07
エレベーターが激しく振動し、乗り合わせた人たちから悲鳴が上がる。
「ぬおっ……!?」
やがて揺れは収まった。しかしいつまで経っても、エレベーターのドアが開かない。
「……もしかして、止まった?」
階数案内の電光ボードや、エレベーター内の薄ぼんやりした明かりはついたまま。
しかし操作パネルが消灯している。屋上を示してボタンが光っていたはずなのに――。
カップルで乗車した若い男がすずを押し退け、操作パネルの呼び出しボタンを押した。
「もしもーし! マジかよ、冗談だろ。もしもーし!!」
スピーカーからは何の返答もなかった。
遠くに聞こえるけたたましいベルの音と、よく聞き取れないアナウンス。それから、たくさんの人が叫ぶ声。さらに爆発音が続いた。
「……エレベーターの故障じゃないのか……?」
状況が解らない。焦燥を募らせた人々がざわつき始める。
「テロ? 地震か?」――。
「開けらんないの? そのドア」――。
「落ちないでしょうね」――。
「怖いよ」「暑……」「救助はまだ?」「息苦しいわ」――。
千樫は深呼吸を一つして、気持ちを落ち着ける。
「だっ……あの、大丈っ、夫……? ケガとか」
「……大丈夫。辰巳くんは……?」
名字が呼ばれ、千樫の心臓が跳ねる。
すずが自分の名を呼んでくれたのは、卒業式前日を含めて二度目だ。喜びを嚙みしめつつ、表情が緩まないよう気を引き締めた。が、あわよくば自分も名前を呼びたい。
「俺は、超大丈夫……。全然平気。全然。だからあのいち……市ヶ谷さん、も。落ち、落ちつい――」
「うん……。桜田さんや氷川くんが心配だね」
「……連絡してみる」
千樫はラインアプリで夏都との通話を試みたが、繫がらない。メッセージをしたためた。
――無事か? 俺たちはエレベーターに閉じ込められてる。
「……ごめんね」
「……?」
不意にすずは謝ったが、千樫にはその理由がわからない。
「……こんなことになるなんて」
「どういうこと……?」
「……」
すずは涙目でうつむいたまま。しかしくちびるはわずかに震えていて、何かを言おうとしているのはわかる。
――もしかして、パニクってんのか……?
「落ち着いて。聞くから。ゆっくりで、いいから」
「ん……」
すずは胸に手を当てて、ほう、と息をつく。
それからそっと階数案内ボードを見上げ、とても小さな声でつぶやいた。
「……私、来たことがある。家族で。でもたぶんって、言ったでしょう?」
「おお。ちっちゃいころ……?」
「うん、ちっちゃいころにも来た。でも覚えてない原因は、ちっちゃかったからじゃなくて。私、覚えてないんだ。家族のこと。何もかも。忘れちゃった」
「何も……かも?」
「ん。顔も、声も。何て呼んでいたのかも。私には、二歳上のお姉ちゃんがいたんだって。けど覚えてない。すごく仲がよかったんだって。いつも一緒にいたんだって。けど、ぜんぜん覚えてないの。私へのお手紙とか、一緒に写った写真を見ても、違和感しかなくて」
「記憶喪失……?」
もしかして深刻な状態なのか、と千樫は不安を覚える。
すずは千樫の心配を笑い飛ばすようにほほえむ。しかしそれは、自虐的にも見える。
「家族以外のことは覚えてるよ? 家族とは……縁を切られたんだ。ある方法で、強制的にお互いの記憶を消された……。私の存在が、あの人たちを苦しめていたから――」
一度間を空けたすずは、意を決したように続ける。
「……私が、異能へいっ――」
――ラ、インッ! と千樫のスマホが鳴って、すずは言葉を飲み込んだ。
「あ、わりぃ。無視して……」
「……んーん。きっと氷川くんからだよ。心配してる」
すずの言った通り、間の悪いメッセージの送信者は夏都だった。
――こっちは無事や。桜田もな。上の階が爆発したらしいわ。
「……爆発……したって」
「……穏やかじゃないね」
簡単にやり取りをして、情報を交換する。二人はすぐにビルの外へ避難することができたらしい。ケガ一つないそうだ。すずにそう伝えると「よかった……」と胸に手を当て安堵していた。
――救助隊の人らめっちゃ来てはるけど、もうパニック状態や。助けなんか待っててもいつ来るかわからんぞ。自分らで出られへんの?
出られるものならもう出ている。
返信を打とうとしたそのとき、エレベーター内に舌打ちを聞いた。
「……どうなってんだよ、これ」
不安げな中年男性の顔を、スマホの灯りが照らしている。どうやらニューストピックが更新されたらしい。スマホをいじっていた人たちが一斉にニュースを閲覧し、千樫もそれに倣う。
ラティメリアタウン第三ビルでの爆発事故は、並ぶ見出しの最前列にあった。
速報と書かれた記事は情報こそ少ないものの、複数の爆発があったことや、現在進行形で救助活動が行われていることを伝えている。
掲載された写真には、ビルが写っていた。中腹より少し下の辺りから、濛々と上がる黒い煙。その建物が自分たちの閉じ込められているこのビルだとは信じられないし、信じたくもない。
エレベーター内の人々は、不安をより一層かき立てられた。
「ここを出よう」と声が上がる。ドアをこじ開けようと提案する人たちと、下手に動くべきじゃないと主張する人たちとの間でいさかいが始まった。
「大丈夫か?」
尋ねるとすずは、「うん」とうなずく。
壁際には、ベビーカーをかたわらに置いた母親が立っていた。
すず越しに見たその人に違和感を覚える。母親の目が、すずの背中に向いていたのだ。
自分の旦那が今まさに、言い合いを始めたところだというのに。
――何で、旦那よりも市ヶ谷さんを気にしているんだ……?
