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 アンジエールが最後まで言い終える暇も与えず、玄関の扉が蹴破られるようにして押し開かれた。千鶴は椅子から弾かれたように立ち上がり、何事だと後ろを振り返る。すると、小屋の中に駆け込んできたノワールが、すぐ脇に立てかけられていた剣と弓矢を手に取り、麻袋を小脇に抱えているところだった。素早く剣を腰に佩くと、ベルトをきつく締め、弓矢を背負う。


「ど、どうしたんですか?」


 そう問いかけるものの、答える声はない。千鶴が不安に思いながらアンジエールに目を向けると、傍らの獣はゆっくりと立ち上がった。ふわりと体毛が波立ち、髭がそよぐ。


「戻ってきたか」

「ああ、思っていたよりも早かった」


 ノワールはやはり見えているとしか思えない動きで千鶴の前までやってくると、力強く手首を掴んだ。


「後になって後悔しても、私は知らない」

「え?」

「偽王の配下が森に入ってお前を探している。洞窟も既に封鎖されているはずだ。もうあちらには戻れない」

「戻れないって、どういうこと?」


 手をぐいぐいと引かれながら問うが、ノワールはやはり応じようとしなかった。


「プティー」

「聞こえてるよ」


 そう言いながら台所から出てきた少年は、その腕に大きく膨れた鞄を抱えていた。


「大急ぎで詰め込んだから、持っていって」

「ここに残るのか?」

「うん。ぼくが行っても足手まといになるだけでしょ? ぼくは戦うようには作られていないからね。でも、アンジエールは一緒に連れて行くといい」

「まさか、こんな小さい子を一人で取り残していくの?」


 信じられないものを見るように、千鶴はアンジエールを睨み付けた。ふう、と息を吐いたアンジエールはどこか呆れた様子で、物言いたげな目をプティーに向けた。


「ぼくのことなら心配しないで、チヅル。ここに残っていた方がずっと安全なんだ」

「でも」

「それに、こう見えてもぼくが幼いのは外見だけさ。アンジエールが言ってたでしょ、この中ではぼくが一番の年長者だって。ぼくのことを長老って呼ぶやつもいるくらいなんだ」


 長老という異名が、そのあまりに可愛らしい外見からは、かけ離れすぎている。千鶴は一瞬きょとんとしてから、思わず少しだけ笑ってしまった。それを見たプティーが、安心したように肩の力を抜く。


「ね、ぼくは大丈夫。だから、二人と一緒にこの森を離れるんだよ、分かった?」


 この時、千鶴はなぜか悠のことを思い出していた。一人で頑張らなくてもいいんだよと、そう言ってくれた時のことを、密かに思い出していたのだ。だからだろうか、感情がすとんと落ち着いて、千鶴は考えるよりも先にこくりと頷いていた。


「アンジエール、ノワールも、チヅルのことを頼んだからね。あいつらには指一本触れさせちゃだめだよ」

「これが大人しくしていればな」


 ふん、と鼻で笑うように息を吐き、ノワールは強引に千鶴の手を引いた。その足はまっすぐに玄関へ向かい、アンジエールもその後ろを軽い足取りでついてくる。


「あの、ちょっと――」


 お願いだから待ってくれと言ったところで、ノワールは足を止めてくれない。振り返れば目の合ったプティーはにこりと笑い、行ってらっしゃい、と気軽な調子で手を振っていた。

 せめてコートのようなものくらいは貸してもらいたかったと、そう思った時にはもう遅かった。小屋の外は恐ろしく寒い。冬が過ぎて春を迎え、夏に至れば青々とした葉が芽吹くのだろうと想像することが容易い森の木々も、今は葉を落として雪化粧を施されている。木の枝からは氷柱が垂れ下がり、とても幻想的だ。このような時でなければ、いつまでも魅入っていたことだろう。

 空は厚い曇天だが、雪は降っていない。昨夜地上に降り積もった新雪はふわふわとやわらかく、歩くのにも抵抗が少なかった。

 ノワールは千鶴の手を引いたまま、どんどん先を急いでいる。そのまま小屋の外壁に沿って進んでいくと、裏側には小ぢんまりとした納屋があった。戸は半開きになっていて、足許には何者かが出入りした形跡が残されていた。小屋を出ていったノワールが、ここへ来ていたのだろう。

