第3章 潜むもの

 吐く息が凍るほどに寒い。それなりに防寒対策は取ってあるとはいえ、それでも、この寒さは身に堪える。もう長く太陽を見ていない。狭い箱の中で、フューラの意識は絶望から希望へ、希望から絶望へと幾度も行ったり来たりを繰り返している。

 できることなら。今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたい。この永遠に続くかのような冷たい闇の中から。

 フューラはぎゅっと奥歯を噛み締めた。あと少し、あと少し。あと少しの辛抱だから、と自身に言い聞かせる。多くの人々に助けられ、やっとここまで来た。ここで下手に動いて全てを無にすることはできない。

----父さん、母さん----

祈るように心につぶやく。このくらいの不自由は、大したことではない。

 神様。

 はらりと心の中にそんな言葉が落ちる。フューラはぎゅっと自分自身を強く抱きしめた。

 祈りなさい、両親はいつも言っていた。辛い時、悲しい時、神に祈り、助けと慈悲を請いなさい、そうすればきっと神はお前を助けて下さるだろう、と。うれしいことも、悲しいことも、神と共に分かち合いなさい、と。

 けれども。

 どんなに祈っても祈っても、救いはどこからも来なかった。父は殺され、母もまた奪われた。父の父も、殺されたのだと聞いている。最も深く神と共にあると言われた人なのに。

 フューラの祖父は、導父と呼ばれる存在だったのだという。この世界を造りたもうた神、その神の教えと道とを説き、苦しみ悩む人々を多く救っていたのだと。

 しかし、火星人たちはこうした神の道、神の教え、という考えを許さなかった。祖父は捕らえられ----次に戻された時には、切り刻まれて死体となっていた。細かなことは分からない。ただ、生きながらに引き裂かれたのだと、そう聞かされている。

 やがて火星が地球に置いた管理機関を引き上げ、地球の統治を地球人に任せるようになっても、神の存在は否定され続けた。地球連合府は常に火星の気配を伺い続け、火星が否定するが故に、また、連合府も神を否定し続けた。

 そうした中、父もまた神の道へと身を投じ----

 あの日のことをフューラは今もよく覚えている。よく晴れた日曜日、家族で遅い昼食を取っていた。メニューは豆のスープとジャガイモ。温かな湯気と優しい匂いが辺り一帯に広がっていて-----そうして突如外が騒がしくなり、ロボットを引き連れて警官がやって来た。リューク・エリュ・ムーサ、ルート識別子カヨン、虚偽により詐欺を行った容疑、及び地球の安全を脅かした容疑で逮捕する、と。

 すぐにもつかみかかり捕らえようとする彼らに、父は静かに言った。自分は逃げも隠れもしない、だから落ち着きなさい、と。

----ちょうどお茶が入ったところです。一杯飲むくらいの時間はあるでしょう----

警官は、さすがに自分たちが飲むのは断ったが、しかし父が飲むのを妨げることもしなかった。父は至福の表情でゆったりとその一杯を飲み干し短く感謝の祈りを捧げると、立ち上がって彼らの方へと歩み寄った。さあ、行きましょう、と。

 それっきり、である。それっきり、父は帰って来なかった。取り調べの最中に病死したのだと、そう聞かされた。母はそれを聞いて飛び出して行き----やはりそのまま帰って来なかった。一体何が起こったのか、何がどうなっていたのか、フューラには今も分からない。

 どれほど祈っただろう?神様、お助け下さい、と。父を、母を、助けて下さい、父に、母に、会わせて下さい、と。

 祈っても、祈っても、祈っても、父も、母も、戻らなかった。どんなに願っても、どれほど願っても。

 絶対に祈るまい。そう心に決めたのはいつのことだったろう?父母を失ったのは7歳の時。あれから20年余の年月がたった。もう神など信じていない。神に頼ったところで何になるだろう?願うことがあるならば、望むことがあるならば、それは、この手で、自分の手で、つかみとるべきである。頼ってはならない。神などというありもしない幻想に。

 腕時計で日にちと時刻を確かめる。あと2日足らず。それで全ては決まる----


 見慣れない景色。天井に星の絵が浮かび上がっている。

 どこだろう?ぼうっとした頭で考える。次第に意識がはっきりして来、わかばは飛び起きた。抑えた照明が自動的につき、部屋の中を照らし出す。部屋の隅にいる大きなウェッティ・ウェッティのぬいぐるみが目に入り、わかばは、宇宙船の中だと思い出した。

 中央制御室にいたはずなのだけれど。

 ここ数日慣れないことの連続な上ひどく緊張していたので、あまり眠れていなかった。そんなわかばにとって、やたらと難しい単語を並べている機械音声は、格好の睡眠BGMだった。

 ベッドを降りる。柔らかなカーペットの感触が心地よい。脇にはきっちりと揃えた靴が、その横には小さな台にきちんとたたんだ靴下がちょこんと置いてあった。自分以外に人はいないはずだから、多分船がロボットを使ってやったのだろう。なかなか几帳面な性質たちらしい。余計気が合わないような気がして、わかばはげんなりとした。

 自分一人なのだから、別に問題はないはずである。とりあえず靴と靴下をベッドの下に押し込む。靴の類いは、実はあまり好きではない。それでも、遠くに「お出かけ」するのだから、ときっちり履かされてしまった。

 それはそれとして。気乗りはしないが、中央制御室の様子がなんとなく気にかかる。

----そうっと静かに行けば分からないよね----

わかばは、それで、そろりそろりと部屋を出た。

 できるだけ廊下の端をそろそろと進み、中央制御室の前までやって来る。中央制御室の扉には、何故か取っ手がない。どうやって開けるのだろう、とそうっと近づいたところで、いきなりびゅっと扉が開いた。ここを通るのは二回目だが、初めてここを通った時は、あまりにも緊張していたので、どんな風だったか全く記憶がない。

「どうしたんです?」

目ざとくGalaxiaが見つけてそう声をかけてくる。

「まったくあなたと来たら、ひとが一生懸命働いているのに、脇でぐーすか寝ているんですから」

「だってやることがないんだもん。何がなんだか分からないし」

「だからって寝るんですか?安定航行に入るまでがいちばん危険なんですよ?どこの馬鹿がそんな時に寝こけるんですか」

「どうせ私は馬鹿ですよーだ」

何か腹が立ってきた。わかばはむかむかして、イーッと歯をむいた。

「自覚があるなら、馬鹿でも馬鹿なりに努力して下さい」

「馬鹿は馬鹿だから努力なんかしない」

売り言葉に買い言葉で、つい、そう言い返してしまう。

「また馬鹿なことを・・・だから、あなたは馬鹿だと言うんです」

「そうだよ、馬鹿だって言ってるの」

訳の分からない言い合いになる。

「馬鹿なんだから放っておいて」

「今度は開き直りですか?全くもう・・・とにかく、あなたみたいなのは船長失格です。私はあなたを本船の船長とは認めませんからね」

「別に船長になんかなりたくありませんよーだ」

わかばはあかんべをして見せ、中央制御室を後にした。全くいちいち頭にくる船である。こんな性悪船をこれから延々相手にしなくてはならないのかと思うと気が重い。

 ぷりぷりしながら廊下を歩く。いくつか並ぶ扉。そういえば、キュリスはいろいろあると言っていたっけ。わかばは、片っ端から扉を開け始めた。

 資料室にプレイルーム。アクアリウムに野菜栽培室。食べ物を見た途端、急に空腹を覚えて、わかばは辺りを見回した。見回したところで、誰がいるわけでもない。質問しようにも、何しろ自分一人である。

