02.白銀の世界

 ずっとほしいと願っていたものが、その手の中にある。それは、手の平にすっぽりと収まるくらいの、小さな銀の鍵だ。だが、いざ手に入れてみると、思ってもみなかった感情が芽生えるのを、千鶴は感じていた。恐怖とは違っているが、恐らくそれが最も近い言葉なのだろう。握ったこぶしが、小刻みに震えている。

 ある日、千鶴の夢の中に祖母が出てきたことがあった。こちらを見つめたまま何も言わず、ただにっこりと微笑んでいたことを、千鶴はよく覚えている。だが、夢の中の祖母は千鶴が話しかけても、何も応えようとはしなかった。最後には、千鶴を優しく抱き締めると、そのまますっと姿を消してしまった。

 それが千鶴の願望だったのか、祖母が様子を見に現れたのかは、判断のしようがない。毎晩祖母を思って泣いていた千鶴を、仕方のない子ね、と慰めるために現れたのだろうか。以来、不思議と千鶴が祖母を思って泣くことはなくなっていた。


「……お祖母ちゃん」


 この五年間、決して開くことのなかった扉に触れながら、千鶴は囁くように言った。

 天窓から差し込む月明りを浴びて、千鶴の腕が病的なまでに青白く浮かび上がっている。


「ねえ、お祖母ちゃん。本当にいいのかな」


 美優に対する後ろめたさと、この扉の先で待ち構えている現実を思うと、足がすくんで動けない。

 このところ毎晩のように聞こえていた不審な物音だが、今は聞こえなかった。まるで、千鶴がここに立っていることを察し、息を潜めているようだ。余計に薄気味悪さが助長され、少しだけ背筋が冷たくなった。

 千鶴は、ありもしない願望を抱きながら、その思考のあまりの恐ろしさに、はっと息を呑んだ。あり得ないことだ。この扉の先で、祖母が待ち構えているなど、百万が一にもあり得ない。

 それでも、心のどこかでは、そうなることを望んでいたのかもしれない。この扉を開くと、元気な姿をした祖母が、以前までと同じように笑顔で招き入れてくれたらいいのに、と。

 パジャマの上から胸に触れると、心臓がどくどくと素早く鼓動しているのが分かる。酸欠で頭がくらくらしてきたので、心を落ち着かせるために、大きく深呼吸をした。

 吐き出す息が震えても、地に立つ足が震えても、どれだけ現実から目を背けようとも、過去は変えられない。どれだけ祈っても、祖母は戻らないのだ。

 もし祖母が半透明な姿で現れたとしても、それを受け入れる覚悟はできている。たとえ扉を隔てた向こう側に祖母の亡霊が待ち構えていたとしても、決して驚かない。

 千鶴は自らにそう言い聞かせ、汗でじっとりと湿っている手をそっと開いた。錆びた臭いが鼻先まで上り、舌が鉄の味を錯覚した。

 まだ戸惑いは消えていない。美優に対して後ろめたい気持ちのまま、前に進んでいいのかも分からない。だがしかし、千鶴には自分の心の叫び声を無視することは、どうしてもできなかった。

 錆の臭いがする手の平の汗を拭い、小さな鍵を指先で持ち直した。左手首を右手で支えるように握り、震えをどうにか抑えつけようとする。しかし、手が滑って鍵が床に落ち、千鶴は自分が思っている以上に緊張していることを自覚した。


「大丈夫、大丈夫だから、落ち着け、私」


 千鶴は小さな声で自らを励まし、足元に落ちた鍵を拾い上げると、月明りの中で鍵穴を探った。間もなくすると、鍵の先端が穴に吸い込まれ、ぴたりとはまる。千鶴はごくりと唾を飲んでから、もう一度だけ深呼吸をすると、意を決して鍵を回した。

 カチッ――小気味よい音が、静寂の中に響く。

 そして、なけなしの決心が失われる前に、千鶴は五年もの間閉め切られていた開かずの扉を、勢いよく押し開いた。

 この時既に、千鶴の呼吸は驚くほど大きく乱れていた。息が苦しく、視界がぐるぐると回っているような錯覚を覚えるが、もう後には退けない。千鶴はふわふわと浮遊するような感覚にみまわれながら、祖母の部屋に足を踏み入れた。

