ドクターフィッシュ

 僕の肌は乾燥肌だ。冬になると、全身の皮膚が乾燥し、まるで荒野のようにカサカサになり、とても痒い。でも、痒いからといって掻いてしまうと皮膚は赤くなり、粉をふき、ますます痒くなってしまう。そして、うっかり爪が伸びている状態で掻きむしると大変だ。身体中傷やミミズ腫れができてしまい、「痒い」が「痛い」にレベルアップしてしまうのだ。だから、本格的に冬に入る前に乾燥対策をしておかなければならない。さもなくば、全身にミミズを埋め込んだ男のようになってしまう。

 そういうわけで、保湿クリームなりかゆみ止めの薬なりを購入するため、僕はドラッグストアに来ていた。ちょうど去年使っていたぶんは使い切ってしまっていたので、補充しなければいけない。特に今年の冬は早く、既に身体に痒みが出始めていた。ここに来るまでもなかなか辛いものがあり、服の上から痒いところを掻き、あっ、掻いちゃダメだ、と思い掻くのをやめ、しばらくするとまたかゆいところを掻き、そしてやめる、というのを何度も繰り返していた。乾燥肌には掻かせたくなる謎の魔力があり、ダメだとわかっていても手が勝手にそちらへ動いてしまう。それに理性が対抗し、ストップをかける。だが、掻きたいんだけど掻けない、という状況に陥ることで、もどかしさを感じてしまう。我慢することで、今度は心が痒くなってしまう。そんな状況からの救いを求めてここにやってきたのだ。


「いらっしゃいませー」


 店の自動ドアが開くと同時に、店員の声がした。僕は一歩前へ進んだ。自動ドアが、ゆっくりと閉まり、外の寒い空気が遮断された。そして、暖房で暖められたふわりとした空気が僕を包み込んだ。暑すぎず寒すぎず、良い温度に調節されていた。僕は寒いところから暖かいところへ逃れられたためか、少し安心した気持ちになっていた。

 僕は早速、目的物の捜索に取り掛かる。だが探すまでもなく、店の入り口からでも見える位置に特設の売り場が設けられていた。この時期、僕と同じように乾燥肌に苦しむ人は多いらしい。苦しんでいる中少し申し訳ない気はするが、同じことに悩む仲間が多くいるということが僕にはちょっと嬉しかった。

 僕は真っ直ぐにその売り場に向かった。

「冬の乾燥肌にはコレ!」「皮膚にうるおいを」といったキャッチコピーのついた保湿クリームや化粧品、薬品などがずらりと並んでいた。多くの種類が並んでいたが、買おうと思っていたものは決まっている。僕は迷わずそれを選択し、手に取る。以前使ったとき僕にとっては効果てきめんだった薬用保湿クリームだ。

 僕がそれを持ってレジへ向かおうとしたとき、視線を感じた。

 少し離れた位置に、女性が立っていた。

 髪は黒いベリーショートで、背は女性にしては少し高い。顔は……なんというか、魚のようだった。面長で、目はぱっちりとしていて大きく、黒目が小さめな四白眼。鼻筋は高く、唇を常にキスをするかのように小さく突き出していた。それに伴い、頭も少し前に傾いていて猫背だった。服装は、ここの制服と同じものだ。どうやらこの人は店員らしい。

 彼女は無表情で、じっと僕の方を眺めていた。もしかしたら売り場の商品のほうを見ていたのかもしれないが、僕は少し監視されているような気がして、気味が悪かった。できるだけ目を合わせないようにして、さっさと会計を済ませて帰ろう。


「……いらっしゃいませ」


 ボソッと声がして僕は一瞬背筋がゾクっとした。驚いて振り向いたら、魚の女が話しかけてきたようだった。とは言っても、彼女が話しかけたのは私ではなく、別の女性客だった。まるで耳元に息をふっと吹きかけられたような声だったので、自分に話かけられたと思ったのは勘違いだった。


「あの、このお店で特別な皮膚のケアをしているって聞いたんですけど」


 女性客は臆せず魚女に話しかけた。皮膚のケア? ここ、ドラッグストアだよね? そんなことしているなんて、聞いたことがない。一体どういうことなのだろうか。僕は気になったので、耳をそばだてて彼女らの会話を聞いてみることにした。


