02

 それは、エビクリームコロッケから始まった恋だった。

 異能兵器による〝月かじり事変〞から遡ること八年前。

 二〇一一年、初夏。辰巳千樫、小学二年生のころ。

 千樫の通う小学校では、毎月生徒たちに決まりごとを課していて、その月に掲げられた

スローガンは〝給食を残さず食べましょう〞だった。

 残飯ゼロを目標に、牛乳、惣菜、米一粒にいたるまで、そのすべてを食べきらなくてはごちそうさまを言わせないという、まるで拷問のような決まりごとである。

 好き嫌いはそれぞれだ。ピーマンがかじれない子もいれば、牛乳を飲めない子もいる。

 千樫は先生の目を盗み、それらを食べてやっていた。

 礼を言われ、ぶっきらぼうに答える。


「……ああ、じゃあ代わりに。エビが出たら食べてよ」


 好き嫌いがそれぞれならば、それを補い合えばいい。各々苦手な食材は、机の下で秘密裏に取り引きされるようになり、ここに〝嫌いなもの同盟〞が発足した。

 千樫は誰かの嫌いなものを食べてやる代わりに、自分の苦手なエビを渡した。同盟はうまく機能していた。エビのマヨ和え、小松菜のエビ添え、エビフライ。献立にエビが登場するたびに、こっそりそれらを密輸出する。

 しかし千樫は、エビを侮っていた。やつは、思わぬところからその姿を現す。


「うそだろ……? 何でこいつがここに……?」


 千樫はかじったコロッケの断面を見下ろし、声を震わせた。

 献立表には〝クリームコロッケ〞とあった。たしかにコロッケの中には、まろやかなホワイトソースが詰まっていた。……しかしソースにまぎれて隠れていたのは、背中を丸めた――小エビ!!

 ぷりっぷりとした異様な歯ごたえ。なめらかなソースに混じるエビ風味。そう。それはただの〝クリームコロッケ〞ではなかったのだ。つう、と千樫の頰を冷や汗が流れた。

 大人は巧妙にエビを隠す。何と汚いやり方だろうか。


「だったらちゃんと書けよ、〝エビクリームコロッケ〞ってようっ……!!」

 

 あまりの悔しさにくちびるを嚙んだ。助けを求め、クラスメイトへ目配せする。

 それぞれが協力し合い、それぞれの苦手食材を食べて補う――それこそが嫌いなもの同盟の根幹をなす約束。千樫のピンチに、仲間は駆けつけてくれるはずだった。

 しかしコロッケを密輸出する直前、誰かの「間接キスじゃん?」というつぶやきが仲間たちの動きを止めた。献立にエビの表記がなかったせいで、千樫は完全に油断して、一口目を大きくかじってしまっていたのだ。

「……? ……?」

 机の下でコロッケを泳がせる千樫は一人戸惑った。誰も手を伸ばそうとしない。

 かつて苦手なメニューを食べてやったものたちだ。恩があるはず。義理があるはず。

 なのに友はここにきて、千樫を避けるように目を伏せた。

 ジュースを回し飲みするだけで「間接キッスぅ!」だの「ホーモー」だのと騒ぎ立てるような連中が、かじりかけのコロッケを食べてくれるはずがなかった。

 仲間たちは千樫を見捨て、保身に走ったのだ。同盟は崩壊。千樫は完全に孤立した。

 教室の中でただ一人だけ、給食時間が終わらない。周りが次々と「ごちそうさま」を言って立ち上がる中、千樫だけはコロッケを前にして座り続けた。

 例えばエビ嫌いがアレルギーによるものであれば、あるいは免除もあり得たのかもしれない。しかし悲しいかな、千樫のそれはただのエビ嫌い。食べるしかなかった。

 少しでも消費しようと口元に近づけ、えずく。

「おぅえっ……」

 エビ好きにはまったく理解できないかもしれないが、千樫にとってそれは自傷に等しい。

 体がエビを食べ物として認識していないのだ。それでも小さく一口。もう一口……。

 やがて千樫の食器をのぞいて片づけが始まり、千樫の席をのぞいた机が、教室の後ろに集められる。給食時間の次は、掃除時間だ。

 クラスメイトたちは、いまだ給食を食べ続ける千樫の周りでホウキを動かす。千樫のいる机を避けて、モップがかけられる。

 ――誰からも見えてねえのかな、俺……。

 教室の真ん中辺りにぽつねんと一人残された千樫は、明らかに浮いていた。

 人を信じることなかれ。人に優しくするなかれ。協力、同盟、助け合い? そんなものは、お互いを利用し合っているだけのお友だちごっこだった。価値があるから生まれる共生。価値のなくなったものは、こうしていとも簡単に捨てられる。