 扉を開けた正面には大きな窓が二つあり、廊下の天窓からと同じように、銀色の光が差し込んでいた。五年前と変わらず、壁のほとんどが本棚で隠されている。アンティークの机や椅子、カウチも以前のままだ。毛足の長い絨毯は、歩く度に足の裏を優しく包み込む。

 部屋に足を踏み入れた瞬間から、妙な違和感を覚えた千鶴は、もやもやとした落ち着かない気持ちになっていた。何かがしっくりとこない。祖母の部屋は、以前までと何も変わっていないというのに、千鶴の中にいる別の誰かが、何かが違うと囁いていた。

 部屋に入って左側が寝室だ。その部屋も覗いてみるが、綺麗に整えられたベッドがあるだけだった。サイドテーブルには読みかけと思われる本が、五年前のままの状態で置かれている。今にも、祖母が「どうしたの?」と声をかけてきそうな雰囲気が辺りを漂い、千鶴を酷く切ない気持ちにさせた。

 また本棚の部屋に戻ると、まず目に飛び込んでくるのは、大きな暖炉だった。灰どころか塵一つ見当たらない。火の入っていない暖炉は、深い闇がどこまでも続いているようで、見ているととても不安な気持ちにさせられる。まるで、向こう側から誰かが覗いているような気配すら感じ、夏だというのに薄ら寒い空気が首筋を撫で上げた。


「……やっぱり変だ、この部屋」


 祖母が生きていた頃と、何も変わらない部屋の様子を目の当たりにした千鶴は、思わず気味悪さを覚えた。この五年間、誰一人として部屋に足を踏み入れていないのだから、何も変わっていないのは当たり前のことだ。だが、それだけ長い時間放置されていたのにもかかわらず、埃が少しも積もっていないというのは、妙な話だろう。

 生前の祖母は綺麗好きだったが、天国に旅立ってまで時々自分の部屋に戻り、几帳面に掃除をしているなどとは想像したくもない。そうでなくても、誰もいないはずのこの部屋には、何者かの気配を感じるのだ。


「……お祖母ちゃん、いるの?」


 いないよね、と言って千鶴が足を踏み出した時、土踏まずの辺りに何かが刺さったような、鋭い痛みを感じた。


「痛っ」


 反射的に足を持ち上げた千鶴は、その場に膝をついて、深さのある絨毯に手を滑らせた。それはまるで、毛足の長い猫のように触り心地がよく、手の平に吸い付いてくるようだ。薄暗くてよく見えなかったが、あるところで指先に冷たく尖ったものが触れる。

 何だろうと思いながら拾い上げた千鶴は、それを月明りに照らしてみた。すると、それはきらりと星のような煌きを帯びて、千鶴の視線を釘付けにした。


「これって」


 千鶴はそれを見たことがあった。祖母がいつも右手の薬指に嵌めていた指輪だ。小指の先ほどもの大きさがあるダイアモンドの指輪で、幼い頃の千鶴は、いつもそれを憧れの眼差しで見つめていた。千鶴がそれを欲しがると、祖母は決まって「大きくなったらね」と言って、嬉しそうに微笑んでいた。

 なぜぞの指輪がここにあるのだろう。祖母が結婚指輪と同じくらい大切にしていたものだが、まるで打ち捨てられるようにして、床に放られていた。あの祖母が自分の大切なものを床に放っておくことなど、普通に考えてあり得ないと千鶴は思う。

 千鶴は疑問を覚えずにはいられなかった。かといって、誰かがこの部屋に足を踏み入れ、祖母の遺品に手を触れたとは考えにくい。祖母が生前、自分の手で落としたと考えるのが、最も自然だろう。

 あの日、祖母はこの場所に倒れていた――一瞬、千鶴の脳裏にある日の場景が浮かんだ。


「そうだ」


 それは五年前の記憶だった。祖母はこの家の、この部屋で倒れ、救急車で病院に運ばれていった。


「きっと、その時に落ちたんだ」


 いつにも増して青白い祖母の肌に触れると、酷く冷たかったことを覚えている。千鶴は無我夢中で電話に飛びつき、一一九番を呼び出したのだ。救急車はほんの数分で到着したが、一分一秒が、永遠にも思えるほど長く感じられていた。

