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ノワールが何の前触れもなく馬を駆った瞬間、千鶴は舌を噛みそうになった。身体は重力に押されて後ろに倒れそうになる。勢いに任せて後頭部がノワールの胸にぶつかるが、頭突きをされた当人は、構うことなく手綱を繰っていた。
「君たちはこのまままっすぐに森を抜けろ。追っ手が掛かっても後ろを振り返るな」
「心得ている」
馬は風を切るように駆けていた。今までに感じたこともない凍えた空気が、肌を突き刺してくるようだ。なけなしの熱は徐々に奪われていき、昨夜と同じように皮膚に分厚い膜が張ったかのような、麻痺に近い感覚が露出した肌を覆っていた。
併走していた大きな獣は、間もなくすると馬から離れていこうとする。しかし、千鶴が呼び止めると、離れかけた身体を戻した。
「気をつけて」
「君も」
わん、と小さく吠え、アンジエールは今度こそ千鶴たちから離れていった。それは物凄い速さで、立ち枯れた木々の間を縫って走り去る。風で舞い上がった新雪が、まるで煙のように視界を遮り、それが晴れる頃にはもう、アンジエールの姿は見えなくなっていた。
しかし、そのまましばらく走り進めると、アンジエールが去った方角から、大きな遠吠えが聞こえてくる。千鶴は、セシリアから振り落とされないようしがみついていた身体を起こした。
「今のって」
「思っていたよりも敵の数が多かったらしい」
「大丈夫なんですか?」
「そんなことを考えている暇があったら、まずは自分の身を案じることだ」
「あっ、ちょっ――!」
セシリアは更に速度をあげた。千鶴は再びその背中にしがみつき、絶対に振り落とされまいとする。けれど、露出した両手はかじかんで、上手く力が入らない。するり、するりと指の隙間から鬣が抜けていくので、その度に、指に絡めるようにして強く握り直すしかなかった。
下から突き上げられるような衝撃が、ずっしりと身体の芯に響く。硬く強張った身体には、それが酷だった。しかも、下を見れば思っている以上に視界が高く、速さも相まって目が回ってくる。
だがその時、更なる試練が千鶴たちに襲い掛かろうとしていた。
ひゅん、と空気を切り裂くような音が、千鶴の耳元をかすめた。何の音だろうと思いながら顔を上げようとすると、ノワールの大きな手の平が上から押さえつけてくる。
「そのまま身を低くしていろ。絶対に頭を上げるな」
淡々とした静かな声に、千鶴はそう命じられる。その声音から焦りは感じられないものの、微かに聞こえてきた舌打ちが、千鶴の心をざわつかせた。
人間というものは、あれをするな、これをするなと指図をされると、どういうわけかそれに逆らってみたくなる。言うことを聞いておいた方が安全だと分かっていても、恐怖心よりも好奇心が勝ってしまうのだ。
周囲で何が起こっているのか、それを知る権利は自分にもあるはずだと考えた千鶴は、セシリアにぴたりと身体を寄せて身を低くしたまま、恐る恐る顔を横に向けた。するとその瞬間、先ほどと同じ音の何かが、目と鼻の先をかすめていく。
ひゅっ、と息を呑んだ千鶴は、驚きのあまり身を低くしていろと言われたことも忘れ、その場に身体を起こしてしまった。途端に上半身が風の抵抗を受け、心なしかセシリアの走る速度が落ちたようにも感じられる。冷たい風が目に痛く、千鶴は強く目を瞑った。
「言った通りにしろ!」
激怒したような声が千鶴を怒鳴りつけ、再び頭が押さえ付けられた。今度は加減されることもなく、力任せに馬の背へと顔面を押し付けられた。
「何が起こっているのかくらい、教えてください!」
「少し追っ手が掛っただけだ。矢を食らって怪我をしたくなければ、じっとしていてくれ」
頼む、という声は、後方から聞こえてくる唸り声に掻き消された。明らかに人のものとは違う声に横目を向ければ、数匹の狼が血走った目を千鶴に向けて疾走していた。大きく開いた口からは長い舌が覗き、涎が外気に触れて凍り付いている。
その様子は、千鶴が知っている犬とはまるで違っていた。狼たちは歯茎を剥き出しにして鼻の頭に深い皴を寄せ、目をぎらぎらと赤く光らせている。それは、威嚇と呼べるほど生易しいものではなかった。
生命の危機を感じさせるほどの恐怖が、千鶴の心臓にずしんと杭を突き立てる。一瞬だけ鼓動が止まったかと思うような心地がしたあと、突然動悸が激しくなった。
だが、追っ手は狼ばかりではなかった。その更に後方には、馬を駆っている人間の姿が、目に入るだけでも三人は控えている。その中の一人が、馬の背に跨ったまま弓を引いていた。激しく揺れる馬の背に跨っているというのに、弓を構えている男はしっかりと狙いを定め、まっすぐに矢を放った。