----食べていいんだよね?----

何となくどきどきする。野菜栽培室には、籠やハサミ等、収穫作業に必要そうな道具が揃えてある。わかばは、いくつか野菜をとって籠に入れると、調理場を探した。

 目当ての部屋は、栽培室のすぐ隣にあった。食器や様々な調理器具が、こぢんまりとした中にきれいに配置されている。ただ、設備が立派すぎて、肝心の加熱調理器具がそもそも一体どれなのか、それ自体がよく分からない。

 わかばはあれやこれやと開けたり閉めたり、おそるおそる触ってみたりしたが、壊してしまいそうで、早々にあきらめてしまった。

 Galaxiaなら知っているのだろうけれども。あれとまた話をするのも気が進まない。結局わかばは、生で食べられる野菜を選んで、それで我慢することにした。


 まただ。Galaxiaは、注意深く周囲を見渡した。極々わずかな違和感。再度念入りに違和感を感じた場所を集中的に調べてみるが、特に何も見当たらない。

 火星を出てこの方、視界の片隅にはっきりとした異常とまでは行かないが、といって全くの正常とも言えない一瞬が時折訪れる。

 これまで3度テスト飛行をしたが、こんなことは一度もなかった。機器に異常があるのかもしれないと考え、動作確認をしてみたが、今のところ問題は見つかっていない。念のため、予備のユニットと交換してみたが、やはり、後方に時折極々微細な違和感を感じてしまう。実際、その瞬間のデータを確認すると、視野の後方、極々端の方にほんのわずかな乱れが発生している。ゴミか何かが浮遊して偶然後方を横切ったのかもしれないが、それにしては、発生頻度が高すぎる。

 どうにもこうにも気にくわない。今回の航行は、本当に問題だらけである。訳の分からない荷物は積み込んであるし、乗員は、何を考えているか分からない馬鹿な子供。Galaxiaの計算では、もうそろそろ安定して良いはずの船内環境も、未だ安定しない。

 船内環境については、火星の管制局は、出発前にいつになく大勢が出入りしたので、その影響が長引いているのだろうと分析している。現在の船内環境データは、なにがしかの「異常がある」としか思えないのだが、これだけの動植物や乗員を乗せた状態での航行は初めてであり、過去のデータが存在しない以上、Galaxiaとしても絶対の自信を持って断言することはできない。とにかく、環境が落ち着くまで、注意深く様子を見守る他はなさそうである。

 そしてこの、視界に発生する違和感。機器に異常があるのか、本当に何かがあるのか、それとも自分の頭がおかしいのか。本来ならば乗員と相談するべきところだが、今乗っているのは、あのわかばである。適切な判断どころか、そもそも問題把握ができるかどうかさえ疑わしい。

 何故、乗員があの馬鹿な子供なのだろう?他にいくらでも人はいるはずなのに。これならまだいっそ、誰も乗り組まない方がましである。乗員が乗っているというだけで、船体には負荷がかかり、制御は格段に難しくなる。しかも、保護しなくてはならない分、考慮すべき要素が飛躍的に増え、Galaxiaを何かと悩ませる。

 理解不能な相手。話は通じないし、言動は謎だらけ。何を考えているのか、そもそも考えるだけの十分な知能があるのかどうかさえ、定かではない。言動が理解できないということは、行動の予測が立たないということであり、それはつまり、十分に保護できないことを意味している。Galaxiaにとっては「頭の痛い」事態であった。

----彼らは私らにないものを持っている。それは未来への鍵となるかもしれない----

乗員が地球人であると知って抗議したGalaxiaに、ナーナリューズはそんなことを言っていた。Galaxiaにしてみれば、未来への鍵だろうがなんだろうが、どうでもいい。Galaxiaの仕事は安全な航行であって、それ以上でも、それ以下でもない。

----あなたならきっとできる----

水嶺はそう言っていた。やるしかない、とも。分かってはいる。分かってはいるが・・・

 Galaxiaは、意識を遠く宇宙へと向けた。不安----人間ならばそう呼んで差し支えのない不気味な感覚があった。今の状況は、本当にひどく気に入らない。

 火星に問い合わせたら、何かが分かるだろうか?

 はっきりと異常があるのなら、安全性に差し支えるので問い合わせるのに迷うことはない。しかし、いわゆる「気のせい」のような気もして、Galaxiaは、躊躇していた。分かっている。こういう時はまず乗員に指示を仰ぐべきなのだと。いっそ誰も乗っていなければ、Galaxiaはすぐにも火星に問い合わせていただろう。人は乗っている、だが乗員と認めるには届かない。目下、それがGalaxiaにとっての大問題だった。


 何も意地を張らずに聞けばいいだけの話なのだが、どうしてもそうする気になれない。おかげで昨日から食事といえば、トマトにレタス、キャベツに青菜、というウサギか何かのような食事である。

「そんなにトマトが好きなんですか?私のデータでは人間が一日に10も15もトマトを食べる、ということにはなっていませんが」

「他に食べるものがないんだもの」

「そんな筈ないでしょう。魚だっているし、ジャガイモやらパトイやら、いくらだってあるじゃありませんか」

「でも生じゃ食べられない」

「生?あきれた」

Galaxiaはため息をもらした。

「調理場があるでしょう?」

「あんな変な台所、使えないよ」

「だったら聞くなり調べるなりすればいいでしょう。一体どこまで馬鹿なんです、あなたは」

 これだから聞きたくなかったのに。わかばは思った。すぐ人を馬鹿にするんだから。

 それでも、何はともあれ、夕食はまともなものにありつけた。久々の温かな食事に不思議とほっとしたものが体中に広がる。

----使い方を教えてくれて良かった----

 考えてみればGalaxiaは口こそ悪いが、一度もわかばを困らせようとしたことはない。尋ねれば悪態をつきながらもきちんと答えてくれる。

 わかばは、ほうっと大きく息をついた。


 報告資料を作っていたシャハンは、疲れを感じて、時計に目を走らせた。20時11分。全くもって、「地上」の考えることは分からない。「地上」というのは、火星局本部のことである。火星や宇宙ステーション詰めの火星局員は、本部のことをしばしば「地上」と呼ぶ。

 何もGalaxiaが出発した直後に報告会議を開かなくても。そう思う。前々から決まっていたこととはいえ、Galaxiaの出航前は忙しすぎて報告資料を作る暇などなかった。というわけで、今必死に作っているところである。

 日程は明日の午後から明後日の午後まで。地球から火星局の幹部やら地球連合府の人間やらがわざわざ火星まで来る。地球人スタッフ全員の出席が求められているところがなんとも不気味である。

 それなりに成果は上がっていると思う。思うけれども。地上がどこまで自分たちの仕事を理解してくれているか、少々自信がない。火星との関係上、地上からの要望を突っぱねなくてはならないことは多々あった。例えば、Galaxiaの細かい仕様は、今もって地球には全くといっていいほど知らされていない。Galaxiaは一度も地球を訪れていないし、これで何の共同プロジェクトかと突っ込まれれば、シャハンとしては、力及ばず申し訳ない、と詫びる他はない。

