06.夢と現実の狭間で
千鶴は自分のベッドの上で目を覚ました。時刻はいつも通り、目覚まし時計のなる五分前だ。
ぼやけている視界を何とかしようと瞬きを繰り返し、白い天井をぼんやりと見つめる。カーテン越しに伝わる太陽の熱が少しずつ室温を上昇させ、千鶴は随分寝汗をかいてしまっていた。
やはり、あれは夢だったのだ――それにしても、不思議な夢だったと千鶴は思う。
だが、夢の中で現実を疑うことなど、珍しいことでもないだろう。目が覚めてがっかりするという経験はままあるものだ。
千鶴は目覚まし時計が鳴る前にタイマーを切ると、寝汗を流すために着替えを持って、風呂場に向かった。今日は日曜だったが、昨日に引き続き陸上部の活動がある。その前にシャワーを浴び、朝食を作って、洗濯をする必要があった。
しかし、熱いシャワーを浴びている間も、千鶴はあの夢のことばかり考えていた。
千鶴が祖母のおとぎ話を夢に見るのは、初めてのことだった。もしかしたら見ていたのかもしれないが、当人の記憶には残っていない。大きな犬が人の言葉を解していた時点で、答えは目に見えていたはずだ。
「犬が喋るなんて」
千鶴はそう独白して、シャワーの蛇口を閉める。少しだけ笑いが込み上げてきた。
「そんなこと、あるわけがないのに」
それなのに、千鶴の心にはもやもやとした気持ちと、妙な切なさが渦巻いていた。
あれは夢の中の出来事で、ただの幻想に過ぎない。所詮は空想の産物だというのに、酷い罪悪感に苛まれている。自分のせいで連れて行かれてしまった人がいた。あの人は無事なのだろうか。無事に、帰って来られるのだろうか――そう考えると、言い知れぬ不安感に襲われるのだ。
今朝はいつにも増して憂鬱だった。部活にも行きたくない。
そのようなことを考えながら千鶴がリビングに降りていくと、そこには雅の姿があった。無地のエプロンを身に着け、キッチンでコンロに向かって立っていた。
「ああ、千鶴ちゃん。おはよう」
「おはようございます」
「今日は僕が朝食を作ろうと思ってね。もうすぐ出来上がるから、座って待ってて」
キッチンのカウンターテーブルには、既にテーブルメイクがされていた。皿の上には王冠の形に畳まれたナプキンが置かれ、銀製のナイフとフォークが隣に並べられている。ワイングラスには冷えた水が注がれていた。それが二人分、用意されている。
「徹夜明けですよね、大丈夫ですか?」
「平気だよ。途中で仮眠もしたし、今朝はどういうわけか目が冴えているんだ」
「それなら、母さんと悠も起こしてきましょうか」
「いや、いいよ」
雅はそう言うと、首を横に振った。
「せっかくの日曜日なんだから、もう少し寝かせてあげよう」
千鶴は、そう言って優しげに微笑んでいる雅の顔を、まじまじと見つめた。そして、昨夜の夢に出てきた、ノワールのことを思い出す。確かに顔は瓜二つだ。しかし、こうして見ると全然違う。雅はあのように冷たい表情を浮かべないだろう。反対に、ノワールは雅のように穏やかな笑みを浮かべることはないに違いない。
「……昨日、変な夢を見たんです」
「夢? どんな夢だったの?」
「雅さんにそっくりな男の人が出てきました。でも、その人はにこりともしないし、ずっと怖い顔をしているんです。似ているのは顔だけで、性格は正反対、みたいな」
「へえ」
「洞窟から出ていくと、そこは雪深い森の中でした。そこをずっと進んでいくと、山小屋があって、とても親切な男の人が住んでいたんです。あたたかいミルクとマフィンをご馳走になって……それから、他にも悠と同い年暗いの小さな男の子とか、言葉を話す犬とか……」
そこまで話したところで、千鶴は不意に口を噤んだ。再び罪悪感に見舞われて、胸がずきんと痛む。すると、突然黙り込んだ千鶴を見て、雅は僅かに首を傾げた。
「どうかした?」
「い、いえ、何でもありません」
千鶴は咄嗟に首を横に振り、小さく咳払いをする。
