08

 ラティメリアタウン第三ビル三階。エレベーター前。

 チンッ、と軽快な音と同時に文字盤が点灯し、エレベーターの到着を告げる。

 開いたドアの向こうに立っているのは、ガスマスクをつけた千樫。その腕に、同じくガ

スマスクをつけたまま眠り続けるすずを抱きかかえている。


「ふぅ……。ふぅ……。ふぅ……!」


 スパイ男との激闘を制した千樫は、ガスマスクの奪取に成功していた。

 脱出を試みてエレベーターの内側からドアを蹴り続けていたところ、突然操作パネルに電源が戻り、エレベーターが勝手に下降し始めたのだった。

 水族館のある屋上へ向かうのではなく、下へ。

 相変わらず何が起きているのか理解できてはいなかったが、とりあえず安堵した。

 まき散らされたガスの正体がわからない。ただの催眠ガスならそれに越したことはないが、いかんせん謎のスパイによる謎の煙だ。一刻も早くすずを医者に診せてやりたい。

 しかしエレベーターが止まったのは、出口のある一階フロアではなく、三階だった。

「ふぅ……。んふぅ……?」

 千樫はすずを腕に抱いたまま、一階のボタンや閉まるボタンを連打した。反応はない。

まるでここで降りろと言わんばかりに、エレベーターは動かない。

 仕方なくじりじりと足を進める。少なからず煙を吸っていたからか非常に眠たかったが、

足を踏み出すたび、体中に激痛が走って意識が呼び覚まされる。

「ふぅ……! ふぅ……!」

 かっこよく避けた最初の一発を除いて。千樫は男が放った銃弾をすべてその体に食らっていた。すずの背に回した左腕に二発。太ももを貫通して一発。脇腹に一発。

 血だらけ傷だらけの満身創痍まんしんそうい。だがそんなのも関係ない。

「よいしょ」とすずを抱き直し、エレベーターを出る。自分の体は二の次だ。すずを医者に診せることしか考えていなかった。外へ出れば救助隊がいるはず。

 早く、早くすずを引き渡して――。

 しかしここは――ジャリ……と砂を踏んだような感覚に足元を見下ろす。砕けたガラスの欠片が散乱している。――ここはまるで、戦場のようだ。

 三階フロアは、各所に仕掛けられた爆弾によって無残に破壊されていた。

 顔を上げれば、エレベーター前から真っ直ぐに伸びる通りがある。両サイドに海外メーカーのブティックが並ぶ、三階フロアのメインストリートだ。

 普段なら多くの来店客が行き交うであろう通りに、ひとけはない。

 砕けたショーウィンドウ。明滅する蛍光灯。爆発から飛び火したのか、マネキンが気取ったポーズのまま燃えている。


「――やるじゃなあい、あなた」


 ガスマスクごしの濁った視界に人影が見える。千樫の真っ正面――通りのど真ん中にイスが置かれていて、そこに女が座っている。

 迷彩柄のズボンに厳ついブーツ。頭に小さなベレー帽。軍人のような格好をしてはいたが、うねった長い髪は不自然に赤く、その年齢も見る限り二〇代後半と若い。軍人とは言い切れない妙な妖しさがあった。