 少し一息入れよう。シャハンは、談話室へと向かった。自分の部屋でも茶の一杯くらいは淹れられるが、なんとなく部屋から出て少し気分転換したい気分だった。

 案の定、というのだろうか、もう遅い時間だというのに談話室では地球人スタッフがかなりうろうろしていた。皆明日から始まる報告会議の資料作りに追われているらしい。談話室で資料作りにいそしんでいる者も少なくない。

「君も息抜き?」

部屋の隅から声が飛んできて、シャハンは振り返った。ロスハンである。地球人たちが頭を抱えたり愚痴ったりしているのを面白そうに眺めている。呑気なものだ、そう思う。いつ見ても彼はぶらぶらしているが、本当に一体何をしているのやら?一応は、Galaxiaの頭脳班に所属しているが、特にそこで何かを担当しているわけでもないようである。

「君らは、報告会議のようなものはないのかい?」

カップを片手にロスハンの傍へ行ってみる。もう何時間か部屋に缶詰状態だったので、少し誰かと話したい気分だった。

「あるよ。でも、君らほど頻繁じゃないし、そんなに時間はかからない。報告が中心の会議なら、いちばん長くてせいぜい15分ってところかな。最新情報が飛び込んで伸びるともう少し長くなることもあるけど。ほとんどは10分かからないね」

「うらやましいな」

「そう思うなら、変えればいいのに」

「それができれば、苦労はしない」

シャハンの言葉に、ロスハンは小さく笑ったようだった。

「本当に、君らって面白いよね」

「そうかい?」

「うん。面白い。興味深いよ」

「何か言いたそうじゃないか」

「別に何も。言っておくけど、褒めてもけなしてもいないよ。ぼくらと違っていて、いろいろ不思議なだけだ」

「いろいろ、ねえ。例えば、前から分かっているのに、今頃皆が慌てていることだとか?」

「それも一つだね。そもそも、報告書を作るのに、どうしてそんなに時間がかかるんだい?」

「どうしてって、そりゃいろいろ調べなきゃならないし、プレゼンの仕方も工夫がいるし」

「でも、ファリスがあらかたまとめているだろう?あとは内容を確認して、外すべきところ、足すべきところを少し修正すればいい。10分か、せいぜい20分もあれば終わると思うんだけど」

ドーム都市の公共エリアで起こることは、全てファリスが記録している。ファリスに指示をすれば、必要に応じて情報をピックアップし、まとめてくれる。

「君らはそれでいいようだが」

シャハンは、茶を啜った。それですませられる火星人たちがうらやましい。

 ファリスによるまとめは、正確だが、分かりやすさへの配慮は皆無である。少なくとも、地球人にとってはそうである。地球人から見ると「見にくい」「分かりにくい」ファリスのまとめ資料だが、火星人たちは、ざっと一瞥しただけで内容を把握してしまう。こちらが1時間2時間かけて読み込む資料を、彼らはほんの1分足らずで読み込み、完璧に記憶・理解する。もっとも、彼らからすると、地球人の作る資料は、逆に分かりにくいらしく、良く混乱している。

 共同プロジェクトの責任者たるシャハンでさえ、時折、プロジェクトに地球人がいる意味なぞないのではないか、と思ってしまう。火星人たちは、地球人がいない方が円滑に効率よく働ける。地球人スタッフが茶々を入れたり失敗をしたりするたびに、火星人の専識者達は、非常に嫌そうな、ひどく迷惑そうな風を見せる。彼らは、自分の仕事が妨げられたり遅らされたりするのをことのほか嫌う。

 ナーナリューズにも言ったことがある。地球人スタッフは不要なのではないか、と。その時、彼はこんなことを言った。

----火星人だけで行うなら、それは共同とは呼べないだろう?----

ふざけた返答である。だが、火星人は、わざわざふざけるような無駄なことはしない。至って大まじめに答えているのである。ただ、この時、シャハンは微妙な「はぐらかし」を感じた。火星人らしからぬことではあるが、こちらは、皆無ではない。特にロスハンやナーナリューズは、しばしば情報を伏せようとする時に、こうした「はぐらかし」を試みる。

 更に突っ込めば、まだ何か出て来たかもしれないが、ナーナリューズがそれを望まないように思えて、シャハンはそれっきり、深くは追及しなかった。もっとも、火星人のことである、こちらがいくら追及したところで、欠片ほども気にしないだろうけれども。話す気があれば話すし、そうでなければノーコメントを貫く。それだけである。

「まあ、終わってる連中もいるみたいだけよ。カレンだとか」

「几帳面だからな。終わっている人間が三分の一といったところだろう」

「部屋に籠もっていたのによく把握しているね。聞いて回ったけど、大体そのくらいみたいだ」

「日頃を見れば大体分かる」

シャハンは言って、茶をすすった。

「なるほど?で、君は?」

「あと少しかな。明日の朝もう一度チェックしないと」

チェックするなら見てあげようか、というのを断り、シャハンはまた自分の部屋へと戻った。


 さっと扉が両側へ開く。驚いたらしいわかばが目を丸くして立っている。また自動ドアだということを忘れていたらしい。学習能力がないのだろうか。Galaxiaは思ったが、言えばわかばが怒るのは目に見えていたので黙っていることにした。

 気を取り直して、わかばがそろりそろりと入って来る。何故ああいう妙な足取りなのか、謎である。

 今度は、Galaxiaは声をかけなかった。わかばはひどく落ち着かなさそうにもじもじとしている。何か言うかと思ったが、しばらく待っても何も言わない。それで、Galaxiaは自分から声をかけることにした。

「何か用ですか?」

「用がなきゃ来ちゃいけないの」

またぞろのけんか腰。何故こうなるのかさっぱり理解できない。Galaxiaは言い返した。

「用があるかと聞いただけです。用がないのに来るなとは言っていません」

わかばが押し黙る。

「何故黙るんです?用があるのかと私は聞きました。答えて下さい」

「べ・・・別に、ない」

わかばは言い、脱兎の如く逃げだそうとした。慌ててGalaxiaが止める。

「用があって来たのでしょう?何故逃げるんです」

「別にないもん」

わかばが言い張る。

 どう見ても何か用があって来たようにしか見えないのだけれども。Galaxiaは、はあ、とため息をついた。

「分かりました。あなたがそう言い張るなら、それでいいです。で、食事はできましたか?」

やっとわかばがここまで来たのである。Galaxiaとしては、逃したくなかった。何をするにしても、わかばに関するデータが不足しており、このままではいざという時、それが原因で手詰まりになってしまいかねない。

「あ・・・うん」

わかばは言い、またもじもじと俯いた。

「何か問題でも?上手く使えませんでした?」

「え・・・ううん、使えた。あの、その・・・教えてくれてありがとう」

思いがけず礼を言われて、Galaxiaは少しばかり戸惑ってしまった。

「いえ、どういたしまして」

はて、どういう風の吹き回しだろう?

