05.お祖母ちゃんと孫娘

「この家にぼくたち以外の誰かがいるはずだって、それって何の話?」


 後ろ手を拘束され、身体の自由を奪われながらも、男の子の声には緊張感というものがなかった。ただとても不思議そうに、自分を問い詰めてくるブランを見上げている。


「ちょっと意味が分からないんだけど」

「……お前も知らぬ存ぜぬで押し通すつもりか?」

「だから、ぼくには何のことだかさっぱりなんだってば。ルミエール、どういうこと?」

「さあ、私にも何のことだか分かりませんので」


 ルミエールにはある種の白々しさを感じるものの、男の子からはそうした作為性が少しも感じられない。それはブランも薄々感づいているらしく、酷く面倒臭そうに頭を掻いていた。この男の子の様子では、千鶴が隣で眠っていたことにも、気づいていないのだろう。

 千鶴は壁の影から階下を監視している男の隣で、同じように下の様子を窺っていた。先ほどまでとは位置が変わり、ルミエールは暖炉に背を向ける格好で立っている。相変わらず紳士的な笑みを浮かべてはいるが、千鶴には何を考えているのかが見えてこない。

 ブランはその隣に立って、ルミエールと男の子を交互に見ては、真意を探ろうとしている様子だった。


「それよりも、この手を放してくれない? 別に逃げたりなんかしないからさ」


 そう言いながら男の子が居心地悪そうに肩を揺すると、その背後に立っていたマントの人物が、伺いを立てるようにブランを見た。すると、ブランは手をひらひらと振りながら「放してやれ」と投げやりに言った。


「そもそも、どうしてお前がこんなところにいるんだ?」

「アンジエールの耳を診てもらいに来たんだよ。何日か前から調子が悪そうだったから、思い切ってね。まあ、たいしたことはなかったみたいだけど」

「おい、待て。まさか、本当にあいつが来ているのか?」

「そう怯えなくても大丈夫だよ、今は大人しく上の部屋で寝ているから」


 男の子はそう言ったかと思うと、どういうわけか自らの頬を引っかくような仕草を見せてから、悪戯っぽく笑った。


「でも、どうしてもっていうなら起こしてきてあげようか」

「い、いや、結構だ」


 ブランは心なしか狼狽えたような様子を見せたが、すぐに男の子のことを鋭く睨み付ける。厳しい表情を浮かべていなければ、威厳は保たれないとでも思っているようだ。

 だが、男の子の言動がブランの怒りに触れたのは確かなようで、場の空気がこれまで以上に重苦しくなりはじめているのは事実だった。


「では、お前はここにチトセの娘がやって来たことを、本当に知らないというんだな?」


 その瞬間、千鶴の頭上には数え切れないほどの疑問符が飛び交った。

 チトセ? 娘? 一体何の話をしているのだと、頭の中が真っ白になる。

 千鶴には、チトセという名前に聞き覚えがあった。千歳とは祖母の名前だったからだ。しかし、千鶴は祖母の娘ではなく、孫娘だ。根本的なところで間違えてはいるが、もしかすると――いや、もしかしなくても、ブランが探しているのは自分なのではないかと、千鶴は考えた。

 今更になって恐ろしさを覚えはじめた千鶴は、隣にいる男の衣服の袖を、無意識のうちにぎゅっと掴んでしまっていた。

 どうしてここで祖母の名前が出てくるのか、千鶴の理解は追いつかない。最近になって祖母のことばかりを思い出していたので、こうして夢にまで見るようになってしまったのだろうか。だが、ここまでくると重症だ。

 ぐるぐる、ぐるぐると思考が巡る。千鶴は同時に、祖母から聞かされていた不思議なおとぎ話のことも思い出していた。これはきっと、その世界を夢に見ているに違いない。それならば、ルミエールという名前を知っていたことも、何ら不思議ではない。ルミエールだけでなく、あの幼い男の子のことや、奥の部屋でちらりと見かけた動物――アンジエールのことも、知っているのだから。


「……もしかして、ノワール?」


 千鶴は囁くようにしてその名前を口にしていた。

 祖母は千鶴に話して聞かせていた。ノワールとは正義感が強く、不器用だけれどとても優しい、盲目の騎士であると。窮地の時は誰よりも早く駆けつけ、どのような困難からも救い出してくれる。この男はそのノワールに違いないと、千鶴はそう思った。