 どうして今の今まで忘れていたのだろうと、千鶴は不思議に思った。倒れていた祖母を一番に見つけたのは、他ならぬ千鶴自身だったというのに。

 千鶴は手の平の上で祖母の指輪を転がした。ダイアモンドは月明りを浴びて美しく輝くが、千鶴にはその輝きがどこか悲しげに感じられた。今思うと、祖母の手の甲でも、なぜか物悲しげに輝いていたような覚えがある。

 ダイアモンドの指輪を握り締め、それを胸元に引き寄せると、千鶴は祖母に抱かれているような幻想を抱いた。背中に手を回し、大丈夫よと言って、慰めてくれているように感じる。

 右手の薬指だ。祖母はいつも、その指にダイアモンドを飾っていた。それを愛おしそうに撫でては、幸せそうに微笑していたことを思い出す。

 だから、千鶴は尋ねたことがあった。


「その指輪は誰かにもらったの?」

「そうよ。これはね、大切な人からもらった指輪なの」

「キラキラしてて、とってもきれい」

「そうね、とってもきれいだわ」


 祖母は祖父から贈られたものだとは言わなかった。昔の恋人から贈られたものなのだろうか。だが、何となく違うような気がすると、千鶴は考えている。

 祖母は祖父を心から愛していた。千鶴は祖父をほとんど覚えていないが、そうだと信じている。その証拠に、祖母は祖父との結婚指輪を肌身離さず、首から下げていた。心臓に近ければ近いほど、あの人を近くに感じられるからと、そう話していたのだ。

 千鶴は左手の指先で指輪を掴むと、右手の薬指にそれを嵌めた。考えるよりも早く、身体が勝手に動いていた。まるでそうすることを強いられているようだった。

 でも、少し大きすぎるかもしれない――そう思った次の瞬間、驚いたことに、指輪は千鶴の薬指にぴったりと吸い付いた。


「えっ、ちょっと――えっ?」


 薬指に吸い付くように形を変えた指輪を見て、目の錯覚だろうと千鶴は思った。指輪を慌てて外そうとするが、それはぴくりとも動かない。締め付けられるほどきついわけではないが、妙な違和感があった。


「やだ、待ってよ。外れないとか嘘でしょ」


 千鶴の顔から血の気が引いていく。背筋に冷や汗が伝い落ちた。親指、人差し指、中指でしっかりと掴み、引き抜こうとするが、指輪は根を生やしたように動かない。


「冗談じゃないってば」


 半ば泣きそうになりながらそう口にした時、千鶴はふとある変化に気づいた。指輪を美しく装飾しているダイアモンドの中で、何かがもやもやと煙のように渦巻いているのが見えたのだ。

 ほんの少し前までは、確かに無色透明だったはずだ――急いで窓辺に進み出ると、千鶴は月明りにダイアモンドを透かしてみた。すると、宝石の向こう側には小さな満月がいくつも見え、中央で燻っていた煙が、徐々に消えていくのが分かる。

 だが、あと少しで煙の晴れた向こう側に何かが見えそうだと思った瞬間、どこからか冷たい風が吹き込んできた。錯覚などではない。実際に、凍えるほど冷たい風が、吹き込んできている。その風は千鶴を絡め取ろうとするように、足元から身体を撫で上げ、髪をぶわりとまきあげた。

 千鶴は周囲を恐る恐る窺おうとするものの、膝ががくがくと震えて、身体が言うことをきかない。視線を、そろり、そろり、と彷徨わせる。この部屋は明らかにおかしく、どこか妙だと思った。

 祖母が亡霊となって現れたのだ。祖母を無視し続けた五年という歳月に、怒りを覚えているに違いない。冗談好きの祖母ならやりかねないことだと思いながら、千鶴はその場にぺたりと座り込んでしまった。腰が抜けたのだ。


