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 千鶴たちは未だに森の中を抜けられずにいた。あれから、既に二、三時間は過ぎているだろう。その身に危害が及ばないよう善処すると言ったのは本心だったようで、何者かの気配が近づいてくるのを察すると、ノワールとアンジエールはすぐさま方向転換を図っていた。森を抜けられないのは、恐らくそのためだ。

 どこを見渡しても似たような景色ばかりなので、千鶴にしてみれば、同じ場所をぐるぐると巡っているように思えていた。


「疲れてはいないか?」


 尾てい骨の辺りが痛みを覚えはじめ、何度も座り直していると、後ろを歩いていたアンジエールがそう声をかけてきた。その気遣うような問いかけに、大丈夫だと言って頷くのは、これでもう五度目になる。


「あとどのくらいで森を抜けられるんですか?」

「もう少しだ」


 この問答も、五度目だった。

 森を抜ける道中、とは言え道などないも同然だったが、やはり気を使っているらしいアンジエールが、暇潰しも兼ねてこちらの世界の話を千鶴に聞かせてくれていた。

 こちらの世界には、魔法が存在するということ。

 千鶴が想像する魔法というものは、ひげを生やした魔法使いが、大振りの杖を用いて炎や水を派手に操ってみせる技のようなものだった。しかし、そう言って聞かせると、アンジエールは不思議そうに首を傾げ、ノワールに至っては馬鹿馬鹿しそうに嘲笑していた。

 こちらの世界の魔法とは、千鶴が住む世界のまじないと似ているようだった。雨乞いから治療まで、すべて魔法で賄われているらしい。王国の女王となる魔女の言葉には魔力が宿り、例えば、この国の天気を自由に操ることも可能なのだという。女王が明日は雨だと言えば雨が降り、晴れると言えば、翌朝には雲が晴れている。

 天候を好き勝手にころころ変えるなどどうかしていると言えば、アンジエールは、これは極端な例えだと言った。

 多くのことが古の魔法で成り立っているこの国では、魔女に不可能なことはないらしい。もちろん、魔法にも限界はあるそうだ。人の生死に関することをはじめ、この世の理に反することは、基本的には犯すことができない。時間操作がそれに当たるようだ。


「でも、今は時間が止まってしまっているんでしょう? それは時間の操作にはならないんですか?」


 千鶴がそう問うと、それに答えたのはノワールだった。


「時間は止まっているわけではない、凍り付いているだけだ」

「……どう違うんです?」

「大昔、この世界は一つの大国だった。東西南北と中央の都市に時間を定め、女王が王国を支配していた」

「その頃は時間の操作が認められていたのだ」


 そんな説明の仕方では分からないだろうとでも言うふうに、大きく息を吐いたアンジエールが、時間の説明を引き継いだ。


「王国の住人のほとんどは、限りある生を生きる者たちだ。彼らは常に時間に追われて生きなければならない。故に王女は、良き行いをした者には余分に時間を与え、悪しき行いをした者からは時間を奪った」

「だが、王女とはいえ、その広大な王国すべてに目を行き届かせることは困難だ。だから、四人の時間たちにそれぞれの土地を管理させることにした。そして、自分の傍にもう一人の時間を置き、王国を監視していた」

「ちょっと待って」


 千鶴は理解が追いつかず、二人の話の腰を折る。


「まるで時間に意思があるような言い方ですけれど、時間は時間でしょう? それとも、こちらの世界には時間さんという人が何人もいるんですか?」

「まあ、そう考えていい」


 否定されるかと思いきや、アンジエールは事も無げに肯定した。千鶴はますます訳が分からなくなるが、自らの考えが凝り固まっているだけかもしれないと思い、こめかみの辺りをぐりぐりと揉みほぐす。だが、その程度のことで柔軟な思考が手に入るはずもない。


「かつてこの王国には五人の時間がいた。女王は時間に意思を与え、個性を持たせた。すると、今度はそれぞれに人格が宿り、中には女王の意に反した行いをする者が現れはじめたのだ。時間は与えられた区分の法も担っていたが故に、まるで自らが王や女王であるかのように振る舞いはじめ、女王の意向を無視するようになった。もちろん、すべての時間がそうであったわけではないが」


 東西南北でそれぞれに領地を預けられた時間たちは、当初は王女に従順だった。しかし、いつしか反旗を翻す者が現れ、時間は個々に行動を起こすようになる。貪欲な時間は他の時間たちを次々に襲い、争いをはじめた。領地を奪い、自らの法が及ぶ範囲を広げていった。

 女王はそれを許さなかった。時間からすべての権利を奪い、永遠の命を取り上げた。

 最後の召集をすると、その命令に応じた時間は、ただ一人だけだった。他の時間たちは、既に消滅させられた後だったのだ。女王はその時間に限りある生を与え、時間に追われて生きるよう言い渡した。時間はどんどん年老いて、最期には人知れず息を引き取ったと言われている。

 中央の都市にただ一人だけ残された時間は、時間という概念として扱われることになった。時間を配分する能力も、支配する力も失った。時間を操ることは禁じられ、ただ時を刻むだけの存在となったのだ。

