第二章 揺れる少女の思いは
07.女王の条件
夢と現実の狭間に立たされた一瞬の間、千鶴の全身はまばゆい光に包まれていた。足元にはいくつかの綺麗な石が転がっていて、それぞれが共鳴し合うように瞬き合っている。声や音楽が聞こえたような気がして耳を澄ませるが、次の瞬間にはもう、別の場所で身体を横たえていた。
こうも寝て覚めてを繰り返していると、頭がおかしくなってしまいそうだ。夢と現実の区別がつかなくなってしまうのも頷けると思いながら、千鶴はゆっくりと起き上がって、辺りを見回した。
カウチ型の長椅子で眠っていた身体には、上の部屋から引っ張ってきた毛布が掛けられていた。それを畳んで背凭れに置き、服の皴を手の平で伸ばす。この部屋には千鶴以外に誰の姿もなく、暖炉の炎も消えかけていた。
いつの間に眠ってしまったのか、まるで覚えはなかったが、千鶴は未だ雪に埋もれた小屋の中にいた。
「……寒い」
そう言ってぶるりと身体を震わせた千鶴は、壁際に積み上げられている薪の山を見つけると、そこへ歩み寄っていった。手頃な薪を二、三本手に取ると、それを暖炉にくべる。祖母がまだ生きていた頃は、こうして火の番をしていたものだった。
火掻き棒を手に持って、その場に胡坐をかいて座り、千鶴は徐々に大きくなっていく炎をぼんやりと見つめていた。炎は一瞬たりとも同じ形を留めてはおらず、見る者を怪しく誘うように、ゆらゆらと揺れ続けていた。
「あれ?」
不要な灰を掻き出していると、千鶴はその中にいくつかの丸いものを見つけた。何だろうと思いながら火掻き棒で転がしてみると、それがプラスチックのボタンだと分かる。熱されてぐにゃりと解けたそれらは、原形を留めていないものもあったが、元々は千鶴が着ていたパジャマの残骸だということがすぐに分かった。
「燃やしてくれたんだ、見つからないように」
こちらの世界では見慣れないだろう洋服を発見されてしまえば、千鶴がここに来ていると証明してしまうことになる。祖母のコートはもったいなかったが、仕方がない。千鶴は残っている証拠も消してしまおうと、溶けかけのボタンを火の中に押し込んだ。
「お腹減ったな。雅さんが作ってくれた朝ごはん、美味しそうだったし」
どうせなら全部食べてしまえばよかったと思うものの、それで腹が満たされることはなかっただろう。だが、これは気持ちの問題だ。右の手にはまだ、トーストにバターを塗っていた時の感覚が残されている。しかし、いくら腹が減っているとはいえ、他人の家の食料を無断であさるのは、不躾にもほどがあるだろう。
「……はあ」
千鶴がため息を吐いたその時、背後からざくざくという足音が近づいてきた。どうやら、小屋の外を誰かが歩いているようだ。雪を踏みしめるその足音に千鶴の緊張感は高まるが、玄関から入ってきた者の姿を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
玄関から入ってきたのは、ノワールだった。ノワールは麻袋を手に入ってきたかと思うと、足元に敷かれているマットの上で、ブーツについた雪を払い落としている。
「あ、あの」
千鶴がそう声をかけると、ノワールは少しも驚いた様子は見せず、顔をそちらに向けた。
「目が覚めたのか」
「は、はい。おはようございます」
そう言って思わずというふうに姿勢を正すが、それがノワールに見えることはない。
ノワールは挨拶をし返すでもなく、麻袋を扉の脇にある壁のフックに引っ掛けた。それからすぐ、近くにまでやって来たかと思うと、十分な間隔を取って千鶴の隣にどっかりと腰を下ろした。
「プティーとアンジエールなら、まだ上で寝ている。もう帰りたいというなら、俺が洞窟まで送っていくが、どうする?」
「あ、あの、私は」
隣から感じる圧倒的な威圧感に、千鶴は喉が詰まった。雅と同じ顔が自分を睨んでいるというのは、とても嫌な気分がする。
「えっと、その」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
とは言われなかったが、その表情は見るからにそう言いたげだった。昨夜は千鶴を護ったが、それも半ば仕方なしにという感じが滲み出ていたことを思い出す。この男もきっと、自分を家に帰したがっているに違いないと思いながら、静かに顔を伏せた。千鶴が面倒事を引き起こし、足手まといになると考えているに違いないのだ。
それでも、千鶴にはこうと決めたら後には退かない、祖母譲りの頑固さがあった。
「――私、まだあちらの世界には帰りません」
意を決してそう言うと、ノワールは僅かに顔色を変えた。無表情の中にも、ほんの