「なんでも聞いて下さい。船のことなら全て把握していますから」

「はあく?」

「全て分かっている、という意味です」

「そっか。すごいんだね」

あのわかばが褒めた?Galaxiaは、ますます混乱してしまった。

「いえ、その、わかば・・・ですよね?」

「そうだけど・・・」

「ああいえ、すみません。そうですよね」

「どうかした?」

Galaxiaが謝ったことに少し驚きながらわかばが尋ねた。

「いえ、反応が違うような気がして」

「そうかな?」

わかばは、ちょこんと首を傾げた。まだ何やら言うことがあるらしく、もじもじしている。

 本当に、地球人は、理解するのが難しい。言いたいことがあれば、言えば良いのである。言うことで問題が起こると思うのであれば、何も迷う必要はない。黙っていれば良い。

 Galaxiaは、待った。言うにせよ、言わないにせよ、どちらかにわかばは転ぶはずである。一つ一つの挙動が、全て、彼女を「理解」するための材料となる。

「あの、それで、大事な時に寝ちゃってごめんなさい」

2分ばかりもたった時、わかばは、思い切ったようにそう謝った。

 わかばの言葉はGalaxiaにはひどく分かりにくい。Galaxiaはようよう、わかばが出発時に眠り込んでしまったことを謝罪し、機器の使い方を教えてもらったことのお礼を言いに来たらしい、ということを理解した。

「いえ・・・」

こんな時どう返せば良いのだろう?仕方がないので、Galaxiaは正直に言った。

「すみません。こういう時、どう反応すればいいのか分かりません」

思いがけない反応に、わかばが目をぱちくりさせる。

「ええと、ううん?どうなんだろ?」

「どうなんですか?」

「わたしに聞かれても。ねえ、もう怒ってない?」

「怒っていません」

「じゃあ、いい、かな?」

「私に聞かないで下さい。分からないんですから」

「じゃ・・・じゃあ、いいってことで」

「あなたがいいなら、それでいいです」

やっぱり訳の分からない会話になる。それでもわかばは少しほっとしていた。

「それはそうとわかば、少し気になることがあって」

当初思ったより、わかばはまともらしい。Galaxiaはそう判断して、今自分を悩ませる奇妙な「感覚」のことを話してみることにした。何かがついて来ている気がすること、しかしデータを見ても何もないように見えること・・・

「きっとお化けだ!」

大人しく聞いていたわかばは、聞き終わると言った。

「お化けって、それは作り話でしょう」

「じゃ、幽霊?」

「同じことじゃないですか?」

「違うよ、幽霊は死んだ人で、お化けは・・・なんだろ?何か分からないもの?」

「いずれにせよ、そんなものは存在しませんよ」

「どうしてそう言い切れるの?誰か証明したの?」

Galaxiaはぐっと詰まった。変なところで鋭い。何かが「ない」あるいは「いない」という証明は非常に難しい。

「いるような、いないような、いると思ったらいなくて、いないと思ったらいる。お化けじゃない」

「どうして宇宙にお化けがいるんです?」

「宇宙だから?」

わかばと話していると、何やら混乱してくる----Galaxiaはそんなことを思った。論理的なのかそうでないのか、よく分からない。

「地球にいるなら、宇宙にいてもおかしくないよね。火星にはいないのかな」

どうやらわかばは、「お化け」なるものがいると信じているらしい。

「地球にいるって・・・見たことでもあるんですか?」

「わたしはないけど。友達の友達が見たって言ってたって友達が」

友達の友達。話の信憑性は低そうである。Galaxiaも「お化け」の話はそれなりに知っている。ただし、話の出所はほとんどが伝聞で、一部直接「見た」場合でも、もっと科学的で合理的な説明がつくものがほとんどである。

 わかばはふと思いついたように言った。

「火星に聞いてみた?」

「お化けがいるかどうかですか」

「違うよ!その変な感じがする話。火星の人の誰かが知ってるかもしれないよ」

何故あの話の展開でこうなるのか分からないが、わかばは、思いの外まともな結論に着地した。

「うう、でも嫌だな。お化けがついてきていたら」

「見たいのだと思っていましたが」

「パパさんやママさんや、みんながいるなら見てみてもいいけど、ここで会うのは絶対嫌」

どうやら、わかばは怖がっているらしい。

「まあ、さすがにお化けはないでしょう」

Galaxiaは言うと、そろそろ寝た方が、と促した。


 ただ、機器の音だけが響いている。昼間は割合騒がしい管制室も、夜はひどく静かである。無論、人はいる。ただし、それは火星人ばかりで、地球人は一人もいない。

 原則として、夜の時間帯は、火星人だけが配置されている。これは地球人の健康に配慮したもので、どうしても必要な場合を除き、夜間に地球人が働くことはない。もっとも各自が部屋で何をしているかは、また別の話ではあるのだが。

 呼び出されて管制室へ来た水嶺は、足早にドゥイズのところへと向かった。

「Galaxiaが、何かがついて来ている気がするが、確証が持てないと言うんだ」

ドゥイズは言った。

「今のところ機器類は全て正常に動いているようだし、データ上問題になるようなものは見当たらない。Galaxiaもそれは認めている。Galaxiaが言うには、『気のせい』のようだと」

コンピュータの「気のせい」。水嶺は、やや眉を顰めた。普通、あり得ない話である。

「分かった」

水嶺は言うと、通信装置の前に立った。

「こんばんは、Galaxia」

そう声をかける。Galaxiaも挨拶を返した。

「こんばんは」

「どんな風に気になるの?」

「それが、私自身よく分からないのです。気配がするというかなんというか・・・。何かいる、と思って精査してみるのですが、大抵目立った異変はないのです。精査して何かあるように思える場合でも、再度調べると何もなくて・・・。私はどこかおかしいのでしょうか。わかばは『お化け』だと言うのですが」

「わかばにも聞いてみたのね」

「はい。一応、その、乗員ですから」

参考にはなりませんでしたが。Galaxiaは言いたかったがやめておいた。水嶺は微かに笑った。一応、とは頭につけたものの、Galaxiaはわかばを「乗員」だと言った。Galaxiaがわかばを受け入れられるか心配したが、思いの外上手くやっているようである。

 水嶺が少し考え込む。

「もう一度確認するわね。問題は、視界データで、時々異常がある。でもそれは非常に微細なもので、精査しても何も出ない。再度異常がある場合もあるが、再々調査すると特に異常は見当たらない」

「確かにその通りですが、水嶺、そのまとめ方だと、私の思い違いではない、ということになりますが」

「そうね、そう仮定して話しているわ。記録は残っているわね?そこに、あなたが異常を感じた時を追記録して、回して頂戴。精査した時のデータもよ。もし重力スキャナも使ったなら、そのデータもある方がいいわね」

「了解」

Galaxiaがすぐデータを送ってくる。ドゥイズがすぐそれを解析にかかった。

「Galaxia、多分、あなたは間違っていない」

水嶺はきっぱりと言った。

「そうでしょうか」

「ええ。何かあるのだと思う。わかばが言ったような、そうね『お化け』が。それが機器の内部にあるのか、それとも宇宙にあるのか、それが大問題だわ」

「待って下さい、お化けって・・・本当にあなたはお化けがいるとそう言うのですか?」

「そうね、想定外に出てきて姿をはっきりと捉えられない何か、という意味ではね」

「ああ、そういう意味でしたか。良かった。わかばが絶対ここでお化けに会いたくない、と言うんです。怖いみたいで」

「気持ちは分からないではないわね。こっちで調べてまた知らせるわ。ああ、もう寝ているかしら」

「それが・・・」

「どうしたの?」

「ブランケットと巨大なぬいぐるみを引っ張ってきてここで寝ているんですが」

弱り果てたようにGalaxiaが言う。ここは寝室ではないのに、と。

「心細いのよ。頼りにされているじゃない、Galaxia。好きにさせてやって」

「分かりました」

何か分かったら知らせて下さい。Galaxiaが言い、通信が切れた。


 相変わらず、管制室は静かなままである。早朝5時。ドゥイズの姿はなかったが、後を引き継いだラズウェルがデータの解析結果を預かっていた。ざっと目を通した水嶺の表情が険しくなる。