 千鶴の声が聞こえたらしく、男は肩越しに後ろを振り返る。そして次の瞬間、千鶴は我が目を疑った。男の顔が、千鶴の良く知っている者の顔と、あまりに酷似していたからだ。


「え、雅さ……?」


 まさか、そんなはずはない。あの人はこのように冷ややかな表情は浮かべない。凍えるような眼差しでこちらを見ない。不愉快そうに眉を顰め、こちらを睨んだりしない――千鶴は背筋にぞくぞくと走る悪寒を感じながら、思わず自らの肩を抱いた。

 ああ、これは夢だ。夢なのだ。夢に決まっていると、千鶴はそう何度も自らに言い聞かせた。ただ違うのは、千鶴を見下ろす目がどこまでも深く沈んでいくような、底の見えない色をしていることだけだった。


「で、でも、あなたは――」

「おい! そこにいるのは誰だ!」


 開いた口が塞がらないまま呆然としていると、階下にいたブランが訝しげに大声を上げた。ノワールは小さく舌を打つと、千鶴の腕を乱暴に掴み、早足で廊下の突き当りにある部屋に向かう。

 部屋の扉は開け放たれたままになっていた。暗闇の中で、千鶴はきらりと輝く二つの光を見た。それはまるで星のように煌き、時々思い出したように瞬く。ノワールと千鶴が部屋に駆け込むと、その光がぎょろりと動いた。


「ノワール、その子と窓の外へ」


 暗闇の中で何かが言った。


「ここは私が引き受ける」

「すまない」


 ノワールは素早く応じると、千鶴を連れたまま声の主の脇を通り過ぎた。空中にぽっかりと浮いているように見えていた光は、ゆっくりと瞬き、すうっと細められた。

 千鶴の手を取ったままカーテンの影に滑り込んだノワールは、急いで窓を開くと、外に身を乗り出した。二の足を踏んでいる暇はなかったが、凍えた空気に身体は硬直してしまう。それでも、引っ張り上げられるがままに外に出た千鶴は、雪の積もった屋根の上に降り立った。

 窓を閉めるのと、ブランが部屋に乗り込んできたのは、ほとんど同時だった。

 ノワールは窓に影を作らないように注意しながら、ぴたりと外壁に張り付いて室内の音を聞き取ろうとしている。千鶴にそのような余裕があるはずもなく、体育座りのような格好のまま、じっと寒さに耐えているしかなかった。

 外は気温にしてどの程度なのかは分からないが、氷点下だということは間違いない。身体が縮こまる寒さの中、あとどれだけの時間をこうしていればいいのかと考えるだけで、途方に暮れてしまう。

 それでも、肩を抱いてがたがたと身体を震わせながら、しんしんと降り続く雪の中で、千鶴はただじっと耐えていた。少しでも物音をたてれば怒られると思い、恐る恐る体勢を変える。

 はあ、と白い息を吐き出しながら、千鶴はもう一度ノワールの横顔に目を向けた。本当に、本当によく似ているのだ。同一人物ではないかと疑ってしまうほどに、瓜二つだった。

 自分を見つめる視線に気づいたのか、ノワールは表情一つ変えないまま、千鶴に顔を向けた。

 その瞬間、千鶴は目が合ったと錯覚するが、ノワールは盲目のはずだ。千鶴のことなど見えてはいないだろう。それなのにもかかわらず、すべてが見えているかのような動きで、ノワールは千鶴の手を取った。

 その手は、声と態度の冷たさをよそに、とてもあたたかかった。


「出てくる」

「え?」

「ブランが――」


 ノワールが言い終えるより前に、下の方が少し騒がしくなりはじめた。


「こっちだ」


 階下では玄関の扉が開いて、室内の明かりが外に漏れだしていた。扉の形に伸びた明かりが遮られたかと思うと、ぞろぞろと人が出てくる。千鶴は身を乗り出して下を見ようとしたが、ノワールに腕を捉まれて後ろに引かれると、バランスを崩して尻から雪の上に倒れ込んだ。