怪訝に思っていると、母親の手がすずの首筋へ伸びた。
とっさに伸ばした千樫の手が、母親の手首を摑む。
「あんた、何して――」
ハッと驚いた表情を見せる母親。見れば千樫が摑んだその手には、万年筆が握られている。ただしペン先の代わりについていたのは、注射針だった。
「え……? 何これ?」
いかにもスパイが持っていそうな、いかにも怪しい武器である。
千樫はベビーカーへ視線を落とした。この騒ぎの中、泣きもしない赤子は布で覆われている。母親を捕らえたのとは反対の手で、布をめくった。
「…………え」
それはホンモノではなく、クオリティが低すぎて不気味な、赤ちゃんの人形だった。
何この家族ごっこ。何のために? 何がしたくて?
頭が混乱する最中、背後で「きゃ」とすずの悲鳴を聞く。振り返ると、すずを背中から抱きしめるようにして、中年の男がしがみついていた。
あれはたしか――ニセモノの母子にくっついていた男。
「てめぇ……!!」
脊髄反射で放たれた千樫のこぶしはすずの頰をかすめ、男の鼻っ面を殴り飛ばした。
弾かれた男は壁に背をぶつけ、ずりずりと床に崩れ落ちる。その手からポロリと転がり落ちたのは万年筆だ。やはりいかにも怪しげな、ペン先が注射針の万年筆……。
「……んだこいつら……? ただの家族連れじゃない、よなあ……?」
ケホ、と誰かが咳き込んだ。
ベビーカーの赤ちゃんが、その口や耳からシュー……と煙を噴出している。
「こええよ……! 何が起こってんだいったい……!?」
いつの間にかエレベーター内には、白煙が立ちこめていた。
人々がパニックに陥る中、そうでないものが二人いた。家族連れを演じていた、父親役と母親役だ。その顔につけているのは、顔全体を覆う厳
いかついガスマスク――。
二人の男女は、様子をうかがうようにこちらを凝視している。千樫と、千樫に護られるようにして後ろに立つすずを。
男と女の間で交わされている言葉は――日本語ではなかった。
「えー……? 理解が追いつかねえんだけど……?」
ガスマスクをつけていない人たちが、次々と意識を失い倒れていく。
千樫はハッとしてジャージを脱ぎ、袖口で口元を押さえているすずの頭にかぶせた。
「うぇっ!? ちょ……待って、辰巳く――」
「しばらく息止めてろ! 煙絶対、吸うなよ!」
言って千樫は、息を大きく吸い込んで頰を膨らませる。
濃度が高くなる前に動けるだけの空気を吸い込んで、その短い間に、
――ガスマスクを奪う。
決断した千樫の動きは速かった。
最もたやすそうな相手を狙い、母親役の女へと摑みかかる。
しかしこの女。やはりただの主婦ではなかった。腕をいなされ、手を弾かれる。今までのケンカ相手とは違う、理に適
かなった体の使い方。拳法なのか、空手なのか。何かの武術であることは明白。
――まじかこの人、ホントにスパイかよ!?
腹部に肘鉄を食らい、少しだけ息がもれる。
しかしそれでも、千樫は足を踏み込んだ。
――けど変わんねえんだよ、誰が相手だろうがやることはっ。
女のマスクのレンズに、ぷっとツバを吐きつける。
そして怯んだ女の鎖骨に、思いっきり肘を振り下ろした。
卑怯上等。女は殴らないだとか騎士道精神だとか、そんな格好つけてやられるくらいならよろこんで悪に墜ちよう。時間がないのだ。
エレベーター内には、煙を吸って倒れた人の山ができている。
千樫は倒れた女のガスマスクを外し、父親役を牽制しながらすずのそばに屈んだ。
ジャージをめくるとすずは、すうすうと寝息を立てていた。小さな胸が上下している。
――眠っているだけ……だよな?
千樫は男を睨みつけながら一度ガスマスクを自分につけ、深呼吸する。そしてすぐにマスクを外し、すずの顔に装着した――直後。
千樫のこめかみに、銃口が突きつけられた。
これまたスパイが使いそうな、オモチャみたいな小さな銃だ。だがここにきてニセモノということはないだろう。男は引き金に人差し指を添えながら、何やら尋ねた。
中国語だか台湾語だか……どっちにしろ千樫にはわからない。
だから何を訊かれていたとしても、頰を引きつらせて笑う千樫の返事は変わらない。
「は? そんなちっこい銃で、大山の眉なしムンバニー止められると思ってんの?」
男が引き金を引く――直前に、千樫は男の腕を弾いていた。
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