❷ 天使の悪手か悪魔の妙手か?
「え?」
あまりにも唐突で、しかも恐ろしく
光平は、いかにも良いアイデアを思い付いた、という顔をしている。
「作れなければ本物を使えばいいじゃない。きっと僕はもうすぐ死ぬ。そうなる前に僕の脳を使ってみてほしいんだ。」
「バカなこと言ってんじゃねえよ。」
光平の申し出に哲平は驚いたが、科学者の習性なのか、その可能性について考えてしまった。
「だめだめ。そんなことは倫理委員会が許すはずがない。……絶対にな。」
哲平は、俺が、とは言わず他人を引き合いに出した。
「そうよ。死ぬなんていっちゃだめ。あきらめないで最後まで病気と闘いましょ。」
可南子も口を添える。
「可南子さん。僕の身体は病気じゃない。障碍なんだ。つまり、絶対に治らない。だから……、そう、闘う方向性を変えてみたいんだ。」
光平の懸命な説得が始まる。
「このままじゃ人類全体が死に絶える。そうなる前にここを出る算段を打ったほうが建設的じゃないか。僕だって、何も遺さないで、ただ死んでいくのは嫌なんだ。僕は誇りある死に方をしたい。」
「光平さん、病気と闘うのだって十分立派よ。誇っていいのよ。」
可南子も負けてはいない。
「光平。君が脳を提供しても、君の意識は死んだままなんだ。だから、そんなことをしても君にとって無駄なことだ。ましてや、コンピュータにつなげたところで、機能するかどうかわからんよ。」
哲平も懸命だ。ただ、必死な大人たちをしり目に光平はひどく落ち着いていた。
「そんなことはないよ。叔父さんたちだってリンカーをつけているじゃないか。脳と生態型コンピュータは同じ理論で作られているから、脳波で動かせるんだ。科学者なら、仮想だけで語るのはおかしいよ。とにかく実験してみてよ。」
リンカーとは脊髄の神経に接続したケーブルが首から出ているものである。ケーブルの先にはジャックがついていて、生体型コンピューターの制御には欠かせないものである。
「そいつあ、とんだマッドサイエンティストじゃねえか。確かにお前の言うことには一理ある。でも俺もそこまで落ちぶれちゃいねえよ。悪かったな、光平。」
この時は哲平の中の
結局、我に返った光平が
「ごめん。僕のわがままだった。」
そう矛を収めて終わった。
「ありがとな、気い遣ってくれてよ。俺の方が『お見舞い』されるたあざまあねえや。」
哲平も笑った。しかし、光平はいずれ、再びこの話を持ち出してくるだろう、哲平も可南子もそう思った。
確かに、哲平にとっても光平のこの提案はまさに「悪魔のささやき」であった。 実は脳を人体から取り出して利用することは既出の技術であった。前世紀より死刑囚は脳を摘出され、刑務所から持ち出されて実験に供されていた。それが現在の生態型コンピューターの開発の礎となっていたのだ。
この技術の確立がもう100年早ければ、飛んでくるミサイルに100発100中で当てる『対ミサイルミサイル』もとっくに実用化できたはずで、核戦争も間違いなく起らなかっただろう、と主張する科学者もおり、哲平もそう思う一人だった。倫理委員会は生きた脳を手にするためにどんな悪事を犯すことも辞さない犯罪組織から人々を守るための組織でもあったのである。
それから哲平は何度か 光平を見舞ったが、互いにその話題を持ち出すことはなかった。事態が急変したのは冬の始まりを告げる10月も終わりの頃であった。
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