「報告はもう上げてある。ナーナリューズは、問題ないと言っていた」

ラズウェルが言う。

「そう。問題ない、ね」

水嶺は棘のある声で言うと、足早に管制室を出た。

「あれ、早いね」

ナーナリューズのオフィスへ向かう途中、ロスハンが通りかかった。

「今日は、確か報告会議だろう?君もゲストで参加するって聞いた。ぼくも聞きに行くよ」

水嶺は、地球人スタッフではあるが、唯一火星が直接招喚しており、火星局に所属していない。今回の報告会議には、本来ならば出る必要はない。

「誰に聞いたの?」

水嶺が尋ねる。

「誰って、ナーナリューズが言っていたけど」

「そう」

不意に水嶺がにっこりと笑った。絶対零度の笑み。

「ありがとう、ロスハン。でも、私は、会議には参加しない。Galaxiaを放ってはおけないもの」

じゃあね。水嶺がまた足早に立ち去りかける。それをロスハンは慌てて引き留めた。

「待って、水嶺。ぼく、何か悪いことを言った?」

「どうして?」

「だって、すごく怒っている。違う?」

「安心して。あなたに怒っているわけじゃない。それとも、あなたもグル?」

「ちょっと待ってよ。何のこと?」

「グルでないならいい。ごめんね、急ぐの。会議頑張って」

ロスハンを振り切り、水嶺がまた足早に歩き始める。ロスハンも後を追った。

「本当に会議に出ないの?」

「火星局の会議でしょ。私が出る必要はないはずよ」

「でも、ゲスト参加の依頼が来ているんだろう?」

「だから何?出ると答えた覚えはないわ。下らない会議。航行初期にあるGalaxiaをを放り出してまでやるようなこと?」

「それは、そうだけど。でも、管制なら火星人スタッフだけでもできなくはないし、問題が起こったらすぐ連絡して動けばいいだけだから、別にいいんじゃないかな?」

「さあ、どうかしら?」

水嶺は冷ややかに言うと、ナーナリューズのオフィスの前まで来て止まった。何か考えをまとめる風でしばし俯く。そして、思い切ったように顔を上げると、強い調子で扉を叩いた。


「どうした、浮かない顔だな」

そう声をかけられ、ロスハンは声の主を振り返った。シャハンである。会議で使うつもりらしい諸々の道具を両手に一杯持って、立っている。

「ロボットにさせればいいのに」

ロスハンは苦笑しながら一部を持ち、共に歩き始めた。

「命令するのも面倒だ。自分で動いた方が早い」

「ファリスに言っておけば揃えておいてくれるよ」

「まあ、そうなんだがな」

会議室に入り、机にデータシートやペン、カップを並べる。シャハンが尋ねた。

「それで?何があった」

「何がって?」

「随分浮かない顔をしていたじゃないか」

「相変わらずよく分かるねえ」

ロスハンは感心して言った。火星人の表情変化は、地球人には捉えにくい。大半の地球人は、火星人は無表情だと思っている。そんな中で、何故かシャハンには、火星人の表情が分かるらしい。

「慣れだな。君らにも、感情変化はある。ただ、地球人ほどはっきりと表に出ないだけだ。後、そうだな、感情が動くポイントが違うから、分かりにくいのもあるかもしれない」

「恐れ入るね」

「何年君らと仕事をしていると思っている。で、どうした。水嶺と喧嘩でもしたか」

「いや。ただ、水嶺がすごく怒ってる。あんなに怒っているのを見たのは初めてだ」

「水嶺が?彼女を怒らせるって、一体何をしでかしたんだ」

水嶺は、滅多なことでは怒らない。シャハンが知る限り、怒ったように見せることはあっても、本心から怒ったところは見たことがない。そもそも、彼女が本当の意味で感情の動きを表に出すことは、あまりない。そういう意味では、ロスハンとよく似ている。ほとんどが「ふり」なのである。

「ぼくじゃないよ。多分、ナーナリューズだ」

ナーナリューズならやりかねない、と思ってしまうのは何故だろう。シャハンは、また面倒なことになっているようだ、とそう感じた。

「で、ナーナリューズは何を?」

「それが、分からないんだ」

ロスハンはどこか困った風で言った。

「水嶺と一緒に行ったんだけど、ぼくだけ追い出された」

「火星人の君を追い出して、水嶺を残したのか」

シャハンは驚いて言った。通常まずない話である。火星人は、嘘はつかないが、情報を伏せることは良くある。プロジェクトでも、地球人スタッフが外されることは少なくない。けれども、地球人を残して火星人を外すとは、一体どういうことだろう?

「そうそう、水嶺は、会議には出ないってさ」

ロスハンの言葉に、シャハンは訝しげな表情になった。

「何の話だ?」

「何って、今日と明日の会議。水嶺もゲストで参加するはずだっただろう?」

「聞いていないぞ」

今度はロスハンの方が驚く番だった。

「ぼくは、てっきり君が依頼を出したのだとばかり思っていたけど」

「水嶺は、火星局の人間じゃない。どう逆立ちしても、彼女に参加の義務はない。ゲスト依頼を出したところで、Galaxiaが出発したばかりの今の時期に、彼女がGalaxiaの側を離れるわけがないだろう。一体誰に聞いたんだ、その話」

「ナーナリューズだ」

 沈黙が落ちる。ややあって、シャハンが言った。

「ナーナリューズは、一体何を考えているんだ」

水嶺もゲスト参加で会議に参加するとなれば、Galaxiaを見守る地球人は一人もいない、ということになる。不自然に押し込まれた報告会議。もしそれが、火星局や地球連合府の意志ではなく、実はナーナリューズの指示であったのだとしたら?

「駄目だ。やっぱりもう一度行って確かめてくる」

ロスハンが言う。

「ナーナリューズは君を追い出したんだろう?つまり、君に話す気はないということだと思うが?」

「それでも、ちょっと聞いてみるよ。ぼくにその情報が必要だと納得さえすれば、話してくれる」

「それはそうだろうが・・・しかし、君は地球人の専識者だろう?必要性なんかあるのか?」

普通、専識者は、自分の専門外のことには関心を持たない。

「ぼくが心配しているのは水嶺だ」

「そのくらいのことで、ナーナリューズが話すとも思えないが」

「君が思う以上に大事なことなんだ。チェスフの二の舞は避けたいから」

タブラン・チェスフ。火星人を殺して宇宙へと逃亡した----

「彼女とチェスフは全然違う。心配はないだろう」

「別に彼のように水嶺が人殺しを働くと思っているわけじゃない」

ロスハンは、これについては、あまり話したくない風で話を打ち切った。

「ただ、シャハン、多分、ナーナリューズは、君ら地球人に何かを伏せたいと思っている。ぼくを外した理由もそれだろう。ぼくは嘘がつけないから。ぼくが話を聞き出せたとしても、君に話すことはきっとできない。許して欲しい」

珍しくロスハンが真剣な様子で頼み込んでくる。シャハンは小さく笑った。

「君らも面倒に出来ているな。分かったよ。聞かない方が、精神衛生上よさそうだしな。どうせ聞いたところで何もできないと相場は決まっているし」

「ありがとう、シャハン。恩に着るよ。これで聞き出しやすくなる」

愛してるよ。ふざけた調子でキスを投げ、飛び出して行く。ぞぞぞぞ、と背筋に寒気が走り、シャハンは去って行く後ろ姿に叫んだ。

「やめろ、気色の悪い!」


 絶対に納得が行かない。Galaxiaは、少々苛々しながら再度視界にまつわるデータをかき集めて解析していた。

 視界に微細な「異常」があると訴えたのに、火星の管制室の返答は、「そのままで問題なし」だった。そんな馬鹿な話があるはずがない。Galaxiaが異常を感じた以上、機器に問題があるか、何かが起こっているか、さもなくば、Galaxia自身に問題があるかのいずれかである。いずれにせよ「問題がない」どころの話ではない。

 なのに、あえて「問題なし」と答えたということは。

 Galaxiaは、一つの推論にたどり着いた。火星が問題ないというからには、機器やGalaxiaに異常はない、とみなして良いだろう。機器類や自分に異常がないとすれば、視界に感じられる微細な「異常」は実際にそこに何かがあることを示している。それが何かは分からないが、火星の管制室はそのことを分かっていて、こちらに隠しているに違いない。

 正体不明の積み荷に、後をつけてくる正体不明の「何か」の存在。管制室は----否、ナーナリューズは、一体何を企んでいるのだろう?