「……ええ。やってますよ。あまり表立ってやってるわけではないですが、私の能力を使って皮膚の疾患を治すことができます」


 魚女は小さな口を動かし、低い声で言った。それを聞いた女性客は、目を輝かせた。


「本当ですか! 実は私、身体をぶつけてしまってそこに傷と痣ができてしまったんです。それを早く治したいと思って来たのですけど、治せますか?」


「……お安いご用です。さて、今すぐ施術しても大丈夫ですか?」

「はい、よろしくお願いします」

「では、別室で行いますので、どうぞこちらへ……」


 魚女は女性客を部屋まで案内した。女性客も、彼女の案内に従って部屋へ向かった。そして魚女は扉を開け、女性客を部屋に通した。その後彼女も部屋に入り、扉を閉めた。

 盗み聞きするようで少し悪い気がしたが、僕もこっそりと後をつけて、部屋の近くで聞き耳を立てた。

 部屋の中からはボソボソと声が聞こえた。おそらく魚女の声だが、部屋越しなので何を言っているのかはわからない。その後女性客の声がしたが、同様に何を言っているかわからなかった。

 しばらくそのような内容のわからない会話が続いていた。僕は一生懸命聞いていたが、やはり何を言っているのかわからなかった。

 どうせわからないし、と白けた気分になってしまったので、僕は聞き耳を立てるのをやめ、帰ろうと思った。彼女たちの会話を聞くことに夢中で痒みのことを忘れかけていたが、無駄なことをしたなと思うと、そういえば痒いんだった、と思い出したように痒みが蘇ってきて、一刻も早くそこから解放されたいという気持ちが戻ってきた。

 そのとき、部屋の声が一瞬止んだ。止んだと思うと、わずかにガタッという音がした。

 僕は失いかけていた好奇心が蘇ってきたのを感じた。踵を返そうとしていたところをもう一度戻り、再び部屋に耳をそばだてた。

 ボソッと声がしたかと思うと、ピチャ、ピチャ、ピチャ、と音がした。部屋の外でもはっきり聞こえてくる音だった。


「んんっ……」


 女性客らしき声がした。喘ぎ声にも似た、若干なまめかしい声だった。


「……で……て……すか」


 魚女と思しき声。何と言っているかわからないが、声のトーンは売り場を見ていたときと比べて強いことはわかる。


「だっ……んん……あっ」


 チュパ、チュパ、チュパ。チュッ。一体彼女らは何をしているのか。これが魚女のいう「施術」なのだろうか。僕はより強い好奇心に支配され、その場でジッと喘ぎ声とチュパチュパという音を聞いていた。

 数分後に、その音は止んだ。

 少し経ってからボソボソっと声が聞こえたかと思うと、ガタッと席を立つ音がした。ヤバい、このままではここで聞いていたことがバレてしまう。僕は音を立てないように素早くその場を離れ、店内を見て回っているだけの、何のやましいこともないただの客を装った。

 二人が部屋から出てきた。魚女は相変わらずの無表情で、女性客は嬉しそうな顔をしていた。心なしか、上気した顔をしているような気がする。


「ありがとうございました。なんだかもう治っちゃった気がします」


 女性客は言った。魚女は無表情を崩さぬまま、彼女に答える。


「……実際に効果が出るのはもうちょっと時間がかかりますから。でも、もし効果が薄かったりでなかったりしたらまたおいで下さい。……では会計はこちらで」


 魚女と女性客はレジへ赴き、会計を済ませた。女性客はそのまま店の出入口へ行き、帰った。

 僕は悩んでいた。魚女の「施術」がどんなものか気になって仕方がないのだ。何故あのようななまめかしい声が出てくるのか。施術と称して何をしているのか。そして、本当に疾患が治るのか。それらについて、直接聞いてみるべきか。しかし、何の用もないのに気になるというだけで聞くのもなんだかな……。と少しためらったが、よくよく考えてみれば話しかけるための口実ならあるじゃないか。

 ええいままよ、と僕は彼女のところへ歩み出た。


「あの、すみません」


 僕は彼女に話しかけた。


「……いらっしゃいませ」


 相変わらず無表情のまま彼女は答えた。


「特別な皮膚のケアをしている、とさっき聞こえたのですが、本当ですか?」


 単刀直入に僕が訊ねると、女は目線を少しだけ逸らして何やら逡巡したように考え、再び目線を僕の方に戻して答えた。


「……はい。やってますが」


「どういう治療をしているのですか、教えていただけませんか」


「……あんまり広められると困るのですが。あまり大々的にやっているわけじゃないので。まあ、先ほど乾燥肌コーナーを眺めていらっしゃいましたよね。相当お困りのようですから、特別に施術しましょうか」


 女はレジから出て、視線で僕についてくるように促した。


「こちらの部屋へ」


 女が向かったところは、先ほど女性客に「施術」した部屋だった。


「あの、まだ受けるとは……」


 僕は「施術」の内容が気になって聞いただけなのに本当に施術を受けることになったことに若干困惑していた。


「……ちょっと説明しづらいのでね。説明するより、実際に受けてみたほうがわかると思います。なに、別に危険なことをするわけじゃないので、お試し感覚で安心して受けてみてください」