「ちょっと待ってよ! ルミエールを連れて行ってどうしようっていうの?」


 少し舌足らずにも聞こえる男の子の声が言った。


「そんなことをしたって、何の意味もないよ」

「意味があるかどうかを決めるのは陛下だけだ、チビ助」

「ぼくをチビって呼ぶな! この裏切り者!」

「はっ、裏切り者だと? 最初に俺たちを裏切ったのはどこのどいつだ? おい、言ってみろよ。誰のせいでこんな目に遭ってると思っている? 誰のせいでこんな世界になった? 陛下はあの女の代わりに、この世界に春を蘇らせようとしてくださっているんだ、それを忘れるな」

「偽物の王なんていらないよ。偽物の春が戻ってきたところで、誰が喜ぶっていうの? みんなは正当な後継者が現れるのを、じっと耐えて、ずっと待っているんだ!」

「うるせぇな。もう待ちくたびれたんだよ、俺は」


 ブランは少しだけ声を荒げた。だが、冷静さを欠いてはいないようだった。


「王は二人もいらない」


 そうした口論だけが聞こえてくる。二人の声は森の中で響くこともなく、空気の中に吸い込まれて、そして消えた。男の子は口を噤んでしまったのか、しばらくの間は沈黙が辺りを支配していた。


「プティー」


 ルミエールの朗らかな声が聞こえてくる。


「私なら大丈夫ですよ。ちょっと出かけてくるだけです」

「だけど、ルミエール」

「心配しないでください」


 男の子の不安そうな声を聴いて、ルミエールは安心させるように優しく応じていた。小さく馬の嘶きが聞こえ、馬車に乗り込んでいくような音が続く。

 千鶴は、この事態が自らのせいで悪い方向へ進んでいるということを自覚しはじめ、酷く居た堪れない気持ちになった。


「アンジエール、留守をお願いします」

「ああ、任せておけ」

「頼みましたよ」


 千鶴は何が起こっているのか、そして何が起ころうとしているのかも分からないまま、馬車が遠ざかっていくのを黙って見つめていた。

 夢だ夢だと思いながらも、もしかしたら、これは現実なのではないかという考えが脳裏をよぎる。この寒さと痛みが、その答えだ。ほんの少し前までは微かにしか感じていなかった恐怖心が、千鶴の中で刻一刻と膨れ上がっていった。

 これが現実だというのか。祖母から聞かされていたあのおとぎ話が、すべて現実だと──千鶴は、視界がぐにゃりと歪むほどの眩暈を感じた。

 今の今まで、しぶとく生き残っていた幼い頃の千鶴が、頭の中で歓喜の声を上げていた。しかし、祖母の死を受け入れ、現実の中で生きてきた今現在の千鶴には、それを素直に信じ、受け入れることは難しい。世の中の不思議を、何の疑いもなく受け入れていたあの頃には、そう簡単には戻れないのだ。

 なぜこうも疑り深い性格になってしまったのか、その理由ははっきりしている。母の影響だ。母は何年にも渡って、洗脳と言っても過言ではないほどの教育を施し、不必要な思想はすべて排除させていった。千鶴は少しずつ、母が望む退屈な人間に成り果てていたのだ。


「いつまでそうしている?」


 千鶴が宙を見つめて物思いにふけっていると、頭上から冷ややかな声が降ってきた。反射的に顔を上げると、右手を差し伸べているノワールの姿がある。いつからそうしていたのか、一見すると酷く呆れているようにも見えた。


「早くしろ。風邪を引く」


 一応は身を案じてくれているのだろうか。それとも、自分の身体を心配しているのだろうか。

 少し躊躇いながらその手に掴まると、ノワールは千鶴の腕を引き、その身体を軽々と立ち上がらせた。言いたいことは山のようにあるだろう。それなのにノワールは何も言わず、無言のまま千鶴に背を向ける。ノワールの手を借りて窓枠を跨ぎ越すと、部屋の中はほんのりとあたたかく感じられた。

 窓を閉め、廊下に向かう道すがら、千鶴は部屋の床に落ちていた毛布を手に取った。露出した肌の表面は分厚い膜が張ったようになり、感覚が鈍ってしまっている。

 早く暖炉の火にあたってあたたまりたかったが、千鶴の足は階段を降りる手前でぴたりと止まった。すべての原因が自分にあるのなら、どの面を下げて向き合えばいいのか分からないと千鶴は思う。


