生きていない、死んでいないだけの日々

 このタイトルでここに公開することが適切なのか、ということは悩んだが、備忘録として、そして私と同じような心境、状況の人がこの文章を読んで共感したり、ひょっとしたら楽になったりするかもしれない、という期待も込めて近況を記しておこうと思う。


 私は自殺しない(出来ない)、と決めている。

 その理由は今まで散々書いてきたが、それでも自殺したくならないとは言っていない。

 死にたいけれど死ねない理由があるから生きているだけなのだ。


 でも、ここ最近、本当に私は沈みに沈み、新たな病名も追加され、いよいよ生きづらくなった。

 一週間のうち、一歩も屋外に出ていない日の方が多い。平均起床時間が16時~17時という人間として終わっている日々を送っている。


 死ねない理由はある。でも生きる理由がない。

 死んではいない。でも、生きてもいない。


 そんな日々。


 最近、ネットで「無敵の人」というワードを見かける。失うものが何もない人間を指すスラング的な言葉だ。

 失うものが何もないゆえに、社会的な信用が失墜する事も恐れないし財産も職も失わない、犯罪を起こし一般人を巻き込むことに何の躊躇もしない。

 そんな「無敵の人」。


 私にはまだ失うものが残っているし、人を傷つけたい願望もない。「無敵の人」ではないけれど、それでもそこに肉薄する恐怖は感じる。

 そうはなりたくない、と思うけれど「生きていない」とだんだん、だんだん、その境地がひっそりと足音を立てて近づいてくる……のだ。

 それは私の気のせいではないと思う。


 今はまだ元気な両親がいなくなったら? もう高齢の犬のマロンが虹の橋へ旅立ってしまったら?

 今はまだ食事や遊びに付き合ってくれる友人がいるけれど、社会を離れてからだんだん会話がかみ合わなくなってきた。私はほぼ無職。友人たちは職場を持ち、自分の伴侶を持ち、子供を成し……

 例えるなら、私はもう更新されることのないOSを積んだパソコンのようなもので、もっているデータベースは古臭く、穴ぼこだらけ。

 対する友人たちは社会の中で、自身が築いた家庭の中でいつも自分をアップデートすることを課されている。現役で居続ける、ということはそういうことだ。


 人と比較しても何もならない。わかっているのだ、すればすれだけ苦しくなるだけだ。


 それでも、今の自分を客観視するために「他者」という物差しを使うと現在の自分の痛さ加減は如実に表れる。


 アップデートされない古臭い化粧や服。持ち物。

 アップデートされない知識。技術。知見。

 アップデートされない価値観。人間関係。


 諦めたら楽になる、アップデートされなくてもいいじゃん、と開き直った時期もあった。

 でも、いざ、諦めてみたら苦しくなることばかりだ。

 かといってもう自分が普通にフルタイムで働けないのはわかっている。

 変に足掻いても、病気が再発して自分や家族の首を絞めるだけなのもわかっている。

 大体自分をアップデートするための費用が年金暮らしの自分のどこにある? わかっている。


 わかっているけれど、涙は溢れる。そんなひりついた痛みを感じるときにだけ、生きていることを実感する。


 眠ることしかできない私の傍に犬のマロンの温もりがある。

 失いたくない。失うつらさは知っている。

 マロンを失うくらいなら自分がいなくなりたい。

 そして、今なら私がいなくなることにほっとするより泣いてくれる人がいるだろうから、今のうちにいなくなりたい、とも思ってしまう。


「どこにも行けない道もあるのね」


 これは、とある小説の名台詞である。犯罪を犯した女がタクシーに乗って、どんどん山奥に入っていく。

 そして、山奥の小道で運転手に言われる「引き返しましょう。この小さな道に続きはありません」と。


 どうしたらいいか、わからない。

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