第三章 選択の末に
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長い時間、千鶴は馬の背に揺られていた。こんなことは、初めての経験だ。途中で何度意識を手放しそうになったか知れないが、その度に自らの頬を叩き、千鶴は闇を追い払っていた。スキー合宿で遭難しかけた時よりも、ずっと危機的状況だった。
この先、一人きりで一体どうしたらいいのだろう、という絶望が千鶴の身体をすっぽりと覆っている。その絶望感は身体を温めてくれるどころか、どんどん熱を奪っていくようだった。
「………」
何か独り言を漏らそうとしても、頬が強張って口も動かなかった。後ろにノワールがいてくれた時は、それだけで後方からの風が遮られていたのだろう。薄手の毛布だけでは、たいした防寒にもならない。
がちがちと歯を鳴らしながら毛布の端を胸元にかき寄せ、千鶴はそこに顔を埋めた。
寒くて堪らなかった。寒さは熱を呼び、熱は痛みを呼んだ。しかし、痛みはどんどん遠退いて、今はもう何も感じない。左手は手綱を握り締めた形のまま、凍ってしまって動かなかった。
千鶴はただ休みたかった。どこかあたたかい場所で、ゆっくりと、誰にも邪魔をされずに眠りたいと思っていた。
辺りに静寂が戻ってからは、セシリアは走ることをやめていた。度々鼻を上向かせては、何かを確認するような仕草を見せ、前に向かって歩き続けている。時々思い出したように後ろを振り返っては、大きくくりっとした目で、千鶴が生きていることを確認しているようだった。
アンジエールが去って、ノワールとも離れ離れになってしまった。もう頼れるのはこの馬だけだ。
連れ去られたルミエールや、小屋に残ったプティーは無事だろうか。アンジエールとノワールは囮としての役目を終え、無事に落ち延びてくれただろうか。
自分の置かれた状況を考えれば、他人の心配などしている場合ではないのだろうと、そう千鶴は思う。それでも、一人で馬の背に揺られながら寒さに凍えていると、言い知れぬ恐怖と罪悪感が、発作のように押し寄せてくるのだった。
朦朧とした意識の中で様々なことを考えていると、良からぬことまで思考してしまいそうになる。少しくらいは楽観的でいようと思っても、凍り付くような風が現実を運んできた。
このまま、死んでしまうのだろうか。まだやり残したことがたくさんあるのに。
母親の美優は何かと厳しかったが、早くに夫を亡くしたことで、まだ幼い千鶴を育てるために、身を粉にして働いてきた。そして、新しい家族が増えた。かわいい弟の成長も見届けたかった。まだ十六年しか生きていない。まだまだ人生は長いのだと、千鶴はそう勝手に思い込んでいたのだ。
まさか、このような危機に見舞われようとは、想像もし得なかっただろう。だが、これは夢なのだと思うことは、もうできなかった。これが夢であるはずがない。
あちらの世界では、千鶴が姿を消したことに気づいて、騒ぎが起こっているかもしれない。美優の苛立たしげな声が今にも聞こえてくるようで、千鶴は内心で苦笑いを浮かべる。
これまでに何度も、家出をしてやろうと企てたことがあった。だが、本当に家出をしたことは一度もない。家を出たところで行く当てもなく、その労力さえ、千鶴には無駄に思えていた。
祖母を失ってからの千鶴は、無気力な子供だった。あれをしなさい、これをしなさいと指図されることが増えると同時に、あれはだめ、これも駄目と制限されることも増えた。
千鶴は、母親のヒステリックな声を聴くのが嫌だった。だから可能なかぎり抵抗せず、いい子を装ってきた。そうすれば、時々でも褒めてもらえたからだ。千鶴は母親の美優が恐ろしかったが、同時に同じくらい好きだったからこそ、褒められれば嬉しかった。
「……は」