「ご、ごめんね、お祖母ちゃん。私、どうしたらいいのか分からなかったの。だ、だから、今まで来られなかったのだけれど」


 どうしようもない言い訳が口をついて出る。しかし、祖母からの返答はない。千鶴も、本心から祖母がここにいるとは思っていなかったが、もしもということは、いつだって起こり得ることだ。


「お祖母ちゃんを忘れたとか、忘れたいとか、そういうことじゃないの。でも、お祖母ちゃんの話をすると、母さんが怒るから――」


 違う、そうじゃない、と千鶴は頭を振った。それはただの言い訳だ。母親を盾にして自らを正当化し、言い訳をしているだけだ。

 他者を言い訳の材料にしては駄目だと、千鶴は改めて思った。本当にここへ来たけれは、いつでもそうすることができたはずだ。そうすることができなかったのは、千鶴自身の弱さでしかない。


「ごめんなさい、お祖母ちゃん」


 怖いけれど、祖母に会いたいと思った。もう一度だけでいい、祖母の声が聞きたかった。久しぶりに芽生えたその感情は、千鶴の幼い頃の記憶を少しずつ蘇らせていた。

 もし今もまだ祖母が生きていたなら、自分はもう少しましな女子高生だったかもしれない。今日一日の出来事を話し、ともすれば溺れてしまいそうになる悩みを打ち明け、週末には二人でどこかへ出掛けてみたかった。祖母は誰よりも自分を理解してくれたはずだ。美味しい紅茶を飲みながら、多くの時間を、楽しく過ごせただろう。

 だが、それは千鶴の幻想でしかない。願望に過ぎないのだ。今では家族で祖母を思い出し、話に花を咲かせることもない。それは祖母にとっても、千鶴自身にとっても、悲しいことだった。


「大好きだよ」


 もし再会することができたなら、またあの世界のお話を聞かせてほしいと思う。あたたかくて優しい、穏やかで、愉快な人々の物語を。もう一度だけでいいから、信じさせてほしい。春や初夏の風が薫る、あの酷く魅力的な、おとぎの世界を。

 そのようなことを切に願いながら、千鶴は自らの肩を抱いて、大きく身震いをした。

 今は夏だというのに、部屋の中は雪山のような寒さだ。それを霊として居座っている祖母の仕業なのではないかと疑った千鶴だったが、視界の端にふわりと舞った白いものを見て、目を瞠った。それは信じられない光景だった。

 祖母の部屋に雪が降っている。いや、どこからか吹き出していると表現した方が正しいだろう。吐き出す息は白く、凍えるほどに寒い。

 あっという間に床を白く埋めつくす雪を見ながら、自分は夢でも見ているのだろうかと千鶴は考えた。それは触れると冷たくて、すぐに指先を熱くさせた。


「……夢、だよね」


 そうでなくてはおかしい。室内で雪が降るなどありえないことだ。そもそも、季節は夏で、窓の外には夏の大三角形と満月が――夜空に輝いてはいなかった。


「なっ、なんで? 何がどうなっているの?」


 千鶴は大急ぎで窓に張り付いた。ガラスが嘘のように冷たい。よく見ると、ガラス窓の四隅には薄く結晶が浮かび上がり、凍りついているのが分かった。結晶がダイアモンドに負けまいと、宝石のように輝いている。

 夢だ、これは夢だ――千鶴はそう言い聞かせながら、自らを落ち着かせようとした。

 窓の外は見渡すかぎりの銀世界だった。月は出ておらず、空は雪雲に覆われている。それなのに、周囲を見渡せるほどには明るかった。信じがたいことだが、どうやら森の中にいるようだ。雪がこんもりと積もった、モンスターのような木々が不規則に並んでいた。

 振り返ると、そこは間違いなく祖母の部屋だ。雪が一面を覆いつくしている以外は、見慣れた部屋だった。まるで夢と現実の狭間に立たされているような気分になる。

 千鶴は雪が吹きつけ、凍りかけている扉に目をやった。まだ数分しか経っていないというのに、取っ手には小さな氷柱が垂れ下がっている。

 祖母の部屋の中はあっという間に、屋根が倒壊した雪山の小屋を彷彿とさせる大惨事と成り果てていた。千鶴は棚に収められている本の心配をしたが、不思議なことに、それらはまったく濡れていない。