 火星人は、不必要な行動は取らない。必要があって、彼は、Galaxiaや乗員に何かを隠している。Galaxiaや乗員に知られてはまずい何か----それが何であるのか分からないところが、どうにも不気味である。

 Galaxiaが鬱々と悩んでいると、わかばがばたばたと駆け込んできた。

「いいこと思いついた!」

ひどくうれしそうにそんなことを言う。何故この子はこう、不必要に大仰な動作をして無駄にエネルギーを使うのだろう?Galaxiaは、落ち着いた調子で答えた。

「どうしたんです?」

「あのね、お化けを見つける方法を思いついた!」

「はい?」

一瞬Galaxiaは言われた意味が分からなかった。わかばは少々苛立ったらしい。

「だ~か~ら、昨日、何かついて来ている気がするって言ってたじゃない?いるような、いないような、変な感じだって」

「ああ、視界異常の話ですか。ええ、言いました。火星は問題なし、と言っていますが」

Galaxiaが説明しようとするが、わかばは聞いてなどいない。

「あのね、急ブレーキかけたらどうかな?」

「急ブレーキ、ですか?」

「前に、フィクション動画フィクタで見たんだ。ギャング団が来て、それで、フィッポス隊長が・・・」

わかばが夢中になってフィクタで見たとかいうドラマの話をする。が、主語がはっきりしない上、話している途中であちこち話が飛ぶわ、説明もなく擬音語と擬態語だけで語るわで、一体何がどうなっているのかよく分からない。ピーーッとなってガーーーッだ、と説明されても、見たことのないGalaxiaにはちんぷんかんぷんである。とにかく、ある種のヒーローものらしい、ということだけは分かった。

 とはいえ。わかばの持ってきたアイディア自体は悪くない。当面、視界の異常は起こっていないが、またいつ起こらないとも限らない。何もないのか、それとも本当は何かが「いる」のか、可能ならば、はっきりさせておきたい。これまで、Galaxiaは安定的に加速をかけ続けて来た。もし後ろに何かがいて、それがこちらのスピードに合わせて「つけて」いるのなら、急に速度を変えれば、尻尾を見せるかもしれない。

「分かりました。一寸やってみましょう。基本的に大丈夫なはずですが、万一ということもあります。席についてベルトを締めて下さい」

「はいはーい」

わかばは、進んで座席によじ登った。前回はあんなに嫌がったのに、今度はやけに乗り気である。

「急減速10秒前、9、8、7・・・」

カウントダウンをし、0を刻んだところで、一気に減速を行う。ほんのわずかに船が揺れ、そしてまた静かになった。あまりにも揺れが小さかったので、わかばはきょとんとしている。

「え?え?もう終わり?本当に遅くした?」

「ええ、終わりました。やりましたよ、わかば。『お化け』の尻尾をつかみました」

「でも、全然揺れなかったよ?」

「ジャイロシステムがありますから。それに、予め分かって減速していますからね、この程度の変動なら十分対応できます」

「そうなんだ」

何故かは分からないが、期待外れだったらしい。わかばはつまらなさそうな顔をしながらベルトを外し、座席から降りた。

「それで、見つけたって?」

「ええ。一つかと思いましたが、複数いるようです。普通の系内宇宙船ではありませんね」

「やったね、お化けを見つけちゃった」

状況が分かっていないわかばは、どこまでも能天気である。

 何かがこちらの後をつけていることは、間違いない。急減速をした一瞬、見かけないタイプの船を3機、捉えることができた。それらは、すぐにまた視界の外へと消えて行き、少なくともGalaxiaが捉えられる範囲には、近づいて来ない。こちらが彼らの存在に気付いたことに、向こうも気付いたかもしれない。

 一体何者なのか、それが分からない。ひどく奇妙な形状をしていた。しかも、特殊な素材で覆ってあるらしくほとんどの電磁波を吸収してしまっているようである。光学データ上は、小さな物体のように見えるが、空間の歪みを調べる空間スキャナのデータは、それよりはるかに大きく重い物体の存在を示している。

 普通の船ではない----Galaxiaは、ぞっとした。この宙域を飛行できるのは、火星の宇宙船か、後は、「大地の守護者」の戦闘機である。火星の宇宙船であれば、危害を加えてくる可能性はほぼないだろう。しかし、もし、あれが「大地の守護者」の戦闘機だったなら・・・?

 「大地の守護者」たちは、火星や地球連合府に対して非常に敵対的である。その彼らが自分をつけているとすれば、良い目的であるはずがない。

 それにしても、火星の管制室は何を考えているのだろう?管制室は、Galaxiaの後をつける船隊のことを知っていて、何故かGalaxiaとその乗員からその存在を隠そうとしている。火星の船であるなら、別段隠す必要もないはずである。「大地の守護者」の戦闘機であるなら、なおさら、こちらに警告を出してしかるべきである。

 わかばはといえば、Galaxiaの心配をよそに、Galaxiaが復元した相手船の映像を見てすごいすごいと喜んでいる。この事態をわかばが理解するのは到底無理だろう。ましてや、対策を練るなど、天地がひっくり返っても不可能に違いない。

 自分が何とかする他はない----Galaxiaは、追っ手を振り切るべく、急加速をかけた。


 話を聞き終えたロスハンは、しばし無言だった。地球人と関わりの深いロスハンにとっては、聞くだけで気分が悪くなるような話である。

 Galaxiaを囮に「大地の守護者」が密かに根を張った小惑星帯の基地の場所を突き止め、破壊する。それが、ナーナリューズが防衛局と共同して進めている作戦。技術の粋を集めたGalaxiaの能力を思えば、「大地の守護者」が食指を動かさないはずはない。

 例えば、Galaxiaに搭載している空間跳躍----コンソルドー跳躍と呼ばれるが----装置は、使い方次第で強力な武器になる。原理としては、通信で用いられる「光通し」と変わらない。こちらの現空間のあらゆる点に対し1点で接触するコンソルドー空間を利用し、現空間の離れた場所へと物体を移動させる。この装置は、人工的な空間歪曲を引き起こすため、「空間を引き裂いて」物体を破壊することも可能である。

 Galaxiaだけなら、囮にしたところでそう問題はない。最悪、船を失うことになるかもしれないが、船はまた作ることができる。しかし、今回はテスト飛行とは異なり、子供が乗っている。地球人が計画を受け入れるはずがない。それ故に、ナーナリューズは地球人を遠ざけた。上手く行けば、彼らは何も気付かず、何も知らぬまま過ぎるかもしれない。本当に、全てが上手く行けば、の話ではあるが。

