第一章 夢と現実の狭間で

01.内緒のアイスクリーム

 深夜、有澤千鶴は酷い寝苦しさを感じて目を覚ました。喉が渇きを訴え、張り付くような不快感を覚える。冷たい飲み物を欲してベッドから抜け出すと、素足を爪先からフローリングの床にそっと下ろした。跳ね上げ戸をぼんやりとした視界で探り当て、屋根裏にある部屋から梯子で下っていく。

 がたっ、という微かな物音が、廊下に足が付くと同時に聞こえてきた。その物音は、無人のはずの祖母の部屋から聞こえてくるものだった。

 千鶴は廊下の手すりに指先をすべらせながら、そろり、そろり、と音をたてずに足を進める。廊下の突き当りには、月明りを浴びて、青白く浮かび上がって見える扉があった。それが、この五年間一度も開かれていない、祖母の部屋に続く扉だ。

 だが、その扉の向こう側から物音が聞こえてくるようになったのは、ここ数か月間の出来事だった。

 少し前、千鶴は祖母の部屋から不可解な物音が聞こえてくることを、家族に話したことがあった。もしかしたら、ネズミやテンが入り込んでいるのかもしれないと、そう思ったからだ。

 しかし、母親はそうとは捉えてくれなかったようだ。何を思ったのか、元々の猫目を更に吊り上げ、冗談を言うのはやめるようにと千鶴を叱りつけた。義父が割って入らなければ、一発や二発殴られていたのではないかと思うほどの剣幕だった。

 母親は恐らく、瞬時に昔の千鶴を思い出したのだろう。不可思議な第六感を働かせていたあの頃だ。それと同時に、千鶴の言葉が弟に悪影響を与えるのではないかと懸念したのだろう。弟はいつも千鶴の真似をしたがったので、祖母の部屋から夜な夜な物音が聞こえてくるなどと聞けば、一緒になって原因を探ろうとする可能性は大いにあった。

 千鶴は仕方なく口を噤むことにしたが、それより少し前に、音の原因を探ろうと祖母の部屋に侵入を試みたことがあった。だが、祖母の部屋の鍵を管理しているのは母親だ。あの母親が、祖母の部屋の鍵を素直に渡すはずもない。

 そこで千鶴は、母親の部屋にこっそりと忍び込み、鏡台やタンスの引き出しを探してみたことがあった。母親が仕事から戻るのは夜遅い。義父が保育所へ弟を迎えに行っている時間を使えば、誰にも知られずに侵入することができると考えた。

 結果、千鶴が鍵を手にすることはなかった。泥棒よろしく家探しをしているところに、忘れ物を取りに戻った義父が現れたからだ。その場は何とか取り繕ってごまかしたものの、以降、千鶴は母親の部屋に近づくこともできなくなった。

 それからも祖母の部屋から物音は聞こえ続け、千鶴の不信感は大きくなる一方だった。勘違いだと思うようにはしていたが、明らかに何者かが歩き回っているような足音や、低い話し声のようなものが聞こえたこともあった。

 それをおかしいと思ったところで、誰に相談することもできず、千鶴はただ口を閉ざして、悶々としていることしかできなかった。

 千鶴は大きくため息を吐き、祖母の部屋の前を通り過ぎた。なるべく足音を立てないように歩き、螺旋階段を下りて、静まり返っているリビングに足を踏み入れる。

 壁際の間接照明の電源を入れた。すると、淡い橙色の明かりが、リビングをやわらかく照らし出す。暗闇に慣れていた千鶴には、それさえも眩しく感じられ、目を細めて顔を顰めた。

 白い革のソファーが夕日のような色に染まっているのを横目に見ながら、千鶴は対面式のキッチンに回り込もうとした。カウンターテーブルの上には、遅くに帰る母親のために用意していた夕食が、今日も手付かずのまま残されている。千鶴はそれらにラップをかけると、何日か前に買い替えたばかりの新しい冷蔵庫にしまった。そのまま戸口から麦茶の容器を取り出し、グラスに麦茶を注ぎながら、壁掛け時計に目をやった。

 時計は深夜二時過ぎを指していた。

 明日――いや、今日は土曜日で、学校は休みだ。しかしながら、午前中から陸上部の活動がある。

 千鶴は短距離と高跳びの選手だったが、高校に入学してからは、未だ大会に出場したことがなかった。中学の時に負った怪我が原因だ。医者は既に完治していると話しているが、千鶴にはどうしても練習を再開させる勇気が湧かなかった。