風を切る微かな音でも捉えているのだろう、ノワールは的確に手綱を引いて、セシリアに指示を与えている。放たれた矢は千鶴たちを僅かに逸れ、近くの木の幹に突き立てられた。びしっ、という鈍い音が聞こえ、千鶴はぎょっとする。あれがもし人の身体に突き刺されば、ひとたまりもないだろう。そう考えると、背筋が一層冷たくなった。
千鶴はこれまでに抱いたことのない、命の危機を感じていた。顔からは血の気が引いていくというのに、背中を汗が伝い落ちていく。呼吸が乱れ、頭がくらくらとしていた。
セシリアが疲れてきているのか、そもそも重量が超過していたのか、追っ手は少しずつ距離を詰めてきている。尻尾の先まで迫ってきていた狼が、今にもそれに食らいつきそうだ。
「手綱を持て」
「え? なに?」
「手綱を持つんだ!」
その声は千鶴に理解させることを待たず、身体の反応を呼び起こさせた。
千鶴はただ言われるがまま、その手から手綱を受け取ってしまっていた。ノワールはそれを指先で確認すると、手綱から手を放す。その瞬間、どうしようもない不安感が両肩にずっしりと圧し掛かってくるのを、千鶴は確かに感じ取っていた。二人分の命を任されたように感じられ、手綱を持つ手が震える。
「落ち着いて、大きく深呼吸をするんだ」
千鶴の動揺を感知したのか、ノワールの落ち着き払った声が耳元で囁いた。その声は酷く場違いで、千鶴を奇妙な思いにさせる。それでも、そっと背中に触れてくる手の平を感じていると、不思議と手の震えは治まっていた。
「大丈夫だ。君は手綱を握っているだけでいい」
「わ、分かった」
「何があっても絶対に後ろを振り返るな。このままセシリアに任せて走り続けろ」
分かったか、と、そう強く問われ、千鶴は咄嗟に頷いてしまった。
実際には、心を落ち着かせようとするだけで精一杯だった。他の何かを考えている余裕など、今の千鶴には残されていなかったのだ。心臓の鼓動する音があまりに大きく、耳鳴りもしている。自分の息遣いをわずらわしく思うほど、周囲の音は遠退いていた。
それでも、じゅっ、というロープの切れる音だけは、かろうじて聞き取ることができた。刹那、腹部に感じていた締め付けが一瞬にして消え、少しだけ呼吸が楽になる。
「ちょっと待って、何をしているの?」
「この森を抜けた先に渓谷がある。そこに架かっているつり橋を渡ったら、川下に向かって進め。しばらく行くと、少し分かりにくいかもしれないが、岩肌に割れ目が見えるはずだ。そこを潜って奥に進めば、洞窟がある。そこでアンジエールか私を待て」
ノワールは千鶴の問いかけには答えず、そう早口でまくしたてた。
「一晩待っても現れなければ、地図を頼りに一番近くの村へ降りるんだ。そこにビビアンという女がいる。君を助けてくれるだろう」
「やだ、待ってよ、私一人でどうしろと言うの? 無理だってば!」
「いつでも護ってもらえるとは思うなと、そう言っておいたはずだ」
「だからって、こんな――!」
千鶴が非難する声は、ノワールには届かなかったことだろう。盲目の騎士は千鶴一人を残したまま、疾走し続けているセシリアの背から飛び降りた。反射的に振り返ってしまった千鶴が見たものは、複数匹の狼に飛び掛かられようかという瞬間の、ノワールの姿だった。
絶対に駄目だ。引き返して、助けにいかなければ――千鶴はそう強く思った。
しかし、どれだけ強く手綱を引いても、セシリアは千鶴の指示には従わなかった。木々の間を縫って、走り続けている。
「セシリア! 駄目よ、戻って! お願い!」
千鶴がどれだけ叫んでも、セシリアはちらりとも後ろを振り返らない。優しげな印象しか受けなかった栗毛の馬は、酷く頑固で、融通が利かないらしい。
もう一度後ろを振り返ろうとした千鶴は、しかし、寸前のところで踏み止まった。
自分が戻ったところで、できることなど何もないことは、千鶴にも分かっている。それならば、今はアンジエールとノワール、そしてセシリアを信じて、自分に出来ることをするしかないのだ。
自らの危険も顧みず、自分を先に進ませてくれようとしてくれている。後ろを振り返り、引き返すということは、その思いを踏みにじるということに他ならないのだ――千鶴は後ろ髪を引かれるような思いに駆られるが、それを断ち切るように、大きく頭を振った。
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