまだ。

 凍え、感覚を失いつつある指先を板と板の繋ぎ目に引っ掛け、宙に浮いた左足を身体に引き寄せる。落馬の痛みが身体の芯を痺れさせていたが、ただならぬセシリアの嘶きに、千鶴は素早く顔を上げた。


「セシリア!」


 酷く痛々しいその声は、耳を塞いでしまいたくなるほどの悲痛さだった。

 当初、セシリアは後方からの矢を受けたに違いないと思ったが、その予想は正しくなかった。セシリアは腐った板を踏み抜いていたのだ。前足が抜け落ちた穴に刺さり、身動きが取れなくなっている。パニックを起こし、執拗に声を上げているのだ。激しくもがくせいで容易に近寄ることもできず、宥めてやることもできない。

 千鶴はぐらぐらと大きく揺れる吊り橋に這いつくばり、歯を食いしばった。吊り橋の終わりはもうすぐそこだというのに、今は果てしなく遠く感じられる。だが、早くどうにかしなければ、この脆い橋がいつ崩落してしまうか分からない。


「セシリア! お願い、セシリア! 落ち着いて――」


 千鶴は縋るように、声の限りに叫んだ。しかし、パニックを起こしているセシリアの耳に、その声は届いていない。狂ったように大きな身体をよじり、板を踏み抜いて宙に浮いている足を持ち上げようと、躍起になっていた。吊り橋はますます激しく揺れ、千鶴は振り落とされないようにするだけで精一杯だった。

 それでも、この揺れに難儀しているのは千鶴だけではない。こればかりは幸いと言うべきなのだろう。ぎしぎし、ぐらぐらとしている橋を追ってきた者たちもまた、この揺れに翻弄されている。そのおかげで、特に揺れ幅が大きな中央辺りから前へは、進めずにいるようだった。

 千鶴は這い蹲った格好のまま、腕の力を使ってセシリアににじり寄っていった。そして、鬣の間に指を通してきつく握り締めると、顔を上げて前方を見やった。あと十五メートルほど進めば、向こう岸に辿り着く。揺れが収まるより早くセシリアの背に乗って駆けていけば、どうにか賊を撒くことができるかもしれない。

 ノワールと約束をした場所までどれほどの距離があるかは分からないが、セシリアが落ち着けば、そこまで連れて行ってくれるはずだ。

 呼吸を整え、意を決した千鶴は、今度は両手でセシリアの鬣に掴みかかり、その大きな身体を持てる力の限りで、上に引っ張り上げようとした。だが、現実的に考えて、その非力さでは一頭の馬を引き上げることなど不可能だ。

 それでも、千鶴にはそうするより他になかった。引き上げられると、そう信じるしかなかったのだ。


「大丈夫だよ、セシリア。私が一緒だからね」


 セシリアにしてみれば、この世界について何も知らない千鶴にそのようなことを言われたところで、安心などできはしないだろう。だがしかし、その言葉の後で不思議なことが起こった。

 パニックで半ば血走っていたセシリアの眼差しが穏やかになったかと思うと、激しく宙を掻いていた足がぴたりと動きを止めたのだ。黒々とした目でまっすぐに千鶴を見つめ、何かを訴えかけている。


「今助けてあげるから」


 助けてほしいと言われている、そう感じた千鶴は、両手を鬣から手綱に持ちかえた。揺れが収まらない橋の上でも何とか立ち上がると、両足で踏ん張り、正面からセシリアを見据えた。


「大丈夫、大丈夫」


 そう呟くのは、セシリアのためだけでなく、千鶴自身の心を落ち着かせるためでもあった。

 このような時にこそ落ち着いて、冷静でいなければならない。そうしなければ、この動揺がセシリアにも少なからず伝染して、今度こそ取り返しのつかないことになるような気がした。ことは一刻の猶予もないのだ。