 中学の大会ではそこそこの成績を収めていた千鶴に、顧問や部の先輩たちは、入部する前から過度な期待を抱いていたようだった。だが、千鶴は跳ぶことは愚か走ることもできず、多くの人の期待を裏切り続けている。

 同じ部の生徒たちは、今の千鶴のことなど、ただのマネージャーとしてしか見ていないはずだ。役立たずの期待外れ、能無しで、いてもいなくても変わらない、その程度の存在でしかない。

 違う。本当の自分は、こんなものではないはずだという漠然とした思いが、余計に千鶴を苦しめていた。本当は走りたい、跳びたいと渇望しているのに、身体が強張っていうことをきかない。いっそのこと辞めてしまおうかと、そう何度も考えたが、結論は先延ばしにされたままだった。

 自分は所詮臆病者なのだと、千鶴は思う。跳ぶことも、走ることも、やめることさえできないでいるのだから。

 祖母がいなくなってから、何もかもが変わってしまった。千鶴はただの抜け殻になって、人間という器だけが、奇妙に独り歩きをしている。夢や希望、情熱、熱意――そうした感情も、祖母の死と共に消えてしまったのだ。幼い頃は確かに持っていたはずの、煌いていた感情と一緒に。


「おや、千鶴ちゃん」


 どのくらいの時間を物思いに耽っていたのか、背後から聞こえてきた穏やかな声で、千鶴ははっと我に返った。

 突然の呼び声に、びくりと肩を震わせて振り返ると、そこには義父が立っていた。義父は目を丸くして千鶴を見つめ、不思議そうに首を傾げている。


「雅さん、こんな時間にどうしたんですか?」

「リビングが明るかったから、また美優さんが消し忘れてしまったのかと思ってね」


 美優というのは千鶴の母親の名だ。美しく、優しい。母親は確かに美しかったが、優しいというわけではなかった。少なくとも、千鶴は母親から優しくしてもらったという思い出が、ほとんどない。


「君こそ、どうしたんだい? 眠れないの?」


 それでも、美優はこの雅という名の男と付き合いはじめたことにより、以前に比べると険が取れ、丸くなったことは確かだった。しかし、結婚をして弟が生まれると、また昔のヒステリーが蘇ってきてしまった。

 千鶴は自分の母親よりも、この血の繋がりがない義父の方が、ずっと好きだった。


「ごめんなさい、お仕事の邪魔をしてしまって」

「いや、いいんだよ。一休みしようと思っていたところだったんだ」


 そう言って優しげな笑みを浮かべながら、雅はキッチンに入っていった。すぐに冷蔵庫を物色しはじめるが、ふと思い出したように冷凍庫を開くと、アイスクリームのカップを取り出している。


「後で食べようと思って隠しておいたんだ。悠に見つかると、あっという間になくなってしまうからね」


 悠、というのは、千鶴の弟のことだ。今年で四歳になる。父親譲りのくりっとした大きな目は、透き通るような美しい青色をしていた。子供は瞬く間に成長する。時々、千鶴が驚くような大人びた口を利くこともあるほどだ。


「ちぃちゃん」


 悠は千鶴のことをそう呼んだ。


「ちぃちゃんばっかり頑張らなくていいんだよ」


 母親の美優は仕事で忙しく、義父の雅に頼ることもできずにいた頃、心身ともに疲れ切っていた千鶴に向かって、悠が言ったのだ。千鶴はその言葉に唖然とした後、強く胸が締め付けられたのを今でもよく覚えている。

 朝は誰よりも早く起きて、食事と弁当の支度をしていた。洗濯機を回し、洗濯物を干してから、学校に向かった。帰りはスーパーマーケットに寄ってから、弟を迎えに行った。帰ってくると洗濯物を取り込んで、すぐに夕食の支度に取り掛からなければならなかった。

 悠は、急に泣き出してしまった千鶴の頭を、慰めるようにゆっくりと撫でた。そして、千鶴が泣き止むまでずっと、大丈夫だよ、と言って励まし続けてくれたのだ。 

 どれほどの歳月が過ぎ去ろうとも、決してあの日のことは忘れないだろうと、そう千鶴は思っている。


「チョコとイチゴがあるけど、どちらがいい?」


 どちらのアイスクリームも千鶴の好物だった。

 美優は甘いものが好きではないので、お菓子の話題が取り上げられることは少ない。その反動だろう、千鶴と雅が二人きりになると、甘い食べ物の話題に花が咲いた。

 雅は、子供の心を残したまま、大人になったような人だ。とても豊かで独特な世界観を持っている。職業は絵本作家だ。編集の仕事をしている美優と出会い、担当と作家という関係から、妻と夫という関係に辿り着いた。