少しだけ困惑したような、怒りを覚えたような様子が加味され、千鶴はそれを意外に思う。
「お祖母ちゃんのことをまだ何も聞いていませんし、それに、ここが本当にお祖母ちゃんから聞いていた世界なら、私が聞いていた話とは、あまりに違い過ぎるから……」
祖母はこの世界のことを、常に春や初夏のような陽気で、とても過ごしやすいところだと話していた。それがどうだろう、こうして足を運んでみれば、真冬もいいところだ。争いがなく、誰もが心穏やかに暮らしているという表現は誇張していたかもしれないが、部外者の千鶴から見ても、仲間同士で仲違いしていることは明白だった。
「それに、ルミエールさんは私のせいで、あのブランという人に連れて行かれたのでしょう? それなのに、何も知らないふりをして帰ることなんてできません。私もここに残って、一緒にルミエールさんを助けに行きます」
「私たちが君を邪魔だと言ったらどうする」
「関係ありません」
千鶴はきっぱりと言い切った。
「本心から邪魔だと思っているのなら、どうぞ置いていってください。私は一人ででもルミエールさんを助けに行きます」
「無理だな。土地勘もないだろう」
「地図を使って――」
「ルミエールがどこへ連れて行かれたのか、分かっているのか?」
「ブランという人は王について話していましたから、行き先はきっとお城です。王様はお城に住んでいるものでしょう?」
「……何のためにルミエールが人質になったと思っている?」
怒りと呆れの入り混じった声でノワールが言った。
「君がのこのこと王の前に出ていけば、やつらの思うつぼだ。君をやつらの手に渡さないために、ルミエールは――」
「だったら、教えてください」
千鶴は見えないと分かっていても、ノワールの目をまっすぐに、睨むように見た。
「どうしてあの人たちが私を探しているのか。どうしてルミエールさんが身代わりにされてしまったのか。あなたの説明で私を納得させることができれば、その時は大人しく帰ります」
少し前までおどおどとしていた千鶴はついに影を潜め、自分でも驚いてしまうほどに強気な発言が、同じ口から飛び出してくる。ノワールは多少面食らった様子ではあったが、盲いた目を瞬かせ、何事かを思案しているようだった。
その目は本当に見えていないのだろうかと、千鶴は思った。ノワールは階段に背を向けていたが、千鶴よりも先に、二階から姿を現そうとしていたアンジエールに気づいていた。気配を察して振り返る姿を目の当たりにすると、頭の後ろに目があるのではないかと疑ってしまう。
「やはり、外見ばかりでなく、内面までチトセに似ているらしい」
「冗談はやめてくれ、アンジエール」
ノワールはまるで嘲笑するように鼻で笑った。
「チトセとこの娘とではまるで違う」
「そう言い切ることができるのはお前だけだろう」
アンジエールは音もなく、軽やかな足取りで階段を降りてきた。そして、千鶴とノワールの前に立ち、二人を交互に見比べる。
「おはようございます」
千鶴がそう挨拶をすれば、ノワールの時とは違って、小気味よい返事があった。
「この一晩で何があった?」
アンジエールが伏せると、ふわりと風が起こって、千鶴の前髪が舞い上がった。
「昨日とは別人のように顔付きが変わっている」
「そうですか?」
「ああ、昨日よりずっと良い顔をしている」
そう言ってアンジエールが目を細めると、まるで微笑んでいるような表情になる。
良い顔をしていると言われて悪い気はしなかったが、ノワールが傍にいる手前、浮かれたようなことは口走らなかった。なぜか、ノワールの前では弱みを見せてはいけないという気が、千鶴にはしていた。
「チトセが初めてこちらにやって来た時は、君ほど落ち着いてはいなかった。これは夢だと言い張って、空も飛べるに違いないと言い出した時は、面倒な娘がやって来たと思ったものだ」
「空を?」
「断崖絶壁から飛び降りようとした」
まさかと思いきょとんとしたが、アンジエールが冗談を言っているようには見えない。千鶴もこれを夢と信じて疑わなかった口だが、祖母ほど高揚した気持ちにはならなかった。だが、それはそれで祖母らしいとも思う。
「実は、私も妙な夢を見ているなと、そう思っていました。でも、途中でこれは違うと気づいたんです」
「ほう?」
「これが私の見ている夢なら、もっと意に適った夢だったと思うから」
千鶴は祖母が聞かせてくれた物語の虜だった。良い印象しか抱いていなかった物語を、悪夢として再現することなどありえない。そして、ノワールが雅に似ていることはこの際別としても、千鶴は祖母が話してくれた盲目の騎士のことが大好きだったのだ。