「いくよ、セシリア」


 相変わらず横殴りの風が吹き荒れていた。ほんの少しでも足を踏み外せば、遥か下に見えている川の濁流にのみ込まれてしまう。まず命はないだろう。

 そのような考えが一瞬だけ千鶴の脳裏をよぎるが、大きく頭を振ると、再び気持ちを奮い立たせた。この危機を脱することができれば、あとでいくらでも考える時間は作れる。今はただ、集中するだけだ。


「――せーの!」


 その掛け声に合わせて、千鶴は手綱を力一杯引っ張った。セシリアもそれに合わせて、残された前足にぐっと力を込めたのが分かる。曲げられていた前足が伸びると同時に、宙に投げ出されていた足が、踏み板の隙間から持ち上がった。


「やった――!」


 だが、そう喜びの声を上げたのも束の間、事態はまだ好機に転じない。後方から矢が射られはじめたのだ。その矢は風をも切り裂いて一直線に飛び、千鶴の顔の真横をすり抜けていく。

 一泊遅れて、ぞわり、という悪寒が背筋を駆け上り、身体中に鳥肌が立った。体温が一度も二度も下がったような心地がし、膝の力が抜けそうになる。ただ、矢の速さをすぐ側で感じた右の頬だけが、妙に熱を帯びていた。

 ここに留まっていてはいけない。そうと分かっているのに、千鶴の身体は一つも言うことを聞いてくれようとしなかった。恐怖に身体が震えるばかりで、その視線は賊が矢を射る姿に釘付けになっている。

 その人物は吊り橋には足を掛けず、荒れ狂う風を諸共せずに、対岸に立っていた。その姿はいっそ勇ましく、ともすれば見惚れてしまいそうな出で立ちだ。吊り橋の中央で揺れに翻弄され、狼狽している者たちとは、まとっている雰囲気が違う。

 あの人は危険だと、千鶴はなぜか、直感的にそう感じ取っていた。

 しかしながら、早く逃げなければという焦りばかりが空回りをしているせいで、思考に行動が追いついて来ない。


「――チヅル!」


 身体の強張りを解いたのは、千鶴の名を呼ぶその声だった。はっとした千鶴は、声の主を探すように視線を右へ、左へと彷徨わせる。


「走れ! 早く橋を渡りきるんだ!」


 その声はアンジエールのものだった。たった今、森を駆け抜けてきた大きな獣の姿が、視界に飛び込んでくる。千鶴は咄嗟にその獣の名を叫ぼうとした。しかし、直前の恐怖に身がすくみ、声を出すことができない。それでも、千鶴は心の中で、助けてくれと叫んでいる。

 弓を構えている人物は、アンジエールの存在に気づくと、ほんの少しだけ声が聞こえた方向を振り返ったが、それだけだった。立ち上がれば自分の身の丈よりも巨大な獣の姿を見ても、まったく動じていない。それどころか、再び弓を射る体勢をとり、ゆっくりと狙いを定めている。

 その狙いには、寸分の狂いもないように思われた。しかし、何の躊躇もなく、流れるような動きで矢を放とうかというその瞬間、その人物は牙を剥き出しにしたアンジエールに、背後から襲い掛かられる。だが、それよりも早く矢は射られていた。

 弓から放たれた矢は、一直線に千鶴を目指していた。その矢はまるで流星のような輝きが尾を引き、まごついている仲間の間を抜けて、千鶴の胸に飛び込んで来ようとしていた。それが自らの胸を目がけて飛び、貫くだろうという軌道が、千鶴の目には見えていた。

 どうにかして軌道を逸らさなければと思ったところで、千鶴には逃げ場がない。足の速さにそれなりの自信はあるが、矢より速く走れるはずもなかった。前へ進もうが、後ろに引き返そうが、矢は千鶴を貫こうとするだろう。

 まるで意思を持っているかのような矢は、セシリアの後ろ足に突き刺さろうかというその刹那、ふわりと矢先を持ち上げた。そして、それは、千鶴を捕らえた――かに思えた。

 千鶴は襲い来るだろう衝撃を想像しながら、強く目を閉じて、その瞬間を待った。しかし、痛みはいつまで経っても襲っては来なかった。代わりに聞こえた馬の嘶きが、その理由を教えてくれる。