 空想を嫌う美優の再婚相手としては、随分不釣り合いな取り合わせであると、千鶴はそう思っていたことがあった。それを指摘し、母と大喧嘩になってからは、大人しく口を噤んでいる。

 千鶴は自分の本当の父親を知らない。だが、美優にはこのくらい寛容で、海のように心が広い人でなければ、長続きはしないだろうと思っていた。ましてや結婚など、千鶴が男だったら考えもしないはずだ。


「それじゃあ、チョコレートを」


 差し出された両手にカップとスプーンが置かれ、ひんやりとした冷気が指先を掠める。真夜中の甘い誘惑のことを想像するだけで、千鶴は頬が溶けるようにほころぶのを感じていた。

 雅はソファに座ると、嬉々としてアイスクリームの蓋を外している。千鶴はその姿を見て笑いながら、向かい側にあるソファに腰を下ろした。にこにこと機嫌が良さそうにスプーンを口に運んでいるいい歳の男を、密かに可愛らしく思う。


「今はどんな本を書いているんですか?」


 甘いものを口にいて饒舌になっていた千鶴は、珍しく自分から話しかけていた。アルコールに酔うという感覚は、この高揚感に近いものがあるのではないかと千鶴は考えている。

 千鶴は雅の書く絵本が好きだった。水彩絵の具や色鉛筆などで彩られた、淡く鮮やかな世界が、実際に世界のどこかに存在しているのではないかと思わせる。偶然にも、幼い頃に祖母から聞かされていた物語と、同じ雰囲気を感じさせることもあった。

 千鶴の中で失われようとしていた感情が徐々に蘇り、白黒で無音だった世界に色と音が蘇ってくる――そのような気持ちにさせてくれるのだ。はじめて会ったその日から他人のように思えなかったのも、雅から滲み出ている穏やかな人柄が、祖母の話に出てきた人物と重なって感じられたからなのだろう。


「内緒だよ。書き終えるまでは美優さんにだって秘密なんだから」

「心配しなくても誰にも言いませんよ」

「千鶴ちゃんの楽しみも半減しちゃうだろう?」

「雅さんの書くお話は何度読み返しても面白いです」

「そう言ってもらえると素直に嬉しいよ、ありがとう」


 美優は絵本など子供じみていてつまらないものだ、大人が読むようなものではないと言う。それならばなぜ、美優は雅を再婚相手に選んだのだろうか。その子供じみたつまらないものを創造している人を選んだのは、他ならぬ美優自身だというのに。

 雅と話をしている一時の間だけ、千鶴は祖母の部屋から聞こえてくる物音のことを忘れることができた。まるで、自分が幼い頃に戻ったかのような、生き生きとした思いが蘇ってくるかのような、そうした気持ちにさせてくれる。

 雅の前では、無理に大人ぶる必要がなかった。等身大の自分でいさせてくれるからだ。

 本当は弱いくせに虚勢を張り、見栄と自尊心に支配されながら、外の世界で生きている。他人の評価が恐ろしくて自分をさらけ出すこともできず、己を偽って生きていた。

 恋愛感情だとか、愛情だとか、そうした俗っぽい思いではなかった。雅には、祖母と同じ匂いを感じたのだ。ただ、自分はこの人を好きなのだと、千鶴は思い知らされた。

 悠との一件があって以来、雅が僕を頼ってほしいと言ってくれた日から、千鶴はこの人に対してだけは、虚栄心を捨てようと誓った。きっと敵わないだろうと思ったからだ。祖母に敵わなかったのと同じように。


「何か悩み事でもあるの?」

「え?」

「また何か考え込んでいるみたいだから」


 雅の声を聞いて、千鶴は伏せていた顔を上げた。いつものように優しく微笑んではいるものの、眦を下げた心配そうな面持ちを目の当たりにすると、少し申し訳ない気持ちになる。