もしこれが本当に夢だったなら、ノワールはもっと優しく、友好的だったことだろう。祖母が話してくれた物語は消えないが、ノワールに対する好意的な感情は、少しずつ薄れていくのを感じていた。
「お願いですから、聞かせてください。ブランさんは、どうして私を探しているんですか?」
「正確には、君を探しているのはブランではない。あれが王と呼んでいる男が、君を探しているのだ」
「王様、ですか」
「本来、ここでは代々女王が国を統治している。以前はチトセがこの国の女王だった」
「……お祖母ちゃんが?」
「次の女王になるはずだった彼女の娘は、待てど暮らせど現れなかったわけだが。その空白の数十年で、この国は見ての通り、冷たく凍えた寒々しい国に様変わりしてしまった」
考えるまでもない。母親の美優は祖母におとぎ話を聞かされたところで、それを喜んだりはしなかっただろう。それどころか、酷く嫌がったかもしれない。祖母と同じく、不思議な能力が備わっていた千鶴を見るその目だけで、他に言葉はいらなかった。あの千鶴を恐れるような目が、真実を物語っている。
祖母は、自らの娘にダイアモンドの指輪を譲ったところで、互いに不幸な道を歩むことになるだけだと、確信していたのだ。
「お祖母ちゃんは良い女王様だったんですか? その、今の王様と比べて」
「チトセは優れた統治者だった」
そう言うアンジエールの目は、とても穏やかだった。
「この国は、それを統べる女王によって表情を変える。チトセが玉座にあった頃は、毎日が麗らかだった。ちょうど、そこに飾られている絵画のように」
アンジエールは過去を懐かしむような眼差しを壁に向けた。その場所には、千鶴がここへやって来た時に見た、動く絵画が掛けられている。
あれが祖母の王国だったのか――千鶴は直感的にそう思った。
「だが、ある日突然、チトセは我々の前から姿を消してしまった。あちら側から何日も戻らなかったことは度々あったが、その時ばかりは違っていた。月と太陽が何度巡ろうとも、あの洞窟にある穴が開くことはなかった。そして、我々は悟った。彼女はもう、戻らないのだということを」
「そう、だったんですか……」
「女王は旅立つ時、次の女王を指名しなければならない。しかし、チトセはそれをせずに逝ってしまったのだ。故に、今この王国を支配しようと企んでいる偽王は、真の統治者とはなり得ない」
「今のところはな」
アンジエールの話を黙って聞いていたかと思えば、ノワールは唐突に口を挟んでくる。その口振りはどこか苛立っているようで、その周りの空気だけがぴりぴりと張り詰めて感じられた。
「ルミエールが連れて行かれた今となっては、その均衡も崩れ去る。女王の秘密が暴かれるのも時間の問題だ」
「その、女王の秘密って?」
千鶴が問うと、ノワールは不快そうに眉根を寄せる。答えたくないのか口を噤んでしまったので、千鶴は再びアンジエールに目を向けた。
「どういうことですか?」
「女王は退位を申し出る時になると、自らの『想い』を封じた石を王国の各地に隠す。次の女王はそのすべてを見つけ出し、破壊するのが習わしだ」
「壊す? どうして?」
「王国の民から前女王の記憶を消し去るために決まっているだろう」
え、と呟き、千鶴は絶句してしまった。記憶を消す? 一体、何のために? そうした千鶴の心の声が聞こえたかのように、アンジエールがノワールの言葉を引き受けて先を続けた。
「民が前の女王の記憶を持っていれば、必ず二人を比べてしまう。それはどちらの方が優れ、どちらの方が劣っているなどという不毛な議論を生み、やがては諍いに発展するだろう。これは、一種の呪いだ。新たな女王がその呪いを解き、代わりの呪縛を民に施すことによって、これまでの均衡は保たれてきた」
「でも、その石の隠し場所はお祖母ちゃん以外知らないのでしょう?」
それなら探し出しようがないと思った千鶴に向かって、アンジエールは首を横に振る。
「チトセ以外にも、その在り処を知っている者はいる。そうでなくては、次の女王を戴いたときに差支えがあるだろう? 女王は在位中に信頼のおける者を自らで選び、すべてを託すのだ。それが導き手となり、新たな女王の教育者となる」
「だけど、お祖母ちゃんは後継者を指名しなかったんですよね? 次の女王はどうやって決めるんですか?」
「その指輪だ」
「え、これですか?」
千鶴は、自らの右手の薬指に嵌っている、ダイアモンドの指輪を見た。それをアンジエールにもよく見えるように差し出すと、大きな犬は髭をそよがせながら頷いた。