 そして、その最後の一人となった時間が今、女王を失い凍り付いているらしい。

 世界中の時計は時間が凍り付いた瞬間から、時を刻むことをやめてしまった。王国の時間が凍り付けば、時の流れは滞る。限りある生を生きていたはずの者たちは、この寒さの厳しい冬に閉ざされた世界で、年を取ることもできずに何十年も耐え忍んでいるそうだ。

 老人は老人のまま。大人は大人のまま。子供は子供のまま。そして、赤ん坊も赤ん坊のまま。

 偽王は春を蘇らせたいのだという。やはり、そう考えてしまうのは至極当然のことだと、千鶴は思った。まさに救世主だ。いつまで経っても現れない女王を待つより、国民は自分たちのために行動を起こそうとしている偽王を支持することだろう。

 雪が溶け、あたたかな風が春を運んでくる。葉の枯れ落ちた木々には花が咲いて、地上には青々とした緑が芽吹くだろう。どんよりとした雲が晴れれば、突き抜けるような青空を毎日でも仰ぐことができる。

 それは、この王国の者たち全員が、待ち望んでいるものだ。


「チトセが残した封印の石をすべて砕き、新たな統治者が認められれば、凍った時間も元通りにはなるだろう。だが、時間は女王の魔法によって作り出されたものだ。魔法の力を持たない王が統治者となれば、最後の時間も失われる」

「失われたら、どうなるの?」

「……いずれにせよ、魔女の魔法が失われれば同じことだ。ここは限りある生を生きる者たちの国になる。それだけのことだ」


 いつまでも続く、魔女による統治。だが、いつ訪れるかも分からない春を待ち続けることに、人々は飽き飽きしているのではないだろうか。実りのない季節が永遠に続くくらいならば、この王国から魔法の力が失われようとも、春を迎えたいと思うのが人の心根というものだ。

 自分には何ができるだろうと、千鶴は思う。

 勢いで祖母の残した石を探しに行くとは言ったものの、それを破壊し、自らが統治者の資格を得たところで、何ができるというのだろうか。

 千鶴はただの高校生だった。何の力も持たない、ただの高校生だ。祖母譲りの第六感は失われて久しく、あの頃のように毎日がきらきらと輝いているわけでもない。

 この魔女の王国が失われることだけは、どうしても避けなければならないと、千鶴は思っていた。おとぎ話だと思っていた物語の登場人物たちが目の前に現れ、その者たちが自らのせいで危険な目に遭っているのなら、それを助けたいと思うのは間違いではないと信じている。

 だがしかし、気持ちばかりが先走っても、解決への糸口は見えてこない。今の千鶴には、何をするのが正解なのかすら分からないのだ。

 こっそり後ろを振り返ると、雅によく似た顔の男がいる。これは、ただの偶然なのだろうか。

 その顔をじっと見つめながら考えていると、不意にノワールの表情が険しくなった。盗み見ていたことが露見したのかと思い千鶴は焦るが、原因は別にあったようだ。


「アンジエール」

「ああ」


 ノワールが手綱を引いて馬の歩みを止めさせると、後ろを歩いていたアンジエールがその隣に並んだ。下を見ると、アンジエールは鼻の頭に皴を寄せて、遠くの方を睨めつけている。千鶴も同じ方向に目をやったが、威嚇するような何かを見つけることはできなかった。


「やはり、何事もなくこの森を抜けることは不可能だったようだな」

「ど、どういうことですか……?」

「偽王の包囲網に引っかかったということだ」


 ノワールはそう言いながら千鶴の身体を引き寄せたかと思うと、どこからか取り出したロープで、千鶴と自らの身体を結びつけはじめた。


「え、あの、ちょっと」

「落馬されても困るからな」

「だからって、こんなにくっつかなくても」


 千鶴がそう言って抵抗するほどノワールがきつく引き寄せるので、ロープがぐいぐいと腹に食い込んでくる。耐えかねて苦しいと訴えるが、ノワールは大人しくしろと文句を言いながら、ちょっとやそっとでは解けないような硬い結び目を作っていた。


「アンジエールが囮になって時間を稼ぐ。私たちはその隙に、このまま森を突っ切るぞ」


 何でもないことのように言い放たれるが、千鶴は聞き逃さなかった。隣で足の腱を伸ばし、走る準備をはじめているアンジエールを見下ろすと、慌てて後ろを振り返った。


「待ってください。囮って、そんなふうに勝手に決めていいものでは――」

「アンジエールがだめなら、私が行くまでだ。セシリアになら、君を任せられるからな」

「そういう意味ではなくて」

「同じことだろう」


 この期に及んで耳の後ろを痒そうに掻いているアンジエールには、まるで危機感というものがない。その様子を見ていると、心配することなど何一つないようにも思えてくるが、千鶴は頭を振り、納得しかけていた思考を一気に振り払った。


「案ずるな、チヅル」


 アンジエールのくつくつという笑い声は、なぜか千鶴を安心させた。


「なに、すぐに追いつく。君もこれと二人きりでは何かと不安だろうからな。なるべく早く戻るようにしよう」


 確かにその通りだ。この人といつまでも二人きりでいるなど、絶対に耐えられないだろうと思いながら、千鶴はアンジエールを見つめた。


「約束ですよ」

「ああ、約束だ」


 千鶴はアンジエールに向かって手を伸ばす。すると、アンジエールは濡れた鼻先を差し出した手の甲に押し付け、恭しく口付けるような仕草を見せた。

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