「別にたいしたことではないんです」

「学校のこと?」


 首を横に振る千鶴を見て、じゃあ、と雅は続けた。


「お祖母さまのことかな?」


 的を射た雅の指摘に、千鶴は躊躇いながらも、小さく頷いて見せた。

 雅はやはりとでも言いたげな顔をした。ソファから身を乗り出すと、手に持っていた空のカップとスプーンをテーブルに置く。

 祖母と雅が顔を合わせたことはない。美優が雅の担当についた時期を考えると、祖母の死は、それから一年程前のことになるからだ。

 だが、祖母ならばきっと、雅を気に入ったはずだと千鶴は思う。自分の気に入る相手を娘が連れてくるなど、万が一にも起こり得ないと思っていただろうが、良い意味での誤算だ。


「ねえ、お祖母さまはどのような方だったの?」

「へっ?」


 その唐突な問いに、千鶴は思わずすっとんきょうな声を上げてしまった。今までに一度として、雅から祖母について訊ねられたことなどなかったからだ。

 千鶴がそれほど驚いて見えたのか、雅は前のめりになっていた姿勢を起こすと、慌てたように付け加えた。


「もちろん、無理に話してほしいとは言わないよ。ただ、美優さんも千鶴ちゃんも、あまりお祖母さまのことを話したがらないから。ほら、写真だって一枚も飾っていないし」

「わ、私は別に、話したくないわけではなくて……」

 千鶴は思わず言いよどむが、雅は何も言わず、続く言葉を待っている。

「……か、母さんが、お祖母ちゃんの話をすると、怒るから」

「美優さんはお祖母さまを嫌っていたの?」

「自分ではそう言っているけれど、本当のところは、私にも分かりません」

「君はお祖母さまを大好きだった?」


 その口振りが、まるでそうであってほしいと願うような、切実な響きを帯びているように感じる。しかし、そのようなことは考えるまでもないだろう。千鶴は掛け値なしの笑みを浮かべ、大きく頷いた。

 嫌えるはずがないのだ。幼かった千鶴にとって、祖母がすべてだった。大好きだった。今でも千鶴の気持ちは変わっていない。


「お祖母ちゃんは優しくて、楽しい人でした。とても聡明で、いつも綺麗にしていて。私の自慢のお祖母ちゃんです」

「そうか。素敵な人だったんだろうね」

「雅さんなら、お祖母ちゃんと気があったのではないかと思います。私によくお話をして聞かせてくれたんですよ」


 それは、現実世界のようなリアルさを感じさせる、不思議な物語だった。

 勇猛果敢な盲目の騎士。

 大きな犬の姿をした人の言葉を話す城の番人。

 町外れに住む薬草師の先生。

 千年も生き続けているという少年。

 白い花の咲き誇る丘。

 樹齢数千年の古木にまつわる物語。

 祖母は数え切れないほどの物語を千鶴に与えた。本当に存在しているかのように語られる人や場所、そして動物たち。まだ何も知らず、真っ白だった千鶴には、それらが真実のように思えていた。世界の最果てには、そのような国があると、心から信じていたのだ。

 祖母は、物語に登場する者たちのことを友人であるかのように話し、実際に行ったことのある場所であるかのように語った。耳で聞くだけではなく、肌で感じることのできる物語だった。

 千鶴は物語に登場する者たちのことも、大好きだった。だがいつからか、それらがただの作り話であることに気づいてしまった。子供は時に現実的で、残酷なものだ。昨日までは確かに信じられていたことが、たった一夜明けるだけで、些末なことのように思えてしまう。

 クリスマス・イブの夜にやってくるサンタクロースが、本当は両親や祖父母だったと知ってしまうのと同じように。

 美優は、千鶴が早く大人になることを望んでいた。だからこそ、千鶴は祖母が与えてくれた世界の扉を、早々に閉ざしてしまったのだ。今になって考えてみると、とても愚かな洗濯をしてしまったものだと、千鶴は思う。

 祖母の物語を信じることと、受け入れることは違うのだ。だがしかし、千鶴には、そのどちらも選ぶことができなかった。拒絶することでしか、その世界から心を切り離す術を知らなかったのだ。

 あまりに魅力的な世界の最果てから逃れたつもりでいたが、本当は、今でも囚われ続けているのかもしれない。しっかりと封じたはずのパンドラの箱が開いてしまえば、あとはもう、止めどなく溢れ続けるだけだ。箱の底に残されるものが幸福か、絶望かなど、今の千鶴には分からない。