「すべての石を破壊したその時、その金剛石の指輪を手にしていた者が、この国の新たな女王となる。良き者でも、悪しき者でもな」
「だけど、この指輪――」
千鶴は左手を出して指輪を摘まみ、引っ張ろうとした。案の定、どんなに力を込めても、指輪はぴくりとも動かない。
「ほら、抜けないんです」
「それはそうだ。その指輪は自分の意思で抜くことはできない」
その言葉に首を傾げると、アンジエールはノワールを促すように軽く声をかけた。すると、大袈裟にため息を吐いてみせたノワールが、無言のまま手を差し伸べてくる。千鶴が何だろうと考えていると、ノワールは低い声で「手を貸せ」と言い、乱暴に右手を取った。
ノワールが有無も言わせず、齧るように指輪を摘まむと、少しも動かなかったはずのそれが、するりと抜き取られてしまった。
「あれ、おかしいな……」
「それは抜こうと思って抜けるようなものではない。これもある種の呪いだ」
「自分の手では絶対に抜けないということ?」
「絶対ではない。指を切り落とせばそこに意志はなくなり、自らでも抜き取ることは可能になる」
「そ、そうなんだ……」
「チトセはその指輪をずっと嵌めていたのか?」
「あ、はい。ずっと、亡くなる時まで」
「そうか」
そうだ、と千鶴は思う。祖母は最期の瞬間まで、この指輪を外さなかった。それはこちらの国を思う、愛や思い出を胸に抱き続けていたからだろう。
しかし、息を引き取ったその時、祖母の身体は切り落とされた指と同じように、意思を失ってしまった。それ故に、指輪は祖母の薬指から滑り落ちてしまったのだ。そして、あれからずっと、あの部屋の絨毯の中に埋もれていた。
「……お祖母ちゃんは、私が小さい頃からずっと、こちらの世界のお話を聞かせてくれていました。私はそのお話が大好きで、飽きずに何度もせがんだりして。そうすると、お祖母ちゃんはとても嬉しそうに笑って、何度でも、何度でも話してくれたんです。あのブランという人は、お祖母ちゃんがここを捨てたと、そう言っていたけれど」
千鶴は違うと思った。捨てたのではない。忘れたのでもない。捨てようとも、忘れようとも思っていなかったはずだ。ただ、去らざるを得ない理由があったのだろう。千鶴には分かる。
「あの、その導き手というのは、誰ですか? お祖母ちゃんが信頼していたっていう」
急に思い立った千鶴がそう問いかけると、ノワールは苦い顔をした。アンジエールも心なしかばつが悪そうだった。
「……ええと、まさかとは思いますけれど」
「多分、そのまさかだ」
指先でダイアモンドの指輪を弄びながら、ノワールが言った。
「彼女がすべてを託していたのは、ルミエールただひとりだけだった」
もしそれが本当なのだとすれば、千鶴はやはり、取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。連れ去られたルミエールがすべて話してしまえば、祖母が隠した石は一つ残らず砕かれてしまうことになる。
だがしかし、ルミエールがそう簡単に口を割ったりするだろうかという疑問はあった。
「一つ聞いてもいいですか?」
千鶴はノワールに声をかけた。すると、ノワールは僅かに眉を顰めただけで、駄目とは言わなかった。
「その王様を名乗っている人は、悪い人なんですか?」
ブランは言っていた。王はこの国に春を蘇らせようとしていると。この冬に閉ざされた王国から民を救おうとしているのなら、それほど悪い人のようには思えない。もちろん、ルミエールを連れ去ったことに関しては問題外だ。
「人を良い悪いで判断することはできない」
「あなた自身がどう思っているのかを聞きたいんです」
「……良き行いのために悪事に手を染める者は、少なからずいるはずだ。ただし、その行いが万人にとって善行とは限らない」
その物言いがあまりに遠回しすぎて、千鶴には理解するまでに少しだけ時間が必要だった。
要は、良いということだろうか、悪いということだろうか。眉を顰める千鶴に、アンジエールが少しだけ笑ったように感じられた。
「チトセが常々言っていたことがある。人の行いのすべてを善悪だけで判断してはならないと。すべての者たちは皆、己の善に従っているのだから」
千鶴は、誰かと敵対することがあれば、それで善悪が分かれると思っていた。正しいことが真実で、正義であると、無意識に信じていたのだ。だが確かに、善悪は人間の物差しで計るには、あまりに大きすぎる。
しかし、これほどまでに及び腰になっているのは、なぜなのだろう。まるで成り行きを見守っているだけのようだ。なるようにしかならないと、諦めているかのようにも思える。
