赤ちゃんの散歩日和

 赤ちゃんが泣いていた。それを聞いた乳母車を後ろから押して歩いていた母親がピタリと足を止めた。母親は乳母車の車輪のストッパーをかけ、赤ちゃんをあやすために正面へ回り、目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。


「あらあら、どうしたの。おしっこしたいの?」


 母親は慌てずゆっくりと声をかけた。何度も似たような状況を経験しているため、慣れているのだ。


「うぇーん……ひっく……自由が……自由が欲しい……ッ!」


 赤ちゃんはしゃくりあげながらも、絞り出すような声を出した。

 母親はそれを聞いて少し困惑した表情をしながら、やさしく言い聞かせるように答えた。


「今はお外だから、がまんしてね。お家に帰ったら、好きにしていいからね」


「否……ッ! 今、今自由になりたいのだ……ッ! 今でなくてはならないのだ!!」


 赤ちゃんはすすり泣きながらも、そう叫んだ。


「どうして今じゃなきゃだめなの?」


 母親は質問をした。


「雲一つない青い空、燦然さんぜんと輝く夏の太陽……! スカッとした晴れ模様。快晴だ。陽の光が地表を温め、生命活動を活発にしてくれる……! そして、我輩の身体に纏わりつくようなジメジメとした湿気はなく、わずかに吹くそよ風が暖められた空気を冷やし、心地よい大気を作り出している……! 更に、平日で人も少なく、人混みに煩わされることもない……! 実に素晴らしい日ではないか! このような好条件の揃った日は中々ないだろう。絶好の散歩日和だ。もしかしたら、この日を逃せば我輩が生きている間にはもう二度とお目にかかれないかもしれない。だから、今日、この瞬間、神に祝福されたこの時間を、我輩は味わいたいのだ! 頼む、どうか我輩を窮屈な乳母車から解放してくれ!」


 赤ちゃんは、綺麗なガラス細工のように潤んだ目を母親に向けて言った。母親は赤ちゃんのあまりの切実さにますます困惑した様子で、彼を見返して言った。


「うーん……そうね。たしかに散歩日和だわ。こんないい日は中々ないかも」


「そうだろう! 早く、我輩を……」


「でも、一つ問題があるの」


「何だ。どのような問題があるのだ。教えてくれ!」


 赤ちゃんがそう訊ねると、母親は一息吐いて、しゃがみ込んでいた足をゆっくりと立たせて答えた。


「あなた、まだ歩けないでしょう? 流石にハイハイでお散歩は危険すぎるわ。だから、我慢しなさい」


 赤ちゃんはそれを聞いて衝撃を受け、あんぐりと口を開けて目を丸くした。


「な、なんだって……しかし……いや、そこをどうか……我輩、歩くから……だからなんとか……頼む、後生だ!」


 赤ちゃんは必死で食い下がるも、母は残念そうな顔をして、乳母車の後ろへ戻っていった。


「ダメなものはダメ。もっと大きくなってからね。わかった?」


 母親はきっぱりと言い放った。

 赤ちゃんは渋面を作ったかと思うと、また声を上げて泣き始めた。


「無念! 無念! 無念ッ――!!!」


 母親は赤ちゃんの鳴き声を意に介さず、乳母車のストッパーを外して言った。


「帰ったらおいしいミルクを作ってあげるから、泣き止みなさいねー」


「無念——ッ!!」


 赤ちゃんはすぐには泣き止まなかったが、母親は構わずに乳母車を押して帰路についた。そのうち疲れてしまったのか、家に着く前には泣き声は聞こえなくなっていた。

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