 ちゅりちゅり、と小鳥が囀るような口笛をノワールが吹くと、小さな嘶きが聞こえてきた。少し遅れて、納屋の戸がそっと押し開かれる。

 そこから現れたのは、穏やかそうな顔をした栗毛の馬だった。ノワールの姿を見つけると、大きな黒目を嬉しそうに細める。ゆっくりと歩み寄ってきたかと思うと、すぐ隣でぴたりと足を止めた。手綱を手に取りやすいように身を寄せているのだ。ノワールの目が見えていないことを、その馬も理解しているようだった。


「馬には乗れるのか?」

「え、いや、あの」


 不意に訊ねられて答えに詰まっていると、ノワールの物を映さない目が、苛立たしげに千鶴を睨んだ。


「乗れるのか、乗れないのか、はっきりしろ」

「小さい頃に、お祖母ちゃんと乗馬教室には通っていました。でも、あれからもう何年も経っているし、だから――」


 千鶴が言い訳じみたことを口にすると、ノワールはあからさまに面倒臭そうなため息を吐いた。鐙に足をかけ、あっという間に鞍に跨ると、千鶴に向かって手を差し出す。

 掴まれということなのだろうか。そう思いはするものの、千鶴が躊躇っていると、後ろからアンジエールに背中を押されて前のめりになる。腕がノワールの差し出した手に触れると、そのままがっしりと二の腕を掴まれ、馬上に引き上げられた。


「おい」

「こっ、今度は何ですかっ」


 外気は酷く冷たいというのに、背中に感じるぬくもりのことを考えると、千鶴はたちまちのうちに顔が熱くなるのを感じた。それを悟られまいと振る舞おうとするが、続けざまに言葉をかけられ、声が上擦ってしまったのだ。

 ノワールの前に座り、寒さと緊張で身を縮めていた千鶴は、頭上から降ってきたものを、胸の前で咄嗟に抱き留めていた。


「弓は?」

「つ、使えないに決まっているじゃないですか!」


 騎射は非常に高い技術を必要とするものだということは、千鶴にも分かる。祖母がゲーム感覚で流鏑馬を楽しんでいたことはあったが、まだ幼かった千鶴は、それを遠くから眺めているだけだった。そもそも、現代の日本に生きていて弓を射る機会など、普通は得られるものではない。弓道部に所属していれば別だが、それでも、騎乗したまま矢を構えることは困難だろう。


「だったら訓練するんだな。この先弓くらいは扱えるようになってもらわなければ困る」

「困ると言われても」

「いつでも護ってもらえるとは思わないことだ」


 護ってくれとお願いした覚えはないと、千鶴はそう言おうとして、やめた。

 右も左も分からないこの世界で、誰かの助けなくして、一体何ができるというのだろう。先ほどは一人ででも助けに行くと豪語していた千鶴だったが、現実的に考えて、それが不可能だということは理解している。

 たとえ目が見えなくても、この世界には精通しているのだ。それに、盲目だからといって、身のこなしは見えている者のそれと何も変わらない。むしろ、それ以上にさえ思える。

 千鶴は開きかけた口を噤むと、弓と矢を強く抱き締めた。

 濡れた鼻先を持ち上げて千鶴を見ていたアンジエールは、大きな立ち耳をアンテナのように動かしながら、周辺の音に耳を傾けているようだ。しかし、その目は酷く物言いたげに、ノワールを睨み付けた。


「ノワール、口を慎め」

「本物の女王を戴いた時には、そうしてやる」

「お前は自分が何のためにあるのかを忘れたわけではないだろう」


 アンジエールの声に僅かな怒りが浮かび、背後からはばつが悪そうな雰囲気が伝わってくる。千鶴は居心地が悪くなって、小さく咳払いをした。


「お前の能力は女王を護るために授かったものだ。誓約を違えば、お前の能力は失われる」

「……言われなくても分かっている」


 ノワールは低く呟くように言うと、千鶴の両脇から手を伸ばし、手綱を握り直した。途端に硬直した身体は窮屈さを覚え、思わず息が詰まる。背後の体温から逃れようと身を乗り出すが、それを不審に思ったらしいノワールが、肩を掴んで引き戻そうとした。