「そう、ですか」


 僕は急な展開に少し不安になった。好奇心でこんなことを聞いてしまった自分に後悔してきたが、ここで引き下がるわけにもいかないと思った。女のほうからも存在を知られたからには逃すものかという気迫を感じる。今はお試しで受ける選択肢しかない。


「では、どうぞ」


 女は扉を開け僕を部屋へ案内した。

 部屋はテーブルと向い合せのパイプ椅子が二脚あるだけの簡単な部屋だった。女は僕に奥のほうの席に座るよう促し、僕が腰かけるのを確認すると女は向い合せの席に座った。


「では、施術を開始します。あなたは乾燥肌でお悩みということで間違いないですね」

「あ、はい……そうですが」


 いきなり「施術」が始まった。僕は妙に緊張した。一体彼女に何をされるのか、そのことだけを考えていた。


「まずは一番症状がひどいところを教えていただきたい」


 女は死んだ魚のような目を僕に向けて言った。


「えっと……足ですかね。脛のあたり」


 僕はおずおずと答えた。


「脛……ですか。裾をめくりあげて見せてもらってもいいですか?」

「は、はい。わかりました」


 僕は言われるままに裾をめくりあげた。心なしか、痒い場所のことを意識するとより一層痒みが増してくるような気がした。


「……では、ちょっと失礼」


 女はそう言うと、素早く机の下に潜り込んだ。そのときにガタっと音が鳴ったので、僕は少しびっくりした。


「……なるほど、確かにカサカサの肌……ひっかき傷で血が出ているところもありますね」


 机の下から彼女の声がした。どうやらまじまじと僕の足を観察しているらしい。机が邪魔で、女の姿は隠れており見ることができなかった。


「そ、そうなんですよ。痒くて痒くて、ダメだってことはわかるんですけど、ついつい引っ掻いちゃうんです」

「……なるほど、なるほど。では、やりますか」

「え、ちょっと」


 女は急に両手で僕の足首と膝の裏を掴んだ。かと思うと、急激に脛に顔を近づけた。姿は見えないが、息がかかるのでそうしていることがわかる。

 そして、一呼吸置いた後、なんと彼女は僕の脛に口づけをしたのである。

 小さな唇を脛にペタリ。その唇はしっとりと湿っており、僕の乾燥肌とは対照的だった。

 突然、細かな振動が脛に伝わってくる。ももももも、といった具合の微妙な振動だ。彼女は小刻みに唇を動かしているようだ。それにしても、物凄いスピードで動かしているようである。時折チュパ、チュパという何かを吸う音がする。先程盗み聞きした謎の音はこれか、と僕は思った。

 何というか、ちょっとくすぐったくて、不思議な気持ちよさがあった。

 唇は上へ、下へと移動しながら、脛全体を舐めとっていくように動いた。やがてふくらはぎへと移動し、そこも丁寧に舐めとってくれた。脛とふくらはぎ全てを唇で舐めたあたりで動作をストップし、彼女は机の中から出てきた。


「……どうです? かゆみが無くなっていると思うのですが」


 確かに、もうかゆみを感じない。それどころか、先ほどまでカサカサだった脛が今は潤いに満ちている。乾燥肌ではなくなっているのだ。


「これは一体……?」

「これが施術です。皮膚の悪いところを私が吸引しましたので、しばらくは大丈夫でしょう」


 なるほど。皮膚の悪いところを……。僕は皮膚の角質を食べる魚、ドクターフィッシュを思い出していた。唇から伝わってくる振動が、まさにその魚が角質を食べるときの感覚にそっくりだったためである。


「……お望みであれば、他の部位も施術して差し上げますが」


 魚女は言った。


「ぜ、全身やってください!」


 僕は勢いよく答えていた。先程の「施術」が思ったより良かったのだ。おかげで苦しみから解放されると考えると、受けない手はなかった。


「……わかりました。では」


 彼女は僕の身体に唇を当てる。

 ももももも。

 はぁん、気持ちいい! 「施術」中の僕は思わず声を上げていた。


 施術が終わると全身の痒みは消え、とてもすっきりした気分だった。僕は部屋の外で彼女に礼をした。


「本当にありがとうございました! これで乾燥肌の苦しみから解放されます」

「……それはなによりで。またいらっしゃってください」


 この魚のような女のことは忘れないだろう。また痒み出したら来ようと心に誓う僕だった。

 しかし、次の機会は訪れなかった。このドラッグストアは間もなく潰れ、二度と来ることができなかったのである。その後の魚女の行方を僕は知らない。

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