このような時に何を考えているのだろう、まるで、本当に死んでしまう前触れのようではないかと思いながら、千鶴は半笑いで息を吐いた。すると、白い息がふわりと丸く浮かび上がって、視界を霞ませる。それを払い除けるようにして頭を軽く左右に振ると、これまでとは違った景色が林の向こう側に見えたような気がして、千鶴は慌てて目を凝らした。
そこに見えていたのは、森の終わりだった。境界線が引かれているかのように、ある場所から向こう側には、木が生えていない。セシリアの足も自然と歩みを速めているようで、その場所には間もなくすると到着した。
森の中よりも明るく感じられるのは、視界を遮るものが何もないからだ。その代わり、強風を遮ってくれるものも何もない。森を抜けた目と鼻の先は、ノワールが言っていた通り渓谷になっていた。右から左へ向かって強い風が流れており、千鶴は堪らず手綱を繰って、一度森の中に身を隠した。
寒さで凍りついた自らの身体に鞭を打って、千鶴はセシリアの背中から滑り降りた。しかし、別人の身体のように思えるほど、千鶴の身体は言うことを聞かない。いつもなら難なく降り立てる程度の高さでも、上手く着地することができず、雪の上に尻もちをついた。
痛みはほとんど感じなかったが、立ち上がるのも一苦労だ。鐙に引っかかっていたスカートの裾を外し、毛布をしっかりと身体に巻き付けてから、千鶴はセシリアを置いてもう一度、森の外に出た。
風の強さは、春一番が吹くころの都会のビル風ほどだった。雪の表面が吹き飛ばされ、横殴りの吹雪のようになっている。地吹雪だ。息が苦しくなる度に風下に顔を向けながら、千鶴は周辺の様子を観察した。
正面に見えているのは、そびえ立つ岩山だった。ナイフのように先端を尖らせた山が、いくつも連なっている。それらは吹雪く風に合わせて右半分が白く、左半分が銀色に輝いていた。山は岩というよりも、何か硬い鉱物で出来ているように見えた。
岩山とこちら側を隔てている渓谷は、思っていた以上に深い。地面に膝をつき、這いずるようにして渓谷を覗き込むと、身の毛もよだつような恐怖に襲われた。比べるものがなく、どの程度の高さなのかは例えようもなかったが、気持ち的には東京タワーがすっぽりと収まるのではないかと、そう感じてしまうほどだった。
渓谷の下にはごうごうと唸るように川が流れ、それが両側の崖に衝突して反響音を轟かせている。下に落ちたら命はなさそうだ。かろうじて一命はとりとめたとしても、河口へ辿り着く前に、間違いなく死んでしまうだろう。ノワールが言っていた吊り橋は、少し離れた風上の方向に見えていた。
千鶴はそのまま這うようにして森に戻ると、セシリアの隣に急いだ。馬の体躯に身を寄せて、長い鬣の中に顔を埋めると、感じたあたたかさに思わず涙がこぼれそうになる。自分以外の体温を感じることで、千鶴は安心感を得ていた。
「橋の向こう側まで一緒に行こう」
強張った頬が少しだけあたためられると、思っていたよりもすんなり口を開くことができた。久しぶりに出した声は少し掠れていて、千鶴自身にも聞き取りにくい。それでも、セシリアには千鶴の言わんとしていることが伝わったのか、返事をするように優しげな目を瞬かせていた。
吊り橋の近くまでは、あまり風の影響を受けないように、森の中を通っていった。すっかり疲弊して体力を失っていた千鶴は、自分一人だけの力ではセシリアの背中に戻ることもできず、手綱を引きながら雪の中を歩いて進むしかなかった。そうでなくても、あの風の中を馬の背に跨ったままでいるのは、非常に危険だ。
しかし、千鶴は吊り橋の前までやってくると、そこで足を止め、思わず絶句してしまった。
向こう側とこちら側を渡しているその吊り橋は、酷く原始的で、簡易的な作りをしたものだったのだ。風に揺られてぎしぎしと音をたてながら、ぐらぐらと揺れている。とてもではないが、無事に渡りきれるとは思えない。
全長五十メートルはあるように見えるが、吊り橋の名の通り、支えなどは一切なかった。まるで宙に浮いているかのようなその橋は、恐ろしいまでに心許ない。ここを渡ると考えただけで、誰もが膝を震わせるはずだ。