「本当に不思議な夢だったから、何だか、まだ夢から覚めていないような気がして」
「千鶴ちゃんは感受性が豊かだからね」
「だけど……」
「うん?」
淡い黄色のふわふわとしたスクランブルエッグ、分厚いベーコンのステーキは表面に適度な焦げ目があって、フライパンから下ろされてもじゅうじゅうと音をたてている。ポテトサラダ、焼いたトマト、ピクルス、レタスが並べられたプレートが目の前に置かれた。焼き立てのトーストとバター、ジャム、蜂蜜もある。
至れり尽くせりの朝食はとても美味しそうだったが、どうしても食欲が湧かなかった。
「……その夢の中で、理由はよく分からないんですけれど、私のためにある人が攫われてしまったんです」
たかが夢の中での話を、神妙な面持ちで語り出した千鶴を見ても、雅は口を挟まずに続く言葉を待っていた。
「でも、その人たちは私に責任を求めるどころか、責めることもしませんでした。ただ、家に帰れと言うんです。その人たちは私の大切な人の友達で、でも、その大切な人はもう亡くなっていて……私、あの人たちの助けになりたいと思ったんですけれど……」
「それで、夢の中の千鶴ちゃんはどうしたの?」
「……私にも手伝えることはないかって、聞きました」
「その答えは?」
「助けなら、必要ないって」
ただの夢に何をそこまで執着しているのだと、そう指摘を受けたとしたら、その通りだとしか言い様がない。だが、雅は千鶴の心配を邪険にしなかった。心のわだかまりを共有しようと、一緒になって考えている。
「うーん、僕には詳しいことは分からないけれど、その人たちはきっと、千鶴ちゃんに迷惑をかけまいとしていたのではないかな」
千鶴が夢に見たことを掻い摘んで話して聞かせると、雅は少しの間考えてからそう口にした。自分の食事も用意し終えると、千鶴の隣に腰を下ろし、いただきますと言って両手を合わせている。
「千鶴ちゃんを危険な目に遭わせたくなかったんだよ」
雅は千鶴を慰めようと、いつものように優しい笑みを浮かべている。だがしかし、千鶴の気持ちは納得していなかった。
それは違うはずだ。もっと、そう、何かを隠している気配のようなものがあったことを思い出す。何かを隠していて、それを悟られまいと振る舞っているようだった。
しかも、ルミエールは最初に顔を合わせた瞬間から、千鶴の正体に気づいていたに違いない。そうでなければ、辻褄が合わないのだ。ルミエールは当初から千鶴を家に帰そうとしていたのだから。
悶々とそのようなことばかり考えていると、千鶴は段々と腹が立ってくるのを感じていた。祖母について悩んでいたことも、昨夜見た夢についても、等しく腹が立ってくる。フォークを握り締め、下唇を噛みしめている千鶴を横目に見て、雅は少し笑ったようだった。
「何か言いたそうな顔をしているね」
そう言う雅は、どういうわけかとても面白そうだ。顔を顰めている千鶴を見ると、気にしないでほしいと言って、首を横に振った。
「そうして怒る千鶴ちゃんなんて久しぶりに見たよ」
「だって、何だか理不尽で……」
腹を立てていたら急に空腹を覚えた千鶴は、フォークでベーコンを突き刺した。それを口に頬張り、苛立ちを蹴散らすように咀嚼する。
千鶴は嘘が嫌いではなかった。相手のために吐く嘘は、ホワイトライと言われる善意の嘘だ。しかし、嘘は吐かないが、本当のことも言わないという考え方は、大嫌いだった。都合の悪いことには口を噤み、当たり障りのないことだけを語っても、互いの気持ちは通じ合わない。
もう一度ベッドに戻って眠りに就けば、あの夢の続きを見ることができるだろうか。当事者である自分が、何も知らずに終えてしまった夢を、正しに戻れるだろうか――千鶴はフォークの柄を強く握り締めた。
「ねえ、千鶴ちゃん」
「はい」
「もしかしたら、こうも考えられるのではないかな」
雅は、不意に思い立ったような顔をして言った。千鶴は視線を落としてスクランブルエッグを口に運びながら、その声に耳を傾ける。卵はほんのりと甘い味わいで、とろりと溶けていくような舌触りだった。
