04.夜闇にまぎれて

 次に目を覚ました時、千鶴は自分の部屋のベッドで横になっているつもりでいた。ああ、なんておかしな夢を見たのだろうと安堵の息を吐き、今日も朝の日課をはじめるはずだった。

 目覚まし時計より少し早く目を覚まし、五分ほどその状態でぼんやりとする。思考がはっきりしてきた頃に身体を起こし、ストレッチをしてから、カーテンを開いて清々しい太陽の光を浴びるのだ。リビングに降りていけば、雅がまだ仕事をしている最中かもしれない。

 千鶴は瞑目したまま、そのようなことを考えていた。だが、どこからか聞こえてきた鈍い物音に驚いて、反射的に目を開く。するとそこに見えていたのは、思い描いていたようないつもの天井ではなかった。薬草の下がった低い天井が、暗がりの中に見えていた。

 絶対におかしい。

 これは自分が見ていた夢のはずだ。それなのに、目が覚めてもまだ同じ夢の中にいるというのは、どういうことなのだろう――千鶴は念のため、もう一度強く目を閉じた。もしかしたら、寝惚けているだけという可能性もある。

 そして、ゆっくりと視界を広げていくものの、見えている世界は変わらなかった。


「なんで……?」


 がたっ、と廊下の方から物音が聞こえたような気がして、千鶴はその場に身を起こした。

 あれからどのくらいの時間が過ぎたのかは分からないが、千鶴がここを訪れた時にはもう既に、夜もかなり更けていたはずだ。ルミエールと名乗った男が、まだ起きて何かしているのだろうか。

 千鶴は身体に掛かっていた毛布を丁寧に折りたたむと、それを傍らに置いた。隣で眠っている男の子は、先ほどと変わらずすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。また毛布が剥がれていたので、ルミエールがそうしていたように掛け直してやった。

 階下から聞こえてくる物音に耳を傾けてみると、それが人の話し声であることが分かった。何を言っているのかまでは聞き取れないが、複数人で話していることは、何となくだが察することができた。


「ルミエールさん、まだ起きているのかな」


 眠っている子供たちを起こさないように立ち上がった千鶴は、物音をたてないように歩き、扉を引いた。ここで眠っている子供以外にも、滞在している者がいたのだろうか。ルミエールが他の誰かと話をしているだけなのかもしれない。

 自分が出ていけば迷惑になるだろうか――と、千鶴は一切考えていなかった。

 千鶴は未だ、この期に及んで、これを夢だと信じ込んでいたからだ。自分の夢では迷惑もへったくれもない。それに、酷く目が冴えて、このままでは眠れそうになかったのだ。

 絨毯の敷かれていない部屋から足を踏み出すと、息が詰まるような冷たい空気が、するりとスカートの中に入り込んでくる。スカートを左側から摘まみ、広がる生地をぴたりと足に沿わせて、冷えた空気の通り道を塞いだ。

 下の部屋まで降りていけば、あたたかい暖炉の炎に当たることができる。もう一杯だけホットミルクをもらって、そうしたら大人しく布団に戻ろうと千鶴は思っていた。


「――ですから、あなたがおっしゃるような方はお見えになっていません」


 階段の手すりに触れて、一段目を降りようとしていたまさにその時、ルミエールの声が鮮明に聞こえてきた。その声は変わらず朗らかだったが、どこか張り詰めた糸のような緊張感がある。誰かと話をしていることは間違いないが、仲睦まじいというふうではないようだ。


「下手な嘘は身を滅ぼすことになるぞ、ルミエール」

「何度も同じことを言わせないでください、ブラン」


 千鶴は静かに身を引くと、二階の踊り場からこっそり階下を盗み見た。不穏な空気を肌で感じながら、壁に身を隠し、顔だけを少し覗かせて様子を窺う。

 そろりと盗み見た階下には、四人の人影があった。ルミエールはこちらに背を向けているので、どのような顔をしているのかは分からない。その線の細い背中が、まるで階段を護るように立ちはだかっている。


「我々があの洞窟を監視し続けていたことは、お前も知っているはずだ。確かにあの洞窟から現れるのを見たと、そう証言している者がいる」

「今夜はあいにくの天気ですよ、ブラン。動物と見間違えたのではありませんか?」

「動物が二息歩行などするものか。庇い立てするようであれば、いくらお前でも容赦はしないからな」

「おや、兄弟子である私に手を上げるというのですか?」

「ふん、師殺しの大罪人が何を言う」

「ずいぶん昔の話を持ち出してくるのですね」


 苦々しげなルミエールの声がそう言うと、その正面に立っているブランと呼ばれた男が、頬にある傷跡を歪ませながら奇妙に笑った。

 ブランはルミエールよりも僅かに身長が低く、若い印象を受ける。鋭い三白眼で愉快そうにルミエールを睨み付け、自信満々な態度で両腕を胸の前で組み合わせていた。銀というよりは白に近い髪を後ろで結わえている。黒い革の鎧をまとい、背中には大振りの剣を背負っていた。