「こんな時に何をやっていたの?」


 沈んだ様子で椅子に座っていた男の子が、階段から降りてきたノワールを見て言った。


「大変だったんだからね」

「知っている」

「知ってるって、それなのにずっと隠れていたの? ルミエールが連れて行かれたのに? それって趣味悪いよ?」


 男の子は唇を尖らせると、不満そうにノワールを睨み付けた。だが、ノワールは男の子になど目もくれず、台所と思われる場所に姿を消した。千鶴はどうすればいいのか分からず、二階の踊り場に立ち尽くしている。


「大体、チトセの娘がここに来たなんて嘘に決まってるよ。もし本当だとしても、ぼくたちより先に知るなんて不可能な話さ」

「……ここに来ていないと言い切れるか?」

「へ?」

「私もお前も、ずいぶん前から眠り呆けていた。その間に娘が来ていないと言い切れるか?」


 そうして話の腰を折ったのは、暖炉の前で伏せている大きな動物だった。

 見た感じはボーダーコリーのような姿で、つやつやとした白黒の毛を生やしている。額には三日月型の、背中には天使の翼のような白い模様が入っていた。ただ違うのは、その体躯が非常に大柄だということだ。五歳くらいまでの子供ならば、背中に跨ることができるだろう。丸い目は暗闇の中で見た煌きと同じく、まっすぐに千鶴に向けれている。

 正面からその目に見つめられた千鶴は、その場で硬直してしまった。曇りのない澄み切った目は心の奥底までをも見透かしてしまいそうで、とても落ち着かない。それと同時に息を呑むほど美しく、千鶴はその目に魅入られてしまった。


「それに、ブランが探していた娘なら、そこにいる」


 大きな犬の姿をした動物、アンジエールは、涼やかな声でそう言った。風のように軽やかで、耳に心地よい声音だった。男の子とは打って変わり、沈んだ様子は微塵も窺わせていない。


「ノワールがブランの目から隠していた。見つからずに済んで幸いだったな」

「ノワールが隠して、って……ああっ!」


 アンジエールの視線を辿って千鶴の姿を見つけた男の子――プティーは、千鶴を指差して大声を上げた。そして、わなわなと手を震わせると、金魚のように口をぱくぱくと開閉させている。大きく見開かれた目は、今にもこぼれ落ちてしまうのではないかと千鶴を心配させた。


「チ、チトセ……なの?」

「わ、私は」


 プティーに釣られてどもってしまった千鶴は、唾を飲み込んで喉を潤してから、先の言葉を続けた。


「私はお祖母ちゃんの、千歳の孫で……」

「へ? 孫?」

「そう。あの、孫の千鶴、といいます」


 千鶴は酷く奇妙な気分に見舞われていた。会ったこともないというのに、千鶴はこの者たちのことをよく知っている。だが、この者たちは千鶴のことを何一つ知らないのだ。


「チトセの、孫? 本当に?」


 プティーは疑わしそうに何度も同じことを繰り返しながら、徐に椅子から立ち上がる。そして、ゆっくり階段を上ってきたかと思うと、数段下から千鶴の顔をじっと見上げてきた。そのあまりに真剣な眼差しを受けてぎょっとした千鶴は、それから逃れるように視線を彷徨わせた。


「何かの冗談だよね? だって、君――」


 ぎゅっと眉根を寄せて、プティーが少し怒ったような顔をした。


「チトセでしょ? どこからどう見ても、本人じゃないか」

「だから、千歳は私のお祖母ちゃんでね」

「ちょっと、冗談はやめてよ。ぼく怒るよ?」

「冗談なんかじゃないったら。私は千歳の孫で、美優の娘、有沢千鶴というの!」


 語気を強くいて千鶴がそう言い切ると、プティーは僅かにたじろいだようだった。それでも、同意を求めるように階下を見下ろし、アンジエールに向かって声をかける。


「この子、チトセとは違うの?」

「違う。本人もそう言っている」

「こんなにそっくりなのに?」

「容姿は酷似しているが、匂いが違う。それに、あれから何年過ぎたと思っている?」

「そんなのもう忘れちゃったよ」

「忘れるほど経過しているということだ」


 アンジエールの言葉を聞いて、プティーはきょとんと眼を丸くした。おして、千鶴の全身を舐めるように見ていたかと思うと、間もなくして困惑したような顔で首を傾げた。


「それじゃ、君は本当にチトセではないんだね? あの子の孫だって、そう言った?」

「千鶴、です」


 千鶴は、祖母から千年も生きているという子供の話を聞いたことがあった。まさか、この子のことなのだろうか――そう考えると、思わず不躾な視線を向けてしまう。同じ年頃の子供たちよりも大人びているようだが、千年も生きているにしては、精神的に大人しく感じられた。