 びくり、とあからさまに肩が震えると、ノワールは千鶴に触れていた手を手綱に戻した。


「落ちないように掴まっていろ。可能なかぎり危害が及ばないように善処はするが、もしもの時は、セシリアが安全なところまで連れて行く」

「……セシリア?」


 肩越しに後ろを振り返り、初めて聞く名前に首を傾げると、ノワールは少しだけ優しい目をしていた。そして、この馬のことだと告げると、両足の踵でセシリアの脇腹を軽く蹴る。次の瞬間にはもう、優しそうに見えていた目が、暗く鋭い眼差しに戻ってしまっていた。

 まるで、砂塵のように形を持たない新雪は、馬と大きな犬の足音を消してくれている。後ろを振り返ると、やはりくるくると耳を動かしながら歩いているアンジエールが、自らの尻尾を大きく振りながら、雪に残った足跡を消していた。

 この森のどこかに、昨夜小屋に乗り込んできた者たちの仲間がうろついている。けれど、今は静かなもので、そのような気配は一切感じられない。


「寒いか?」


 ぶるりと震え、手の平に白い息を吹きかけていると、耳元で低く囁くような声が言った。

 頷くでもなく、首を振るでもなくそのままでいると、ノワールは肩から引っ掛けていた鞄に手を入れる。ごそごそと何かを探しているようだが、目当てのものが指先に触れないようだ。


「すまないが、自分で見てくれ。プティーがこの中に上着を入れてくれていればいいが」


 千鶴は馬の背に揺られながら身をよじると、自分とノワールの間に置かれていた鞄の中を覗き込んだ。プティーは意外と几帳面なようだ。ノワールがひっくり返したことで若干乱れてはいるが、鞄の中は分かりやすく整頓されている。

 お腹が減ったと言って台所に入っていったプティーは、恐らく朝食の支度をしていたのだろう。二人分のサンドイッチに真っ赤な林檎が一個、アンジエール用の干し肉などが入れられていた。

 くるくると巻いてある古びた紙は不思議な手触りで、独特な臭いがした。紐を解いてそれを開くと、この王国の地図が描かれている。いくつかの赤い丸が地図上に書き込まれていたので、これは何の印だろうとノワールに訊ねようとした。しかし、すぐに見えないのだということを思い出して、吐き出しかけた言葉を飲み込んだ。

 プティーは上着を入れ損ねてしまったようだったが、隅の方に毛布が丸めてあるのを見つけた千鶴は、それをマントのように羽織っていることにした。


「あまり気を張っていると、すぐに疲れが溜まるぞ」


 弓矢を抱え、毛布に包まって身を硬くしていることを感じ取ったのか、ノワールは静かに言った。声音は軽く、呆れているようだ。千鶴に振り返る勇気はなく、前を向いたまま声だけを聞いていた。


「寄り掛かっても構わない」


 ぴんと背筋を伸ばしている千鶴に向かって、ノワールは何でもないことのように言い放つ。

 まさか、昨日今日出会ったばかりの人に寄り掛かるなど、できるはずがない。しかも、相手は異性だ。生まれてこの方誰かと付き合ったこともなく、手を繋いだこともなければ、恋愛のいろはを一つも知らない。それどころか、恋らしい恋もしたことがない千鶴には、耐性がなかった。


「い、いえっ、結構です」


 よくよく考えてみれば、千鶴にとってこの状況は少し問題だった。よくも知らない、いや、祖母から話だけは聞いていたものの、その人物像とはあまりにかけ離れすぎていた人と、こうして密着した状態にある。

 母がこれを知ったら、何と言うだろうか――そう考えた途端、千鶴は瞬間的に現実に引き戻され、頭に上っていた血が一気に引いていくのを感じていた。

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