 女は優雅に足を組んで座り、手鏡をのぞき込みながら口紅を塗っている。


「想定外だったわあ。あなたみたいな優秀なボディーガードがついていたなんてねえ」


 鏡から目を離さないまま、口紅を塗るついでのように言う女。

 アジア人ではあるが、イントネーションが微妙に違う。やはり他国の人間らしい。

 鮮やかな赤色を「ん~ぱっ」とくちびるに馴染ませたあと、女は興味を失ったかのように、ぽいと口紅を投げ捨てた。

 そうしてやっと、こちらへ顔を向ける。


「あたしの名は紅熊猫ホン・シオンマオ。気軽に〝ホン〞と呼んでくださって構わないわ。よかったらその無愛想なマスクを外して、顔を見せてはいただけないかしらあ」


 赤く塗られたくちびるの両端には、その口を延長するように刻まれたひどい傷跡があった。明らかにただの傷ではない。まるで拷問のあとのような……。

 傷を見て千樫は確信する。この女……やはりアンダーグラウンドの人間。少なくとも、

平和な人生を歩んで来たものではないだろう。

 紅の背後には、自動小銃を構えた男たちが立っていた。

 紅につき従うようにして一〇名ほど。迷彩柄の軍服に防弾チョッキ。ただしこちらはベレー帽ではなく、目の部分だけが開いた布をかぶっている。その銃口は、千樫へと向けられていた。

「ふう……。ふう……」

 最悪かよ……と千樫はガスマスクの下でため息をついた。

 ――テロリストか何かか? 何でそんなもんが池袋にいんだよ……。

 ビルを爆破するようなやつらだ。普通に怖い。千樫は大人しくガスマスクを外した。


「あらあ。けっこう若いじゃない? おいくつ?」


「……ふう……ふう……」


 しかし世間話をしている気力はない。

 応えない千樫に、紅は肩をすくめる。


「学生みたいにも見えるけれど。お名前と所属を教えてくれないかしら?」


「……所属? 一年六組ですけど……? あのさ、人違いです。スパイならエレベーターん中に転がってっから。俺たちはもう帰るけどいいっすか……」


 階段の方へつま先を向ける千樫。しかしその進路を塞ぐようにして、またも小銃を構えた男たちが現れた。その数四名。千樫は紅へと向き直った。


「……なあ。人違いですってば……」


「いいえ人違いじゃないわ、あなたたちに用があるの。その子を孤立させるためだけにこれだけの仕掛けをしたのよ? ここでみすみす逃がしちゃったらあたし、怒られちゃう」


「その子? 誰……?」


「あなたの抱いているその子よ。大人しく渡してくれない?」


「何言ってんすか、まじで」


 イライラしてくる。傷口が熱を帯び始めたせいか、謎の煙を吸いすぎたせいか。頭がくらくらして働かない。夢かこれ、とすら思えた。この赤い女は何の話をしている……?


「巻き込んでんじゃねえよ……。この人は普通の女子高生だから」


「普通の女子高生? 〝市ヶ谷すず〞が? ふふふ。おもしろぉい」


「……おもしろくねえし。腹立つなこの人……」


 しかし女は確かに言った。すずの名前を。


「……もしかしてあなた、本当に彼女のこと、知らないわけ?」


 不機嫌に眉根を寄せる千樫の顔を見て、紅は「あらまあ」と手の平を合わせる。

「異能兵器はご存知でしょう? 人類に終末をもたらす五人の子どもたち。日本の保有するその一人が、あなたの抱いている女の子よ」


 紅はにんまりと口の端を吊り上げる。頰の傷が、その凶悪な笑みを助長させた。


「その女の子こそ、月をかじった異能兵器――インデペンデンス・デイ」


「へえ……?」


 千樫は曖昧に相槌を打った。

 ――インデペンデンス・デイ? 市ヶ谷さんが? 何それ。


「いや知らねえっつうの。よく見ろこの人は〝市ヶ谷さん〞だ。普通の女子高生だよ。触手が生えてるわけでもなければ、月かじれるほど巨大でもねえ」


「あなた、異能兵器を宇宙人か何かだとでも思っているの? 違うわ。異能兵器とは、ある日突然、世界を滅ぼせるほどの能力に目覚めた子どもたちを差すの。彼女たちはれっきとした人間よ」


「……ふうん?」


 すずはいまだ千樫の腕の中で眠っている。すう、すうと微かに聞こえる寝息。この穏やかに眠る少女が月をかじった……? 女の言葉を信じることなどとてもできない。


「わからないかしら。その子はあなたの身に余る。大人しくこちらへ渡しなさい、と言っているの。そうすれば、あなたは無事に階段を降りることができるわ。これは警告なのよ、学生さん」


 ええと、たしか……。千樫は授業の内容を思い返した。

 異能兵器の力は核兵器にも匹敵する。だからこそ、その力は他国から狙われている。各国は異能兵器を巡って、水面下で睨み合っている……――。

 ならばこのテロは、すずを狙って行われたものなのか。エレベーターを孤立させ、スパイたちが誘拐する手はずだった? だからあの煙で、眠らせた……――?