「先生は俺の親も同然だった。お前のことだって、本当の兄と思って慕っていたんだ。それなのに、お前はすべてを台無しにしてくれた。だから今度は、俺の人生で、お前のすべてを台無しにしてやる番だと思ってる」

「あなたはまだ子供なのです、ブラン。だから、何も分かっていない――」

「分かっているとも」


 にやりとほくそ笑んだブランは、後ろに控えている二人の人影に何かを囁きかけた。人影と称したのは、その者たちが頭からつま先まで、すっぽりと覆い隠すほどの大きなマントを纏っているからだ。その二人が男なのか女なのかも分からない。


「我が王から下された命を以て、屋内を捜索させてもらう。お前の言っていることが正しければ、要求を拒絶する必要もあるまい。その辺に座って大人しく待っていろ」

「お言葉ですが、今のこの国に王は存在しません」

「お前が忠誠を誓っていた女王は、この国を捨てて去った。永遠の冬をもたらしてな。いい加減に目を覚ましたらどうだ、ルミエール? この国には新しい王がいる。王は二人もいらない、そうだろう?」

「あなたの王はこの国に真実の春をもたらせはしません」

「春に真実も偽りもあるかよ」


 行け――ブランからそう指示を受けた二人は、身体の向きを変えて歩き出した。一人は千鶴が着替えをした小部屋へ、もう一人はルミエールの脇を素通りして、二階に上がって来ようとしている。

 焦った千鶴は、瞬時にどう行動を起こすべきなのか、判断をすることができなかった。見つかってしまったら、どうなるのだろうか。来訪者は誰かを探しているようだが、まさか、自分ではないだろう――だがしかし、千鶴の心臓は強く鼓動を打ち始めている。

 マントの人物は今にも階段に足を掛けようとしていた。盗み聞きを咎められたとしたら、言い逃れはできない。


「……ど、どうしよう」


 そう小さく呟き、千鶴が視線を右往左往させていると、背後から突然腕を引かれた。咄嗟に声を出してしまいそうになった口を、ごつごつとした大きな手に塞がれ、後ろから羽交い絞めにされる。


「静かに」


 低い声が、耳元で囁いた。


「大人しくしていろ。いいな」


 間髪入れずにこくこくと頷くが、背後の男はそれを信用するつもりがないようだった。千鶴の身体を拘束したまま、音もたてずに後ずさりをすると、廊下を進んで左手にある部屋に身を隠す。

 案の定、引きずり込まれた部屋の中は真っ暗闇だった。音もなく閉じられた扉の向こうからは、ゆっくりとだが、確実に近づいてくる不穏な足音が聞こえてくる。それはより一層、千鶴の緊張感を募らせた。

 かつん、かつん、かつん――扉の前で足音が止まると、千鶴は息を潜める。

 心臓があまりにうるさく、それが自分以外の者たちにも聞こえてしまうのではないかと、千鶴は不安になった。しかし、マントの人物がこの部屋に入ってくることはなかった。ぎぎぎぃ、と扉の軋む音が聞こえてくる。どうやら、右の部屋から調べることにしたらしい。


「今からこの手を放す。ただし、絶対に声は出すな。私の言うとおりにしろ。分かったか?」


 言われたことを頭の中で復唱しながら素直に頷くと、男は千鶴の拘束を解いた。

 この男は誰なのだろうと考えるが、今の状態では、敵なのか味方なのかも判断できない。だが、あのブランという男たちから守ろうとしてくれていることだけは、何となく分かる。千鶴はその男から身体が離れるとすぐに後ろを振り返ったが、この暗闇の中では、男の輪郭さえ浮かんでもなかった。

 部屋には古い紙の臭いや、鼻をつんと刺すような刺激のある臭いが充満していた。例えるならば、古本屋の臭いだ。もう何日も空気の入れ替えをしていない、埃っぽい感じがする。

 少しでも身体を動かすと何かにぶつかり、物音を立ててはいけないこの状況では、少しも身動きを取ることができなかった。だが、どこかに身を隠さなければ、あっという間に見つかってしまうだろう。

 千鶴は暗闇の中を探るように、恐る恐る腕を伸ばした。部屋としての広さは限られているはずなのに、目の前の闇はやはりどこまでも続いているように思える。その場で立っているだけなのに、少しずつ天と地の区別がつかなくなるような錯覚に見舞われた。


「こっちだ」


 空を切る千鶴の腕を掴んだのは、酷く冷たい手だった。先ほどと同じごつごつと骨張った手が、千鶴の手首を掴んだのだ。そして、部屋の奥へと乱暴に引きずっていく。

 この部屋の床には様々なものが乱雑に置かれているようだが、その男はこの暗闇の中でも、それらを正確に避けて歩いているようだった。暗闇などまるで意に介さず、すべてが見えているかのような動きだ。千鶴も必死に目を凝らしていたが、闇以外には何も見ることができない。

 千鶴の背中が壁に押し付けられるのと、その男の背後で扉が開かれたのは、ほぼ同時だった。

 その男は千鶴を抱き締めるようにして、自らの身体ですっぽりと包み込んでいる。そこは棚の間に空いた僅かな隙間で、入り口からは死角になっていた。


「目を閉じて」


 低い声が再び耳元で囁いた。


「息を止めろ」


 それはまるで存在を消せと言われているようで、千鶴は絶対に無理だと思ったが、男の言葉に従うしか道は残されていなかった。言われるがままに瞼を下ろし、静かに息を止めて待つ。