 そんなことが本当に可能なのだろうか。完全に専門外だと分かってはいても、ロスハンは、それを思わずにはいられなかった。

 地球人たちに完全に情報を伏せる困難さもさりながら、計画を成功させること自体、簡単ではない。基地を破壊することはできるだろう。けれども、こちらのプロジェクトにとっては、Galaxiaと乗員を無事回収できなければ、意味がない。

 イレニスは、特殊艦を飛ばしているが、それは基地を叩くためのものであって、Galaxiaを守るためのものではない。他方、Galaxiaの制御権を完全に奪われれば、非常に厄介なことになる。空間歪曲に対抗する手立ては、現在のところ存在しない。ナーナリューズは言わなかったが、恐らく、Galaxiaには自爆装置が積んである。

 狭いクレバスの隙間をぬって飛行するような作戦である。Galaxiaの敵は、「大地の守護者」だけではない。味方であるはずの防衛局も、果ては、管制室さえもが、ある意味船を「裏切って」いる。イレニスは、Galaxiaにためらうことなく攻撃をしかけるだろう。仮にそれをやり過ごせたとしても、制御権を「大地の守護者」たちが握っているようであれば、最終的にナーナリューズが自爆装置を作動させるに違いない。

 火星人の感覚では、特に問題のない計画であり、作戦だが、地球人にとっては、決してそうではない。もし失敗すれば、話を伏せておくことはできなくなる。そうなれば、地球人たちは、今後一切の協力を拒否し、プロジェクト自体が成り立たなくなる可能性もある。もっとも、たとえ失敗したとしても、ナーナリューズは、地球人に事実を知らせるつもりはさらさらないのだろうけれども。

 早い段階で自分に相談してくれていれば、意見を言うこともできた。けれども、今となっては何を言っても無駄である。ナーナリューズが自分に相談しなかったのは、地球人がどういう反応をするのであれ、計画を実行するつもりだったからなのだろう。そうであれば、ロスハンとしては、沈黙する他はない。

「Galaxiaの飛び方に異変が起きた」

不意に、管制室からそう連絡が入った。

「すぐ行く」

ナーナリューズが答える。そこへ、今度はファリスが割り込んだ。

「ナーナリューズ、イレニスからの通信です」

「大もてだな」

ロスハンが小声でつぶやく。火星人の間でこうした軽口は、通常意味をなさない。案の定ナーナリューズはそれを黙殺し、軽く手を振ってファリスに通信をつなぐよう指示した。

「船に気付かれたようだ」

イレニスは、開口一番言った。

「どういうことだ。艦隊は下げてあるのだろう?」

Galaxiaから視界異常の問い合わせを受け、イレニスには船に近づき過ぎないよう警告を出してある。

「もちろん、かなり下げた。だが、船が急減速をかけたんだ。恐るべき減速力だな。おかげでこちらの対応が間に合わなかった。どこまで船が認識したか分からないが、とにかく、今度はものすごい勢いで加速して、水をあけられつつある」

「分かった。Galaxiaと話をする。後ろにいるのが火星の艦隊だと告げた方がいいだろう」

「任せる」

イレニスが言い、通信が切れた。

「Galaxiaの状態は?」

管制室へ入りながら、ナーナリューズが尋ねる。

「計器等のデータはオールグリーン。船体に異常はない。ただ、既に予定速度の162%を超えている。現在の加速を続けた場合、85分後には警戒速度に達する」

「船からの連絡は?」

「まだだ」

報告を受けて、ナーナリューズは矢継ぎ早に指示を出した。

「ファリス、防衛局と通信オープン。Galaxiaからの全データをシンクロ配信。ドゥイズ、船を呼び出せ」

「防衛局との通信を開始。Galaxiaからの全データの同時送信、開始しました」

ファリスが言い、やや遅れて、Galaxiaの声が管制室に響いた。

「何です?」

これは相当怒っているな----ロスハンはそんなことを思った。もっとも、通常、火星人は、相手の口調の変化など気にしない。口調も語調も表情も、火星にあっては、基本的に無意味である。地球人たちがいるので、そういうものがある、ということくらいは認識されているが、といってそれを考慮する必要があるとは、露ほども考えていない。火星人の中で、相手の口調や表情、その奥にある感情の動きに注意を払うのは、ロスハンくらいのものである。

 その意味では、Galaxiaは、火星で作られた船でありながら、火星人よりむしろ地球人に似ていると言えるだろう。Galaxiaには、感情がある----少なくとも、そうであるように見える振る舞いをする。頭脳の基本を作ったのが、地球人であるタブラン・チェスフであり、育てたのが水嶺であることを思えば、当然といえば当然かもしれない。

「逃げる必要はない。君の後ろにいるのは、防衛局の艦だ」

ナーナリューズは、いつに変わらぬ口調で言った。

「ならば、何故隠そうとするのですか?そもそも、一体何故ついて来ているのです?」

「必要に応じた措置だ」

「はぐらかさないで下さい。何のためについて来ているのです?」

「それについては、答えることはできない」

「ナーナリューズ!一体あなたは何を企んでいるのです?」

「私の考えを探るのは君の仕事ではない。自分の仕事に専念したまえ。必要な情報は与えた。後ろに続く艦から逃げる必要はない。そうである以上、現在速度は、リスクとのバランスにおいて早すぎる。君はこの件について対処すべきだ」

 火星人なら、これで納得して引き下がるだろう。けれども、相手はGalaxiaである。ロスハンは、そっと水嶺の様子を窺った。水嶺は、Galaxiaのデータを刻々と表示するスクリーン群をじっと見つめている。その顔は、真っ白で、人形のように無表情だった。まるで生きていないかのように。

 案の定、Galaxiaは、すぐに了とは言わなかった。何を企んでいるのか教えてくれるまでは、速度を下げない、と頑張っている。火星人相手にこうした「粘り作戦」は、無意味なのだが、Galaxiaは、まだそこがよく分かっていないらしい。

 水嶺は、小さく拳を握りしめた。ナーナリューズが引き下がることは絶対にない。船の安全を思えば、スピードを上げすぎるのは、決して良いとは言えない。周りが皆火星人である以上、Galaxiaに、火星人との取引は無駄だと教えられるのは、自分しかいない。

 しかしながら。

 ここでナーナリューズの指示にGalaxiaを従わせるのは、彼の計画に荷担することを意味する。それは、Galaxiaに対する裏切りに他ならない。もっとも、計画を知っておりながら、危地へと向かうGalaxiaに知らせずにいる時点で、とうに裏切ってしまってはいるのだが。

 いっそこのまま超高速で行けば、何事もなく危険地帯を抜けられるかもしれない、とも思う。ただ、「大地の守護者」の基地がどの程度の戦闘能力を持つのか、水嶺はよく知らない。知っているのは、ガニメデ基地を破壊するに十分な能力だということくらいのものである。

 厄介なことに、Galaxiaには何一つ武器と呼べるものが搭載されていない。Galaxiaは、あくまで探査船なのである。問題が起こった場合、戦うのではなく、とにかく逃げる----それが、基本の設計思想である。そして、それは、火星人のみならず、地球人たちも認めた方針だった。

