露天風呂と幽霊

 皆さんは、幽霊を見たことがおありでしょうか? 私は、あります。たった一度だけですが。それはある旅館に泊まったときのことでした。


 ある夏、私は日頃の疲れを癒すために温泉旅行を計画しました。旅行先として海のあるところに行って海水浴をしたりテーマパークへ行って遊んできてもよかったのですが、今回は一人旅でしたので、一人で来てもそこは楽しくないのではないかと思い、温泉旅行に決めました。温泉は一人で行っても十分羽を伸ばすことができて、おひとり様でも受け入れてくれるような度量があるように感じます。当時の自分にとって、温泉は最良の選択肢だったと思いました。

 私はそうと決めたら、早速旅館を探し始めました。温泉と一口に言っても、日本には数多くの温泉があります。泉質などは詳しくないのでわかりませんが、できればいい宿に泊まり、いい温泉に浸かってゆったりとした憩いの時を過ごしたいと思っていました。私はインターネットや旅行本を使ってできるだけ多くの情報を集めました。

 私が決めたのは、某県の某温泉旅館。老舗のかなり古い旅館ですが、老舗というだけあってネット上の評判も良く、写真もいかにも老舗旅館という風情で、私は行くならここしかないと思いました。

 私は旅行先を決めた日から毎日わくわくした気持ちで過ごし、ついに当日になりました。


 旅行先は私が住んでいる場所から少し遠いところにあります。そのため、途中まで飛行機に乗っていき、そこからさらに電車を使ってその県まで行き、最後にバスを使って旅館までいくことになりました。

 昼過ぎに旅館につくと、大きな門が私を出迎えてくれました。私が生まれるずっと前からそこに存在していたいにしえの門は、出迎えるでもなく追い返すでもなく、ただそこにどっしりと鎮座して、無言の威圧感を醸し出していました。私はその迫力に圧倒されましたが、同時に感動しました。これだけの荘厳なものを見られただけでも、来た甲斐があったと思いました。


 私は自分の部屋に荷物を置いたあと、早速温泉に入りました。大浴場は広い湯舟がひとつと、露天風呂がひとつあるだけで、最近の温泉施設のように多種多様な種類の湯があるわけではありませんでした。しかしながら、その湯はとても気持ちよく、私の疲れた身体を十分に癒してくれました。熱い天然の温泉は久しぶりだったので、余計にそう思えたのかもしれません。私はしばらく浸かったあと、かけ湯をしてから上がり、身体を拭いて着替えました。本当にいい湯だったので、温泉街を観光したあと、夜にまた入り直そうと思いました。


 この旅館の夕ご飯は、とても豪華なものでした。刺身や新鮮な山の幸を中心にした和食です。私は和食が大好きなので、とてもおいしくいただきました。日本酒もあったので一緒に飲みました。これも非常においしくて、それはもう幸せなひと時でした。

 私は幸せな時間をもっと長く味わいたい思い、もう一度浴場に向かいました。私は露天風呂に向かい、ゆったりと浸かりました。夜のひんやりとした空気と温泉の熱い湯の温度差が、私に心地よい快楽を与えてくれました。


 私はそのようなリラックスした時間を過ごしていましたが、突然、湯に黒いものが浮かんでいることに気が付きました。その黒いものをよく見てみますと、それは髪の毛の塊でした。私は驚いて小さく「わっ」と声をだしてしまいました。はっきり言って、気持ち悪いと思いました。これまでのリラックスした空気が一気に張り詰め、緊張を伴ったものに変わりました。

 その髪の毛が流れてきた方向を恐る恐る見ますと、露天風呂の奥の方に誰かが立っていることがわかりました。この時間、私はひとりで温泉に浸かっていたと思っていたのですが、そうではなかったようです。向こうもこちらに気が付いたようで、ゆっくりとこちらに顔を向けてきました。その出で立ちは異様で、長い髪を前に垂らし、身体に青い痣がところどころに見られる裸の女性でした。彼女は恨めしそうな陰気な声でぶつぶつと何かをつぶやいていました。


「一本……二本……三本……」


 彼女は何かの数を数えていました。私は彼女がこの世のものではないと思い、恐ろしくて逃げ出したくなりましたが、身体が動きませんでした。


「二十二本……二十三本……。あれ、足りないわ……。ねえ、そこのあなた……。あの子の髪を見なかった……?」


 私は彼女に話しかけられました。私は彼女の問いに対して何も答えませんでした。というより、答えられなかったというほうが正しいでしょうか。あまりの恐怖に、手足どころか口さえもうまく動かすことができませんでした。

 彼女は私の目の前に浮いている髪の毛の塊を認めたかと思うと、急に叫びだしました。


「ああ、それ……髪の毛……あの子の毛!!!」


 彼女は甲高い声を出して突然私のほうに走り出しました。私は声には出ませんでしたが、心の中で絶叫しました。そして、彼女の手が目の前にきたときに、私は気絶しました。


 目を覚ますと、露天風呂には女も髪の毛もありませんでした。もしかしたらあまりにも温泉が気持ちよ過ぎて寝てしまい、変な夢を見てしまったのかもしれません。手足は動くし、あ、あ、と小さく言ってみましたが、問題なく声が出ました。私はほっと安心して胸を撫で下ろしました。

 とはいえ、少し長湯し過ぎたのは事実のようで、身体がだるい感じがありました。私はいそいそと露天風呂から上がり、室内に戻るために扉を開けました。

 そのとき、ふと背後から気配を感じました。私はゾクっとして露天風呂を振り返ってしまいました。しかし、そこには何もいませんでした。やはり不気味な感じがありましたが、気のせいだ、気のせいだと自分に言い聞かせて室内に入りました。

 私はできるだけ手早く着替えて、脱衣所をあとにしました。そのとき一度入り口を振り返りました。


 入り口には、札が一つかかっていました。その札には、筆で書かれた達筆な字でこう書かれていました。

「只今、大浴場は女湯の時間です。※当館の大浴場は男女入れ替え制です。しっかりと確認の上お入りいただけるようお願い申し上げます。」

 私は金玉の縮み上がる思いをしました。もしあの女が本当にいて、生きている人間だったら私はどうなっていたでしょうか。ちょっとした騒ぎになっていたかもしれません。最悪、警察のお世話になっていたことでしょう。本当に、警察に突き出されるようなことがなくてよかったと思いました。この日以来、露天風呂が怖くて仕方がありません。


 以上、私が幽霊を見たときの体験でした。

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