チリチリ毛

 むせ返りそうなほどムワッと蒸した暑い日々。汗は蒸発せず、常に身体中に何かがまとわりついたような感覚。この湿気大国日本では当たり前のような夏の一コマだ。

 私の髪の毛もその影響を大きく受ける。すぐにチリチリになってしまうのだ。そのため、毎日髪がチリチリにならないように手入れをしなくてはならないのだ。

 しかし、今日は髪をセットしている時間はなかった。大幅に寝坊してしまったのだ。


「ああ、もうっ遅刻遅刻! スマホのアラーム鳴らないのよ! ちゃんと仕事しろ!」


 私はスマホに八つ当たりする。本当は時間通りに鳴っていたのだが、無意識のうちに止めて二度寝してしまったのだ。でも、そんな事実はどうでもよく、今は罪のない何かに自分の落ち度を擦り付けて憂さ晴らしをしたい気分だった。


「早く準備して行かなきゃ! ごはん食べてる時間もない! あぁ、あのウザい課長に怒られる!」


 私は急いで会社へ出かける準備をして家を出た。慌てて駅まで走り、慌てて改札を通り、慌てて扉の閉まりかけた電車に駆け込む。私はぜいぜいと息を切らして電車の吊革に掴まった。電車の中は通勤ラッシュのピークタイムを過ぎていたためか、少しだけ空いているようだ。私は息が落ち着いてきたとき、顔を上げて目の前の窓に映る自分の姿を見た。

 髪の毛が案の定チリチリだった。しかもかなりひどい。急いでいたため今日の天気を確認してきていないが、空は曇っていて、今にも雨の降りそうな雰囲気だ。湿度も明らかに高く、そのためか、毛がうねり、まとまりがなく、ボサボサだった。今更ながら、こんな身だしなみのまま家を飛び出した自分が恥ずかしくなってきた。


 私は鞄から櫛を取り出した。こんなこともあろうかと、常に手入れができるように鞄に道具を忍ばせてあるのだ。「ナイス、私!」と私は自分自身を褒めた。とはいえこんな場所では簡易的な手入れしかできないので、気休め程度ではあるのだが。

 櫛の歯を髪の毛に当て、髪を梳こうとした。しかし、チリチリしているためか上手く梳くことができない。それどころか、だんだんと絡みついて動かなくなる。


「あっ……もう!」


 私は櫛に絡みついた髪の毛をほどいて取ろうとしたが、何故かとれない。たしかにかなりもじゃもじゃしているが、ここまで絡みつくほどではないはず。私は少しイライラしながら櫛と格闘した。


「ちょっと……離れなさいよ!」


 私は頭の中でそう叫んでいた。こころなしか、髪の毛は櫛を巻き込むどころか、私の手をも取り込もうとしているように感じられる。


「あっ、うそ……ちょっと」


 そう感じたころには手遅れだ。髪の毛は私の櫛を飲み込み、手に絡みついた。そして、うねった毛はさらに私の腕へ伸びていき、身体を飲み込み、足まで覆った。それでも収まらず、髪は伸び続ける。目の前の乗客もその様子に気付き、驚いてヒッと悲鳴を上げた。その魔手は目の前の乗客を巻き込み、さらにその隣も巻き込み、悲鳴を上げながら席を立つ人も飲み込み、窓を覆い、天井の広告も隠した。やがて車両まるまる一つぶん、黒い毛玉に支配されたのだった。


 その出来事があって以来、私はどんなに急いでいても髪の毛は手入れすることにしている。

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