「ただ、あの男はチトセがいた頃から、あれのやり方や考え方に疑問を呈していた。統治者は民に寄り添うのではなく、従わせて然るべきだと――高潔かつ高尚な存在であり続けるべきだと、そう罵ったこともある。そもそも、統治者が女である必要はない、とも言っていた」
祖母を少しでも知っている者なら、それが祖母にとっては至って普通の考え方であると、そう言い切ることができるだろう。だが、人によっては、それがもどかしく思えることもあるに違いない。それでも、祖母は微笑んでいたはずだ。それも一つの考え方だと言って。
「あの男はずっと不満に思っていたのだろう。そして、チトセが去り、戻らないと分かると、自らを王と名乗るようになった。だが、あの男はチトセが隠した石の在り処を知らない。だから、チトセがあちらの世界と行き来していた洞窟を、ずっと見張らせていたのだ。いずれチトセの娘――君は孫娘だったが、彼女の意思を継ぐ者が遣わされてくるはずだと、そう考えてな」
「あの人たちは、ルミエールさんがその導き手であることを知っているんですか?」
「確証は持っていないだろう」
「それなら、あの人たちよりも先に石を見つけることができれば、お祖母ちゃんの石は壊されないで済むということ?」
「考え方は間違っていない。だが」
アンジエールは大きな立ち耳を神経質そうに動かした。
「ルミエールがいない今となっては、石の在り処は一つも分からない」
「でも、探してみれば何か手掛かりが見つかるかもしれません」
そう簡単に言ってのける千鶴を、お気楽な娘と思っているかもしれない。だが千鶴は、かつて祖母が統べていたというこの王国を荒らされたくないと、そう思ってしまったのだ。祖母が愛した王国のまま、残っていてほしいと思う。
そして同時に、自らを王国の王だと名乗っている人にも、会ってみたいと思った。
もしかしたら、価値観の違いこそあれ、一国を任せても構わないと思えるほどの人格者かもしれない。こればかりは実際に対峙して見なければ分からないことだ。初めから決めつけてしまうのも、性分ではなかった。
「この国の地図はありますか?」
「おい、ちょっと待て」
俄然生き生きとしてきた千鶴に向かって、ノワールが横槍を刺した。その不愉快そうな面構えを見れば、言わんとしていることは分かる。余計なことはするなと言いたいのだろう。それでも、千鶴は毅然とした態度で、その顔を見据えた。
「まさか、本気で言っているわけではないだろうな」
「私は本気です」
「私たちの話を聞いていただろう。お前は自分の在るべき場所に帰ればいいんだ」
「説得できなくて残念でしたね。でも、私は誰が何と言おうと、お祖母ちゃんが残していった石を探し出します。アンジエールさん、地図がどこにあるか知りませんか?」
そう言って立ち上がる千鶴を、アンジエールは真剣な眼差しで注視していた。それは狙った獲物を睨み付けるような鋭い眼差しだったが、不思議と怖くはなかった。
「……地図なら寝室の壁に貼り付けられていたはずだ。ついて来い」
「アンジエール!」
ノワールの厳しい声が静かな部屋に響いた。
「話が違うぞ」
「分からないのか、ノワール?」
爪で床を引っ掻きながら、アンジエールはその場にゆっくりと立ち上がった。そして、千鶴を先導するように歩き出したかと思うと、少し進んだところで肩越しに振り返る。
「彼女はチトセの孫娘だ、一度こうと決めたら、絶対に考えを曲げないだろう。こちらにも無駄な時間を過ごしている暇はない。お前も腹を決めることだな」
ふ、と皮肉っぽく笑うような気配を感じさせながら、アンジエールは四本足で器用に階段を上っていった。だが、千鶴がその後に続こうと足を踏み出しかけた時、ちっ、と舌を打つ音が聞こえてくる。
思わず振り返ってしまうと、ノワールは額から差し入れた手の平で髪をくしゃりと掻き上げ、苦悶の表情を浮かべていた。千鶴は一瞬、心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃を覚えるが、すぐに視線を逸らす。
「チヅル、こちらだ」
「は、はいっ――」
千鶴の動揺は声に現れていた。僅かに上ずり、震えている。その変化に二人は気づいていたはずだが、それを指摘する声はなかった。
どく、どく、どく、と心臓がうるさく鼓動している。
千鶴には、ノワールの苦悶の表情が、今にも泣き出してしまうのではないかと思うほどの、悲しみに暮れているように見えていた。
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