 今、現実の世界を生きている有澤千鶴は、すぐにここを出て自分の部屋に戻るようにと警告している。しかし、まだ千鶴の心の中に居座っている幼い頃の自分自身は、外の世界に興味津々だ。摩訶不思議な現象を目の当たりにしているというのに、目をきらきらと輝かせている。疑う気持ちは微塵もないようだった。

 好奇心の赴くままに自らの意思を抑制しない、素直だった頃の有澤千鶴が、ひょっこりと顔を覗かせる。

 心の中の檻に閉じ込められていた少女が、ここから出せというふうに扉を叩いているようだった。今の今まで眠っていたというのに、何の前触れもなく目を覚ましたかと思えば、千鶴の自由を奪い、従わせようとしてくる。

 この身体を乗っ取り、歩き出そうとする足を止められる術が、今の千鶴にはなかった。


「もうどうなったって知らないんだから」


 この期に及んで、千鶴は幼い頃の自分を盾にして、自分自身に言い訳をしている。だが、そうでもして自分を納得させなければ、心の中に潜んでいる少女の暴走は止まらない。

 しかし、このままの格好では凍えてしまうだろう。そう思いながら祖母の部屋を見回した千鶴は、寝室のクローゼットを開くと、部屋履きの靴とコートを取り出した。祖母と千鶴は体格もほとんど変わらず、靴もコートもぴったりのサイズだ。

 本棚の部屋に戻った千鶴は、雪が吹き込んできている暖炉の前に立った。風が刺すように冷たく、雪が矢のように鋭くなって頬をかすめていく。暖炉の奥に見えている暗闇は、やはり気味が悪く感じられるほどの漆黒だ。壁を隔てたすぐ向こう側に外界が見えているというのに、暖炉はずっと先まで続いているように感じられる。

 変なの、と冷ややかに考えている千鶴と、わくわくを隠しきれない幼い千鶴が、複雑に混在していた。

 何だかんだ言ったところで、こんなものは夢に決まっている。現実の自分はベッドで横になり、眠っているに違いない。それならば、構うことはないだろう。時間が過ぎていずれ目を覚ますのならば、何も躊躇うことはないはずだ。

 楽観的に考えることにした千鶴は、コートの襟元を手繰り寄せて風が吹き込まないようにすると、その場に身を屈めた。同じ姿勢のまま暖炉に頭を入れるが、顔に吹き付けてくる風と雪の痛みで表情を歪める。

 その時、ふと、千鶴は妙なことに気づいた。よく目を凝らしてみると、正面に見えていた闇が、ただの壁だったのだ。上を見ても光は差し込んでこない。煙突の先は雪で埋まってしまったようだ。

 部屋を埋め尽くさんばかりの雪がどこからやってきているかというと、それは、暖炉の薪をくべる場所だった。おかしなことに、そこにぽっかりと穴が開いていた。人一人が通れるくらいの幅しかないが、深さは五メートル近くある。

 何かロープのようなものがあれば――そう思いながら再び身を乗り出した時、千鶴は手前に梯子がかけられているのを見つけた。変に都合が良すぎると思ったが、これは夢なのだから、ご都合主義で当たり前だと思う。

 私を食べてと主張するクッキーや、私を飲んでと催促する小瓶がないだけ、少しは現実的なのかもしれない。それでも、木の根元に開いた穴ではなく、暖炉の穴を自らの意思でおりようとしているのだから、それはそれで滑稽な話だった。

 暖炉に背を向けてしゃがんだ千鶴は、左足を伸ばして梯子を探った。爪先はそれをすぐに探り当てる。左、右、左、と交互に繰り返しながら、千鶴は恐る恐る階段を降りて行った。下から吹き上げてくる風と雪に阻まれながらも、ゆっくりとではあるが、着実に地面へと近づいていく。


「う、わっ――」


 地面はもうすぐそこだ。そう思ったところで足を下ろすと、千鶴はバランスを崩して梯子から滑り落ちてしまった。身体に痛みや衝撃が走らなかったのは、新雪が深く降り積もっていたおかげだ。