 自らの祖母への思いに感極まり、千鶴が口を噤んでしまうと、正面に座っていた雅が小さく息を吐き出した。それは何かに呆れているようなため息ではなく、何かを決心したような、決意のようなものが感じられる吐息だった。


「ちょっと待ってて」


 自分の膝に手を置いて立ち上がった雅は、そう言うと仕事部屋に戻っていった。

 千鶴は、しんと静まり返ったリビングが何となく居心地悪く感じられ、何度か座る格好を変えた後で、すっくと立つ。テーブルの上のごみとスプーンを取り、明日の朝になって美優や悠に見つからないよう、徹底した後片付けを行った。美優はちょっとした変化も見逃さないのだ。魔法のような能力で違和感を嗅ぎつけ、千鶴を何時間でも問い詰めるだろう。


「ずっと前から千鶴ちゃんに渡そうと思っていたんだけど、なかなか機会がなくてね」


 仕事場から戻ってきた雅は、そう言いながら千鶴の傍までやって来る。

 濡れた手をタオルで拭いていた千鶴は、自分よりもずっと背の高い雅を見上げ、小首を傾げた。


「渡せるって、何をですか?」

「これだよ」


 はい、と差し出された手を訝しげに見やり、千鶴は雅の顔色を窺いながらも、自らの手の平を見せる。すると、雅は反対の手で千鶴の手を支え、その上にぽとりと何かを落とした。冷たい感触と共に僅かな重みを感じて、千鶴は手の平に転がったそれを見下ろした。


「あの、これは……?」


 それは、一本の古びた鍵だった。全体的に黒くくすんでいるが、銀で出来ているということは分かる。よく見ると不思議な模様が細工として彫り込まれているようだ。文字のようなものもあるが、何と書いてあるかまでは分からない。従来の鍵とは違った、まるで骨董品か何かのようでもある。


「多分、それがお祖母さまの部屋の鍵だよ」


 驚きに目を見開いている千鶴を見て、雅は少しだけ困惑しているように笑った。


「寝室に忍び込んでまで探していただろう?」

「でも、母さんに見つかりでもしたら」

「大丈夫だよ。美優さんをなだめるのは得意だからね、心配はいらない」


 千鶴は、関節が白く浮き上がるほど強く、鍵を握り締めた。その様子を目の当たりにした雅は、目を細め、千鶴の細い肩に手を乗せる。手の平が触れた場所から、雅の優しさが身体中にじんわりと行き渡っていくようだと、千鶴は感じた。


「お祖母さまが亡くなって、もう五年も経つんだ。そろそろ気持ちの整理をつけてもいい頃合いなのだと思う。君だってもう子供ではないのだし、美優さんだって分かってくれるはずだよ。彼女も、今のままではいけないと感じているはずだ」

「……母さん、すごく怒ると思いますよ」

「平気だよ。美優さん、僕には甘いから」


 ふふ、と口許を隠すようにして笑ってから、雅は壁掛け時計に目をやった。もう間もなく、時刻は三時を過ぎようとしてる。


「さて、僕はそろそろ仕事に戻ろうかな」


 雅はそう言うと、これは二人だけの秘密だと釘を刺すように、細長い人差し指を唇に添えた。

 千鶴は相変わらず、毎日のように、なぜこの人が母との結婚を望んだのだろうと、不思議に思ってしまう。雅はあまりにいい人過ぎて、こうして対峙していると、時々不安になった。


「あの、雅さん」


 雅が仕事部屋の扉に手をかけた瞬間、千鶴はその背中を呼び止めていた。振り返った雅は、まっすぐに千鶴を見つめている。


「そ、その……ありがとう、ございます」


 千鶴はどのように言ったものかと考えたが、結局は、それ以外の言葉が見つからなかった。その言葉を受け取った雅はすうっと目を細め、ゆっくりと口角を持ち上げると、優しく笑った。


「どういたしまして」


 その優しげな面差しを見ていると、千鶴はやはり、祖母と同じ何かをこの男に感じてしまう。あたたかく、朗らかで、心を搔き乱されるような衝動のようなものを、確かに感じるのだ。


「……おやすみなさい、雅さん」

「おやすみ、千鶴ちゃん。よい夜をね」


 いつもと同じ口振りでそう言った雅の姿が仕事部屋の中に消えても、千鶴はしばらくの間、同じ場所に立ち呆けていた。手の平には、一本の古びた銀の鍵を、強く握り締めて。

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