 丸腰のGalaxiaが単独で逃げ切ることができるのか。ナーナリューズと防衛局とが立てた計画の細部が分からない現状では、それが分からない。

 迷うように水嶺が口を開きかける。と、不意にその手をそっと押さえる者があった。

「ロシィ・・・」

ロスハンである。ナーナリューズに追い出されたはずの。ロスハンは、水嶺の手を押さえたまま、通信機に向かって言った。

「Galaxia、残念だが、火星人にそういう取引の類いは通用しない」

「誰です?」

「ぼくかい?ぼくは、ロスハン。わかばが乗り組む時、途中まで一緒にいたよ。まあ、ぼくのことはともかく。細かな状況が把握できなくて、君が不愉快なのは分かる。だけど、ナーナリューズの言うことは間違っていない。それは、君も分かっているはずだ」

「ですが・・・」

「自身の合理性に照らし合わせて考えてみたまえ。君の後ろにいるものの正体が分かった今、なお超高速航行を行うことが本当に妥当なのかどうか。君が最も大切にする安全性に鑑みて、その選択が最良であるかどうか」

 普通の火星人なら、こんな説得の仕方はしない。意見が食い違ったら、食い違いの元となるデータを出す、それだけである。彼らは、相手の立場を汲んで話を進める、ということをしない。そもそもそういう発想がないのである。唯一外的に、ロスハンだけはこれが行える。その必要性を認識させ、実行するよう仕向けて来たのは、他ならぬ水嶺である。

 数多くいる火星人の中で、ロスハンだけが変わって見える。彼は、地球人の感情に反応し、それに応じた行動を取ることができる。「気持ちを汲む」ことを知っているのである。それでも、明るく能天気とも取れる振る舞いの奥には、他の火星人と変わらぬ目の光がある。鋭く冷徹な、観察者の眼差し。

 本当のところ、一体彼が何を考えているのか、水嶺にもよく分からない。彼が何のために地球人の振るまいや思考、感情を調べているのか、それすらも知らないのである。何故、と聞いたことはある。けれども、彼は「面白いから」としか答えなかった。およそ火星人らしくない台詞。彼らは、必要性に応じてのみ動く。基本的に、感情で動いたりはしない。

 Galaxiaは、ロスハンの説得に折れた。Galaxiaは、地球人に似てはいるが、地球人とは異なり自説に固執することはない。Galaxiaにとって大切なのは、安全な航行、ただそれだけである。そういう点は、火星人に似ている。彼らは、面子や体裁、他者からの評価といったことは一切気にしない。彼らの関心は、ただ、自分の目的に適うかどうか、反しないかどうかだけである。

 加速が減速に切り替わる。妥当な速度まで落とすつもりなのだろう。

 ロスハンは、自分を見つめる水嶺に気がつくと、軽くウィンクした。

「とりあえず、一つ問題解決、だ。今のうちに少し休憩して食事を取った方がいい。君のことだ、朝から飲まず食わずだろう?」

小さく水嶺がかぶりを振る。とてもそんな気になれない。

「きちんと食べて休んでおかないと、いざという時動けないよ」

「どのみち、二日のうちには決着がつくのでしょう?平気よ」

地球人たちをGalaxiaから引き離しておくために開かれる会議は、今日の午後に始まり、明日いっぱいの予定である。明後日には、通常通りのシフトに戻る。つまり、それまでには、ナーナリューズと防衛局の作戦は、成功するにせよ、失敗するにせよ、終わる、ということである。

 水嶺は、どうしても動くつもりはないらしい。ロスハンは、それを見て取ると、それ以上言うのはやめにした。

 ロスハンが知る限り、水嶺は、地球人の中では理性的で合理的な方である。その水嶺でさえ、時折火星人の感覚からすると理解に苦しむ行動を取る。

 水嶺が食事を取るかどうかは、Galaxiaの運命に全く関係しない。自分自身の体調を犠牲にしてまで、飲まず食わずでここで突っ立っている意味など全くないのである。

 Galaxiaに何が起こるとしても、ここから彼女にできることは、恐らく皆無である。

 それでも、彼女は、ここに立ち続ける。

 地球人。この不可思議な存在。彼らの生物学的な解析は、ほぼ完全に終わっている。けれども、彼らの思考や行動は、ほとんどといっていいほど解明されていない。そういったものは、そもそも火星人の関心範疇に入らないのである。火星人から見ると、地球人の行動は、不合理で意味ないものに見える。当初、火星はそうした地球人たちの「無軌道な」行動を改めさせようとした。

 それが変わったのは、18年前のことである。火暦278年、ファリスが「停滞予測」を出した。火星は極めて均質な社会だが、それが原因でいずれ行き詰まりを迎える、というのである。

 地球人の持つ多様性が、行き詰まりを回避するのに有効かもしれない----ファリスはそう告げた。これを受け、火星は地球人に関する方針を大きく転換させた。地球人を改変するより、そのままに措き協調可能性を探ることを考え始めたのである。

 危険な賭である。地球人の行動は火星人の予測を容易に超え得る。

 本来、火星人はリスクを好まない。今でも地球人との協調については、慎重な意見が大勢を占める。地球人と関わりのある専識者たちでさえ、否、そうであるからこそ、地球人との協調は困難だという報告を出している。

 つまるところ、たとえ停滞するとしても、わずかずつでも発展するのであれば、時間をかければ良い。地球人は、何かというとかかる時間を気にするが、火星人にとって時間はそう重要な要素ではない。何であれ目的が達成できるのであれば、時間がいくらかかるかは、大した問題ではないのである。地球人との協調がなくても、実のところ、火星はそれほど困らない。

 地球人との協調や協働は、十分に危険性が低いなら、試してみる価値はある----元々その程度の位置づけである。

 火星におけるこのプロジェクトの位置づけの低さは、これだけの一大プロジェクトながら、携わる汎識者がナーナリューズ一人だ、という点にも表れている。通常なら、バックアップも兼ねて、最低二人、場合によっては三人いてもおかしくない。

 ・・・というよりは。

 プロジェクト自体に対し、非常な警戒心を抱いている、というべきかもしれない。

 ともあれ、こういうわけで、協調可能性を探るこの共同プロジェクトは、常にいつ打ち切られてもおかしくない状態にある。地球人の存在が危険でこのままには措けないと判断されれば、すぐにもプロジェクトは停止、地球人は排除されるだろう。

 時間が必要だとナーナリューズは言っていた。火星人と地球人のファーストコンタクトは、残念ながら良いと言えるものではなかった。自分たちはマイナスから仕事を始めている----ナーナリューズの言葉は、ロスハンにも重く響いた。

 地球人は、火星人を恐れ、心の隅に憎んでいる。隙あらば滅ぼしたいと思っている者も、決して少なくはないだろう。他方、火星人は地球人を危険な存在とみなし、いつ排除すべきか常にそれを考え続けている。

 火星が感じる「地球人の危険性」を少しでも下げ、時間を稼ぐために、ナーナリューズは、防衛局との危険な作戦の実行を決断した。「大地の守護者」が攻撃的な性質を示すたびに、「決裂へのカウントダウン」は進んでしまう。それを少しでも食い止めるためである。

----火星が決断を下す前に、地球人の存在が有用であること、協調可能性が十分にあることを証明しなくてはならない----

ナーナリューズはそう言っていた。

 Galaxiaとの通信が切れ、管制室に静寂が戻る。

 ロスハンは、椅子を運んで来ると、水嶺の側に置いた。

「長丁場になる。とりあえず座りなよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る