「それにしても、よく似ているんだね」


 プティーは感慨深そうに言った。そうした様子は、とてもおじさん染みて見える。


「チトセの孫かぁ、そうかぁ」

「二人とも、そのようなところで立ち話をしていないで、こちらに降りてきたらどうだ」


 後ろ足で器用に耳の後ろを掻きながら、アンジエールが言う。耳を診てもらうために訪ねてきたという話は、どうやら事実らしい。

 うん、と頷いて降りていくプティーに倣い、千鶴もその後について行った。すると、台所の方に姿を消していたノワールが、陶器の椀を手に持って戻ってくる。


「これを飲め、身体が温まる」

「あ、ありがとうございます」


 ぶっきら棒に渡されたそれを反射的に受け取るが、立ち上った湯気からは、少し癖のある独特な香りがした。色は濃いほうじ茶のようで、見たところまったく美味しそうではない。


「こちらに来て座るといい」


 どうしたものかと思いながら立ち尽くしている千鶴を見かねたのか、アンジエールが太い尻尾を揺らしながら場所を示す。千鶴は小さな頃から犬が大好きだったが、これだけ大きいと尻込みをしてしまうものだ。それでも、千鶴はその大きな体躯の隣に腰を下ろすと、皴にならないようスカートの裾を伸ばした。


「その指輪が君の手に渡っているということは、チトセはもう旅立ったのだな」


 ノワールが淹れてくれた飲み物は、思っていたよりもずっと苦かった。漢方薬のような味がする。そう思いながら千鶴が少しずつ口に運んでいると、沈黙を破ってアンジエールが呟いた。

 その言葉にはっとしたのは、千鶴だけではない。プティーは目を見開いた後、今にも泣き出してしまいそうな顔になった。柱を背にして立っていたノワールも、心なしか驚いているように見える。


「あの、その……」

「大丈夫だ。私たちの悲しみはいずれ淘汰される。心配することはない」


 アンジエールは至って無感情に言う。表情も変わらないので、実際にはどのように感じているのか、千鶴には判断のしようがなかった。

 アンジエールの言う通り、悲しみはいずれ薄れていくだろう。だが、忘れるわけではない。千鶴の心に深く根付いているように、アンジエールたちの心にも根を下ろしているはずだ。


「その指輪は、この世界とあちらの世界を繋ぐ鍵となっている。その指輪さえあれば、君はすぐにでも元の世界に帰れるはずだ。明日の朝になったら、私が洞窟まで送っていこう」

「え? で、でも――」

「ルミエールのことなら案ずるな。あれも、君が無事に元の世界へ帰ることを望んでいる」

「でも、ルミエールさんは私のせいで連れて行かれてしまったんですよね? 理由は分かりませんけれど、私を庇ったばかりに」

「君のために連れて行かれたことは事実だが、君を無事にあちらの世界へ帰すためには必要なことだった。何、ルミエールのことは私たちで何とかできる」


 それはまるで見放されるような物言いだった。そのような言い方をされるとは思ってもいなかった千鶴は、つい愕然としてしまう。幼い頃にあれだけ憧れていた場所にいるというのに、酷く心が抉られるような、さびしい気持ちがした。

 大好きだったお話の主人公たちが目の前にいて、手を伸ばして触れられる距離にあっても、ただそれだけだった。これは夢ではない。現実に起きていることなのだ。ようやくそう自覚することができたというのに、まるで夢だったように終わってしまおうとしている。


「……私にも、何かお手伝いできることはありませんか?」


 なけなしの勇気を振り絞り、千鶴はそう口にした。だがしかし、その言葉で喜ぶ者は誰もいない。


「せっかくだが、助けならば必要はない」


 アンジエールは首を横に振ると、静かな声で、残酷な言葉を告げた。

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