 矢は確かにセシリアを避けたはずだった。それなのに、馬の前足の付け根近くに、矢が突き刺さっていた。その矢が刺さった場所からは血は噴出しておらず、代わりに、きらきらと輝く冷気のようなものが待っている。よく見れば、矢の突き刺さっている場所から少しずつ、セスリアの身体を凍りつかせているようだ。

 流星のように輝いて見えていたのは、どうやら氷の欠片だったようだ。この寒さの中で尚も凍てついている。


「セシリア!」


 千鶴はセシリアを苦しめている矢を足から引き抜こうと、それに手をかけたが、銀の矢を握り締めたところで手の平に強烈な熱を感じて、弾かれたように手を放した。だが、自らを省みている猶予などない。千鶴は痛みに悶え、痛々しく嘶き続けているセシリアを慰めにかかった。けれど、今度ばかりは千鶴の声が、セシリアには届かないようだ。

 両前足を高く掲げたかと思うと、頭を大きく左右に振り、子供が地団駄を踏むように四本の足で脆い足場を強く踏みつけている。そうこうしているうちに、鏃の突き刺さったところから更に広く、凍てつく範囲が広がっているように見えた。


「チヅル!」


 橋の向こうでは、僅かに焦ったような声が千鶴を呼んでいた。


「セシリアから離れるんだ! 早く橋を渡れ!」

「そんなこと――」


 千鶴にはできるはずがなかった。セシリアは主人を置き去りにしてまで、千鶴をここまで連れて来てくれたのだ。セシリアは千鶴を見捨てなかった。だからこそ、千鶴も絶対に見捨てることなどできない。

 そうでなくても、もしここで見捨ててしまったら、どのような顔でノワールに申し開きをしたらいいのだろう。千鶴には見捨てる勇気も、申し開きをする覚悟もなかった。

 セシリアの左前足は、既に動かなくなるほど凍りついている。この矢を引き抜かなければ、この凍てつく侵食はあっという間に、セシリアの身体全体を凍りつかせてしまうことだろう。

 千鶴の心に迷いはなかった。両手で突き立てられた矢に掴みかかると、それを引き抜こうと力を込める。すると、途端に恐ろしいまでの痛みが両手を襲った。先ほどはこれを熱いと感じたが、実際は逆だったのだと気づく。冷たさのあまり、手が千切れるように痛んだ。

 それでも、千鶴は決して手を離さなかった。悲鳴のような叫び声を上げながら、自らの力を振り絞って、矢を引き抜きにかかる。セシリアは未だ暴れ続けていたが、千鶴はその身体に縋りつきながら、矢の深さが徐々に浅くなりはじめているのを確かに感じていた。


「もう、ちょっと――」


 凍りついた前足はクリスタルのように美しい輝きを放っていた。だからだろう、矢の先端、鏃が凍った皮膚に引っかかって、あともう少しというところで引き抜くことができない。

 次の瞬間、遠くの方から何者かの雄叫びが聞こえて、千鶴は一瞬そちらに気を取られてしまった。

 いつの間にか吊り橋の中程までやって来ていたアンジエールが、賊の面々を馬から引きずりおろし、橋の外へと放っている様子が目に飛び込んでくる。それを目の当たりにした千鶴の心臓は思わず縮み上がり、つい矢から手を放してしまった。

 押さえつけようとする者から解放されたセシリアは、自由に動かすことのできない身体に煩わしさを感じているのか、酷く苛立たしげに尻尾を振り回した。凍った前足を引きずりながら前進しようとするものの、上手くいかずにその場で転倒する。その状態でも苦しそうに暴れ続け、近づこうにも近づけない。

 これでは、また振り出しだ――千鶴がそう思った時だった。

 ぶちん、と、何かが大きく弾けるような音が、すぐ近くから聞こえてきた。

 何が起こったかなど、考えている暇もなかった。気づいたときには身体が反転し、体内の臓器という臓器が浮き上がるような、気持ちの悪い感覚に見舞われていた。次ぐ瞬間にはもう、圧し掛かるような重みと、詰まるような息苦しさを感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る