「その人たちは千鶴ちゃんに、助けなら必要ないと言ったんだよね?」
黙って頷く千鶴を見て、だったら、と続ける。
「彼らは助けを必要としてはいないんだよ」
その言葉の真意が分からず、千鶴は眉を顰めた。雅の言っていることは、あの夢の中の住人たちと同じだと、そう思った。
「助けることと、力を合わせることは違うんだ」
「……どういうことですか?」
「助けるなんていうのは、所詮その場かぎりのものでしかないだろう? ずっと一緒に寄り添っていてくれるわけではない。少し手伝って、そんな自分に満足をしたら、すぐに去っていってしまう。後のことなんて何も考えていないから、軽はずみに言葉にすることもできる」
「軽はずみなんて、私はそんなつもりじゃ――」
「もちろん、分かっているよ。その証拠に、ほら、千鶴ちゃんはそれを夢と思っていても、こんなに真剣になって向き合おうとしているのだからね」
聞き方によっては小ばかにされているようにも感じられる物言いだったが、千鶴は言い返さなかった。
雅はそう思っていないにしても、千鶴自身は、自分が愚かであることを自覚している。
そろそろ現実に目を向け、食事を終えて洗濯を済ませてしまわなければ、部活に遅刻してしまうだろう。そうと分かっているのに、頭と心は乖離したまま、別々の答えを探し求めている。
はあ、とため息を吐きながらトーストにバターを塗っていると、千鶴は目の端にきらりと輝くものを見つけた。何だろうと思いながら、バターナイフを持っている右手に視線を向けると、千鶴の心臓は大きく波打った。
右手の薬指に、ダイアモンドの指輪が嵌っていたのだ。それはまるで、当たり前のような顔をして光を放ち、千鶴を酷く混乱させた。
あの夜の出来事はすべて夢だったはずだ。祖母の部屋に入ったことも、指輪を見つけたことも、現実に起きたことではない。もし現実だったとしたら、雅は真っ先に訊ねたはずだ。祖母の部屋の鍵を渡したのは、義父の雅なのだから。
バターナイフをそっと置き、千鶴は自分の右手を強く握り締めた。雅を横目に見上げ、様子を窺う。
何かが変だと思った。千鶴が変なのか、雅が変なのかは、まだ分からない。だが、目の前にあるすべてのことに、疑念の余地はあると思った。
千鶴から向けられている眼差しに気づいたのか、雅は笑顔を浮かべたまま見下ろしてくる。その時初めて、千鶴は雅の笑顔に奇妙な違和感を覚えた。
「……夢を見ている時、人はそれが夢だとは露ほども思わない」
「千鶴ちゃん?」
「もし――もしも、こちらが夢なのだとしたら、あなたは誰?」
「変だな、どうしたの? 僕は僕だよ、千鶴ちゃん」
「違う」
千鶴は首を横に振った。
「あなたは、私なんだ」
そうだ、夢とは自分自身なのだ。すべては自分の頭の中で起こっている幻想であり、想像でしかない。けれど、もし想像を超えた何かがはじまったとすれば、それはもう夢ではないのだ。この目の前にいる男は、千鶴の想像する雅という人間であり、本物ではない。
そう確信した時、ダイアモンドの指輪が一際強い輝きを放った。千鶴は思わず目を覆ったが、隣に座っていた雅は身動ぎ一つしない。光は弱まるどころか、徐々に白さを増していき、目が潰されそうになる。
「どうやら、正解を導き出したようだね」
くすくすという笑い声と共に、雅の声が光の中から聞こえてきた。既に周囲は景色を失い、まばゆいまでの白がすべてを支配していた。
「さあ、ポケットの中を確かめてごらん」
その声だけを頼りに、千鶴はポケットの中をまさぐった。すると、指先には手の平に収まるほど細い、硬く、冷たいものが触れた。
ああ、そうか。
千鶴は雅の言葉を最後に、ゆっくりと意識を手放していった。
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