「……これを渡れなんて、本気で言っているの?」
馬鹿じゃないの、と文句を言ったところで、それは自分に返ってくるだけだった。今から、その馬鹿みたいなことをしなければならないのは、千鶴自身なのだ。
百歩譲って千鶴だけならまだしも、セシリアも一緒というのは、大丈夫なのだろうか。だが、あの小屋を訪れていた者たちも、この吊り橋を渡って来ているはずだ。追っ手たちも、この吊り橋を渡らなければ、こちら側にはやって来られなかった。他にも道があるというのなら話は別だが、今の千鶴に選択肢はない。
「行かなきゃいけないの? 本当に?」
独り言に答えてくれる声はない。千鶴は自分が寒さで震えているのか、恐怖で震えているのかも、分からなくなりはじめていた。
行かなければならないことは分かっている。ここでまごついていたら、本当に凍え死んでしまうだろう。そうと分かっていても尚、足がすくんで動けないのだ。落ちたら死ぬ、という考えが、重石になっている。
千鶴がいつまでもそうして立ち往生していると、ほどなくしてセシリアがしびれを切らしたようだった。何を思ったのか、手綱を握り締めたまま動こうとしない千鶴を引きずるようにして、橋に向かって歩き出したのだ。
「ま、待って、セシリア! まだ心の準備が!」
セシリアの何か物言いたげな眼差しが、千鶴をちらりと一瞥した。それから不満そうに小さく嘶き、風に向かって鼻を鳴らすと、再び歩きはじめる。
「や、やだ! 嫌だったら、セシリア!」
千鶴をずるずると引きずりながら、セシリアは吊り橋に足を掛ける。途端に橋は縄を軋ませ、千鶴の肝を冷やした。かといって手綱から手を放すこともできず、引きずられるがままに橋を進む。だが、風上にセシリアが立ってくれているおかげで、風の抵抗はあまり感じずに済んでいた。
大きく揺れる吊り橋は酷く不安定だ。足許の川が視界に入り込むたびに、心臓の鼓動が速くなる。それほど橋は左右に揺られ、斜めになって、千鶴やセシリアを振るい落とそうとしていた。
千鶴は手綱を掴んだまま、セシリアの鬣にも力の限りでしがみつく。鐙が風に揺られて背中を打ち付けていたが、その痛みさえ今は感じていなかった。目を瞑り、早くこの恐怖が終わってくれと、そう祈ることしかできない。
そうして、ようやく橋の中程まで辿り着いた頃になって、千鶴が最も恐れていたことが起こった。橋の下に振り落とされるよりはいいかもしれないが、それも時間の問題かもしれない。そのことに気づいたのは、セシリアがしきりに後ろを気にしはじめたからだった。
「え、なに? どうしたの?」
さっさと歩いてくれと促すように千鶴が手綱を引っ張るが、セシリアは後ろばかりを気にしている。
何か嫌な予感を覚えた千鶴は、恐る恐る後ろを振り返った。そして、視界に入り込んできたものを見て、すぐさまぎょっとした。完全に振り切ったものとばかり思っていた追っ手が、今にも橋を渡ろうとしている。
いや、もしかしたら追っ手とは違うのかもしれないと、千鶴は考えた。先ほどの者たちは身なりも騎士のようで、中には鎧をまとっている者もいた。だがしかし、そこにいる者たちはまるでぼろのような布をまとい、遠目からでも様子が違っているのが分かる。
「もしかして」
あれがルミエールの言っていた賊というやつだろう。最近は賊も多く出没していますから、というルミエールの言葉が、耳の奥に蘇ってくる。
盗れるようなものなど、何一つ持っていない。それこそ、度胸のある馬と自分自身の命くらいのものだと思いながら、千鶴はセシリアの鬣を握り締めた。
「ど、どうしよう……」
だが、おろおろと考えている暇などなかった。千鶴はなけなしの力を振り絞ると、鐙に足を引っかけて、死に物狂いで馬の背に跨った。恐怖に震えている暇などはない。今はただ、どうにかしてこの窮地を脱しなければならなかった。
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