 不思議と落ち着いていられたのは、触れた胸から聞こえてくる男の心臓が、とくん、とくん、と優しく鼓動していたからだろう。乱暴な口振りからは考えられないほど繊細で、穏やかな音をしていた。 

 だが、いくら死角になっているとはいえ、存在そのものが消えてなくなるわけではない。傍までやって来れば、そこに人が隠れていることくらい、すぐに露見することは明白だ。

 万事休すだ、と千鶴は思った。もうどこにも逃げ道はなく、身動きも取れない。マントの人物もあと数歩の距離にまで迫ってきていた。この緊張感と動悸を抱えながら、いつまでも息を潜めていることなど不可能だ。

 急に息苦しくなってきた千鶴は、視界を塞ぐように立っている男の衣服を、無意識のうちに強く握り締めていた。あと五秒ともたない。だが、マントの人物は、手を伸ばせば届く場所にいる。


「……何だ?」


 ああ、もう駄目だと千鶴は思った。気づかれてしまったに違いない。

 そもそも、なぜこのような思いをしてまで身を隠さなければならないのか。意味が分からない上に、必要性も感じなかった。まるで命を狙われている者のように必死だが、千鶴には何の心当たりもないことだ。

 千鶴はついに覚悟を決めた。見つかったところで、どうということもないだろう。これは夢なのだ、慌てるようなことではない。そう考えるだけで、身体の緊張が少しずつほぐれていくのが分かった。

 だが、マントの人物がこちらに襲い掛かってくることはなかった。何事かを呟き、弾かれたように後ろを振り返ると、早足でこの部屋を出ていく。

 これは、助かったということなのだろうか――そう考えながらも、咄嗟には現状を把握し切れなかった千鶴は、すぐには息を吐くこともできなかった。

 それでも身体は酸素を求めている。同時に、肺の中に溜め込まれていた息を一気に吐き出そうとするが、たったそれだけのことで脳は混乱を起こし、千鶴は一瞬だけ、呼吸の仕方さえ忘れてしまった。途端に、まるで呼吸困難を起こしたかのように、胸が苦しくなる。


「落ち着いて、深呼吸をしろ」


 千鶴を抱き締めた格好のまま、男は再び囁いた。そして、男が背中をゆっくり撫でたかと思うと、嘘のように呼吸が楽になる。


「――ちょ、ちょっと、何なの?」


 三度目の深呼吸をしていると、そう言う声が聞こえてきた。突き当りにある、一番奥の部屋から聞こえてくる声だろう。マントの人物が物音を聞きつけ、眠っていた子供を毛布の中から引きずり出している様子を、容易に想像することができた。

 千鶴は、子供相手になんてことをするのだと飛び出していきたかったが、男に肩を押さえつけられ、身動きを取ることができない。


「あんた、一体誰なのさ! こんな真夜中に叩き起こして、何だっていうんだよ!」


 子供らしい高く透き通った声が近づいてきたかと思うと、半開きの扉の向こうで、マントの人物に引きずられていく姿が見えた。


「ぼくの眠りを妨げるなんて、いい度胸じゃないか!」


 どこか子供らしからぬ物言いに、千鶴は思わず目を丸くしていた。年恰好は弟の悠とそう変わらないが、言動はまるで大人のようだ。子供はマントの人物に連れられて階段を降りていったようで、文句を垂れる声は、徐々に遠ざかっていった。


「あれの心配は要らない」

「あれ? 心配は要らないって――っ」

「声は出すなと言っておいたはずだ」


 出してしまった声を押し戻そうとするように、男は再度千鶴の口を塞いだ。先ほどまでの諭すような物言いとは違い、半ば警告するような、言い方を変えれば、脅すような厳しい声音がそう告げる。

 反論するよりも、大人しくしておいた方が身のためだと咄嗟に悟った千鶴は、言われた通りに口を噤んだ。その格好のまましばらく待っていても、マントの人物が二階に戻ってくる様子はない。

 階下では何が起こっているのだろうと、千鶴は気になって仕方がなかった。もしあの男の子が酷い目に遭っていたらと思うと、気が気ではない。男も千鶴が落ち着きなく身体を揺さぶっていることに気づいたのか、不審そうに見下ろしてくる気配があった。


「君はここで待っていろ。少し様子を見てくる」


 だが、男は足を一歩踏み出したところで、ぴたりと動きを止めた。声はなくても、咎められているような、投げやりな視線が向けられていると分かった。

 千鶴がその男の服を後ろから掴み、先へ行かせまいとしていたのだ。声を出すなと二度も釘を刺されたからには話す気にもなれず、無言のまま態度だけで訴えかける。

 すると、僅かな沈黙の後、これ見よがしな大きなため息が頭上から降ってきた。


「……好きにしろ」


 その男は酷く面倒臭そうに、吐き捨てるような口振りでそう言った。

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