カメムシの礼儀
「おい」
どこからか声がした。低く頭に響くような、聞いたことのない男の声だ。突然話しかけられたので、僕は驚いてビクッと反応した。
僕は周囲をぐるりと見渡した。声の主を探すためだ。だが、とくに変わった様子はなかった。いつも通りの僕の部屋。右を向けば窓がある。今は夜なので、カーテンが閉め切ってある。初夏で日中は少し暑くなってきたとはいえ、夜は涼しい。わざわざ窓を開ける必要はないので、窓まで開ける必要はなかった。左を向けば、少し離れたところに洋服箪笥。後ろには本棚。本だけではなく完成させたプラモデルなども飾ってある。そして、正面にはパソコンのモニターと、キーボードがある。僕はパソコンを使って作業をしていたのだ。
声の正体が気になって、作業が手につかなくなった。この案件の締め切り近いのに、なんてことだ。僕は若干イライラしつつ、もっと詳細にあたりを見回す。何かわかりづらいところに声の主が隠れているのかもしれない。
「おい」
そのとき、また低い声がした。もしかしたら何か別の音を誰かの声と聞き間違えたかと内心思っていたが、今回は間違いなく、はっきりと聞こえた。だが、肝心の声の主は見つからなかった。
「聞こえてるのか? ここだ、ここ」
僕は三度目の声で、ようやくその姿をとらえた。
それは僕の手の甲に止まっていた、こげ茶色のカメムシだった。
「うわっ!」
僕は驚いて、飛び上がった。
「うおっ、急に動くな。びっくりしただろう」
カメムシは冷静な口調で言った。
びっくりしたのはこっちだ。なんでこんなところにカメムシがいる。それ以前に、どうしてお前は人の言葉を話しているんだ! 僕はカメムシに対して心の中でこう叫んだ。
「何って、見りゃわかるだろう。我輩はカメムシだ」
カメムシは短い触覚をピコピコ動かしながら言う。
「それはわかるよ! どうして虫がしゃべっているんだ、ってことだ!」
「ムシがしゃべって何が悪い」
「いや悪くないけど! フツー虫はしゃべらないだろ!」
「いや、どうかな……? 実はムシも普段は黙っているが、本当はウラでみんなしゃべっているのかもしれんぞ?」
そんなわけあるか。ひょうひょうとかわすカメムシを今すぐ叩き潰したくなる衝動にかられるが、僕はそれをグッとこらえた。コイツを叩き潰したら、部屋が臭くなってしまう。
「そもそも、どうやってこの部屋に入って来たんだ。窓は閉め切ってるし、玄関を開けるときお前みたいなのが入ってこないようにいつも気をつけてるんだぞ」
「我々を甘く見てもらっては困る。少しのスキマさえあれば、我々の平たい身体で忍び込むのは造作もないことだ」
カメムシの表情は小さすぎてわからない。だが、さぞ得意げな顔をしているのだろう。ムカつく。僕は少し不愉快な気持ちになっていた。
「で、お前はどうしてこんなところに入ったんだ。何でわざわざ話しかけた?」
話せる、話せないの話をしていると埒が明かなそうなので、話題を変えた。どうせ追求してもはぐらかし続けるのだろう。話が進まない。それより、コイツの要件を聞く方がまだマシだろう。
「イライラしとるな? そうか。そうイライラするな。手短に話そう。俺がこんな家に入ったのは、わけがあるのだ」
「こんな家……」
僕はカメムシが嫌いだ。臭いし、羽音がうるさいし、こうやって不意打ちのように突然家に入ってくる。さらに、人語を話しても我が家をこんな家呼ばわりすることも今わかった。要するに、人間の礼儀というものを知らない。だから嫌いだ。
「……わかったからさっさと話せよ。用が済んだらさっさと出ていけ」
僕はぶっきらぼうにカメムシに言い放った。
「それは無理だ」
カメムシはすました顔で言った。
「はぁ!?」
「何故なら、我輩の頼みというのはほかでもない、しばらくこの家にかくまってもらいたいからだ」
「なんでだよ!」
カメムシが今ここに止まっているのも嫌なのに、家にかくまってくれと言う。そんなのダメに決まっているだろう。絶対にごめんだ。
「どうか頼む」
カメムシは土下座をするように姿勢をかがめた。コイツは人間の礼儀を知っているのか知らないのか、どっちなのだろう。
「イヤだよ! さっさと帰れ!」
「そう言うと思った。だが、貴様にその選択肢はないのだ」
どういうことだ、と僕は一瞬考える。こいつは何を言っているんだ。カメムシの分際で、人間を脅してくるとは。一体何をするつもりだ。
カメムシは言葉を続けた。
「我輩はここで臭いをまき散らすことができる。このチンケな部屋に充満するくらいのな。貴様ら人間は、この臭いが嫌いなのだろう? ワハハそりゃそうだろうな、我々もこの臭いが大嫌いだからな、そうに決まっている」
ぐぬぬ、それは困る。カメムシの臭いは中々落ちない。そんなことされたら、ここに棲めなくなってしまう。仕方ない。僕はぐっと歯を食いしばって、一歩退くことにする。
「……で、どうしてかくまってほしいわけ」
「話が分かる人間で助かるよ。実はな、我々の巣に殺虫剤を撒かれてしまってな」
「で、住めなくなったのか」
「そうだ。だから次の巣を探すまで、ここに住まわせてほしい」
カメムシは触覚をぴょこぴょこ動かしながら言い、
「外だと更なる天敵に襲われるからな」
と続けた。
僕も殺虫剤を撒いてやろうか、と思った。しかし、あいにく殺虫剤は切らしている。その間に臭いをばらまかれたりしたら敵わない。
「……わかった。置いてやる。ただし、僕に迷惑をかけるなよで、用が済んだらさっさと出て行けよ」
直後に僕の肺の奥からため息が自然に出てきた。しゃべるカメムシとの同居生活……考えるだけでうんざりする。
「ありがとう……! 恩に着る」
カメムシは意外と素直に僕に感謝した。彼にとっては、切実な願いだったのかもしれない。何せ脅しをかけてくるくらいなのだから。
「よし、お前ら! もう出てきてもいいぞ! ここがしばらく我々の家だ!」
「え?」
カメムシが号令をかけるように叫ぶと窓の隙間から、箪笥の下から、様々なところからおびただしい数のカメムシがわらわらと這い出してきた。
「やったね、ありがとうお父ちゃん!」
「もうお外の天敵に怯えなくていいのね!」
「わーい! わーい!」
四方八方から歓喜の声が上がった。僕は唖然として、言葉を失った。
床を覆う茶色い群体。僕はただ口をパクパクしながらそれを眺めるしかなかった。もう嫌だ、という感想すら、この瞬間には出てこなかった。
この一件以来、僕は部屋に殺虫剤を常備するようになったのだった。
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