 千樫は頭を振った。すべては想像でしかない。それもすずが兵器であることが前提の。


「殺されたくなければ、その子を足元に降ろしなさい。三秒だけ猶予をあげるわ」


 ただ一つ。「すずを渡せ」という要求の答えだけはわかり切っている。


「三――」


「お断りだよ、バカヤロウ」


「え早っ……」


「異能兵器が宇宙生物じゃなかろうが、どうしたってこの人がそんな、月をかじる化け物には見えねえだろ。バカじゃん?」


「……そう。残念だけど、舐なめられちゃったみたいね。……警告はしたわ」


 敵の狙いが明確になり、頭が冴えた。

 ぼうっとしている場合ではない。千樫はすずを抱き直し、赤い女を睨みつける。そいつがすずを奪い去ろうというのなら、自分はただ護るだけである。

 ――けど、どうやって……。


「……走れる?」


 腕の中から微かな声がして、千樫は視線を落とす。


「起きてたのか――」


「合図するから、そのまま走って。真っ直ぐに」


 すずは身動きせず、千樫の腕に抱かれたままそれだけを言った。

「真っ直ぐ走って」とはつまり、紅に向かって突っ込めということか。

 たしかに、ここから離れるには紅の後ろにあるメインストリートを突っ切るのが手っ取り早い。しかし、そうすると銃を構えた男たちの中を進まなければならない。

 いくら速く走っても撃たれそうだけど……と逡巡する千樫に、すずが言う。


「私を信じて。走って」


 紅がイスから立ち上がり、中国語で叫ぶ。

预备ユイーペエイッ」

 紅の挙げた片腕に従い、男たちが銃を構え直した。

 その銃口は、すずを抱く千樫に向けられている。

フアンッ――!」

 紅が片腕を振り下ろす――と同時に、すずが腕を振り上げた。

 瞬間――男たちはすずの命令に従うように、銃口を天井に向けた。

 射出された無数の銃弾が、天井を穿うがつ。ダダダダダダ――!

 瓦礫が弾け、男たちの頭上に降りそそぐ。舞い上がる粉塵に視界が遮られ、一同は混乱状態に陥った。千樫には理解できない言語で、怒声と戸惑いの声が飛び交う。


「今、走って……!」


 すずが指差したのは真っ正面。フロアを区切るメインストリート。


「ぬうぅぅぅうっ……!」


 傷を負った体に鞭を打ち、千樫は正面切って走り出す。

 すぐ脇を通り抜けた千樫に紅が気づいて、声を上げた。千樫の背を指差し、部下たちへ命令する。中国語で、あいつを撃て……――!!

 腕の中ですずが体を起こし、千樫の首にしがみついた。その肩越しに紅を見る。

 そして一度振り上げた腕を、勢いつけて振り下ろす。

 その動作に応えて、銃弾を受けてボロボロになった天井が、大きく崩れ落ちる。真下にいた男たちがこぞって押し潰され、さらに大量の粉塵が舞い上がった。

 背後から聞こえた悲鳴と絶叫。天井の崩れた破砕音に、驚いた千樫は振り返る。


「え、何……!? 何が起こってんの!?」


「……何でもないよ。走って」


 すずはガスマスクで表情を隠したまま。

 千樫の耳元に聞こえた声は、くぐもっていた。

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