「もう、なんなの、これは」


 雪の中に埋もれた身体を、もがきながら起こした千鶴は、コートの中まで入り込んできた雪を払い落とす。頭上を振り仰ぐと、祖母の部屋にある暖炉の穴が、とても高い位置に小さく見えていた。

 いつもの千鶴ならば、ここで踵を返していたことだろう。しかし、これは夢だと確信しているからこそ、何の躊躇いもなく外に足を向けることができる。

 梯子を降りていった先は、洞窟のようになっていた。触れた岩肌のごつごつとした感触がいやにリアルだと感じながら、千鶴はまるで虫のように、明るい方へ、明るい方へと向かって歩き出していた。

 ごうごうと耳元で風が吠え、少し息が苦しい。それでも前のめりになり、顔に吹き付けてくる風を腕で遮りながら、足を動かし続けた。

 洞窟の外に出ると、千鶴はようやく部屋の窓から見えた景色を目の当たりにすることができた。一面の銀世界には人間どころか、動物の足跡すら見当たらない。もこもことした樹氷が、霞んで見えなくなるずっと先まで続いている。


「うう、どうしてこんなに寒いの?」


 足元は膝の辺りまで雪に埋まっていた。洞窟の外は思っていたほど風は強くなかったが、その肌寒さは異常だった。大きく息を吸い込むと、鼻の中が凍るような痛みを覚える。千鶴がこれほどの寒さを感じたのは、中学校のスキー合宿で遭難しかけた時以来だった。

 しんしんと降り続く雪の中に足を踏み出し、しばらく進んだところで、千鶴は自分が歩いてきた道を振り返った。そこは見上げるほど高い崖になっていて、まるでここが世界の果てであるかのような出で立ちだ。こちら側に倒れてくるのではないかと思うほどの威圧感があり、この場から早く立ち去りたいという思いにさせる。雪で視界が悪く、崖の上に何があるのかまでは分からなかった。

 降り止まない雪と、時折強く吹く風を身体に浴びていると、千鶴は不意に人恋しさを感じた。意味もなく、無性に誰かに会いたくて堪らなくなる。

 千鶴は、今の自分が頼れるもの、心の拠り所となるものは、右手の薬指にある祖母の指輪だけだというふうに感じた。この世界の片隅に、ぽつんと取り残されたかのような心細さが、千鶴の足を前へ、前へと進ませていた。


「とりあえず、寒さをしのげる場所を探さないと」


 雪の中に埋もれてしまっているのか、辺りに道はない。膝まで埋まる深い雪の中を、ただあてもなく歩いて行くほかなかった。足を取られて何度も転んだが、砂のようにさらさらとした冷たい感触に覆われるだけで、ほとんど痛みはない。凍えて震えていた身体も徐々に熱を帯びはじめ、軽く汗ばむほどだった。

 洞窟を出てから、途方もない距離を歩いてきたような気がすると、千鶴は思う。肩が大きく上下するほど呼吸は乱れ、白い息がふわりと現れては、すぐに消えていく。

 風が止めば、そこは無音の世界だ。自分の心臓の音さえ煩わしく感じられる。息を止めて目を閉じると、身のすくむような恐怖が、背後から迫ってくるように感じられた。ここまで歩いてきた足跡は、既に雪に覆い隠されてしまっている。あの洞窟まで戻れと言われたところで、千鶴には無理だろう。


「……あれ?」


 少しだけ休憩をしようと木の幹に寄り掛かり、コートの袖で額の汗を拭っていた時だった。進行方向から左に逸れた木々の先に、ぽつん、と小さな灯りが見えたような気がしたのだ。このような雪深い森に人が住んでいる時点で驚きだが、これはただの夢なのだから、都合よく話が進んだところで誰にも迷惑は掛からない。

 何の躊躇もせず、その目に捉えた灯りを目指して進もうと決めた千鶴は、その場所で何が待ち構えているのかを想像することもしなかった。これは夢だからと楽観視するばかりで、疑いの気持ちを持ちもしなかった。

 自らの下した決断が、後々の自分自身を物語の渦中へ引きずり込むことになるとは、露ほども思っていなかったのだった。

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