 何ここジャングル? 弱けりゃ死ぬの? 小学二年生にして、無情なる世の理を知る。

 窓の外から、早くも掃除を切り上げ、ボール遊びを始めた仲間たちの声が聞こえてくる。

もう完全に、千樫のことなど忘れてしまったらしい。

 惨めすぎて笑えてくる。誰にも認識されないまま、えっへっへと笑っていると今度は涙がにじんだ。人に心許すことなかれ。信じるべきは己の力のみ。

 ああこの世は、信じる価値がない……!! ――と。

 ぴょこん――と机のフチから、突然顔を出した女の子がいた。

 千樫はぎょっとして体を仰け反ぞらせる。


「そんなにまずいのー? それ」


 少女はつぶらな瞳をしばたたかせ、前髪を揺らして小首をかしげる。

 千樫は慌てて目元を拭う。


「……うるさい。ほっとけ」


 何だこいつは。同じクラスだが、今まで一度もしゃべったことはないはずだ。モップを

抱いているところを見ると掃除当番なのだろう。邪魔だと言われているような気分。


「コロッケ、食べられないの?」


「うるせって。あっち行けよ」


 やけに距離感の近い少女に、いら立ちをぶつける。

 しかしこの子はよほど鈍いのか、拒絶されても怯むことはなかった。

 立ち上がり、「どれどれー?」とフォークを千樫の手ごと摑んで、コロッケを自分の口

元へと持っていく。そして、「あーん」と大きく開いた口でコロッケをぱくり。


「え……?」


 少女はもぐもぐと頰を膨らませ、味を確かめるように目を細めた。

 ごくりと飲み込んで、眉根を寄せる。


「……うーん。たしかに、まずいぜ」


 そりゃそうだろう。皿の上で持て余されたコロッケは、ベタベタと油ぎっていた。誰がこんな食べかけのコロッケを、うまいというのか。

 なのにその子は残りのコロッケを一瞬のうちに平らげ、ごちそうさまと笑った。

 呆然とする千樫に背を向けて、教室のすみに去っていく。


「……何だったんだ、あれ」


 何事もなかったかのように、モップがけを始める少女。もしかしてあの子にとっては、エビクリームコロッケを食べてあげるという行為はそう、特別なことではなかったのかもしれない。モップがけのついでにできるような、簡単なこと。

 しかし千樫にとってそれは、奇跡のようなできごとだった。

 少女の名は、市ヶ谷いちがやすずといった。


 誰からも避けられていたあの教室で、その少女にだけは、千樫の姿が見えていた。

 その日から千樫は、すずから目が離せなくなった。


   ×   ×   ×


 何度も話しかけようとした。

 コロッケを食べてくれてありがとうと、せめてそれだけでも伝えたかった。

 しかし何たるへたれっぷりか。あの子を前にすると口が回らない。目が合うと過剰に緊張してしまうし、その笑顔を見ているだけでなぜか泣きそうになる。


「……何これ病気?」


 その原因が、あの子にあることは明白だった。

 あな恐ろしや市ヶ谷すず。――彼女は触れもせず千樫を壊す。なのに意識せずにはいられない。まるで中毒者。すずジャンキーだ。一度も服用したことはないはずだけど。

 千樫は、ただ遠くから見つめていた。もはやそれだけで満足だった。

 あの子は――市ヶ谷すずはよく笑う。

 友だちが多く、国語が得意。運動は少し苦手なようだ。いきもの係としょくぶつ係を兼任していて、いつも水槽の魚にエサをやったり、観葉植物に水をあげたりしている。

 虫は得意。植物についたアオムシは手の平に乗せて外へ逃がしていた。

 歳の近い姉とよく夜更かししてアニメを鑑賞し、両親に怒られるらしい。

 二年生以降同じクラスになることは適わなかったが、すずのクラスの学級文集は、何をしてでも手に入れていた。かわいらしい丸文字で綴られたすずの詩や作文からは優しい人柄がにじみ出ていて、どれをとっても名作だった。

 すずはずっと〝さよならムンバニー〞という、月に住むうさぎを主人公にしたアニメが好きで、筆箱や手帳も、そのキャラクターが描かれたものを愛用していた。

 それは小学校高学年になっても変わらなかったから、千樫はクリスマスやすずの誕生日にムンバニーの関連商品を購入し、仲良くなるきっかけとしてプレゼントしようと機会をうかがっていた。

 そしてその目論見は、いつだって直前で躊躇われ失敗する。

 いきなりプレゼントなど贈って気味悪がられないだろうか? 何と言って渡すべき? 

小二んとき、コロッケ食べてくれてありがとう? ――いつの話してんだよ。

 このときはもう高学年。目が合いそうになったことは何度もある。そのたびに視線を逸らし、誤魔化してきた。さすがに認識はしてくれているだろうが……話せたのはコロッケを食べてくれた、あの一度きり。

 すずにプレゼントを渡す最大のチャンスは、小学六年生のとき。

 卒業式の前日。空がまだぼんやりと白む早朝に訪れた。

 たまたま朝早くに登校した千樫は、窓際の観葉植物に水をあげているすずを見つける。

 ――……うーわ。超ラッキー。

 早起きはしてみるものである。加えていつも教室へ向かうとき、一目でもその姿が見られたらとすずの教室の前を通るくせが幸いした。まさかこんなに朝早くに登校しているとは。

 早朝の教室に人はいない。

 そのまま通りすぎようとした千樫だったが、ハッとして廊下で足を止める。

 ――今か? もしかして……声をかけるなら……今っ!?

 赤いリボンと包装紙に包まれたムンバニーストラップは、いつでも渡せるよう常にランドセルに忍ばせてある。

 開きっぱなしのドアからすずの教室に足を踏み入れて、勇気を振り絞った。


「あ……あのっ……」


 しかし声が小さすぎたのか。窓際のすずはじょうろを植木鉢にかたむけたまま。

 もう一度声を上げようとした――が、千樫はその後ろ姿に違和感を覚えた。

 朝の冷たい空気にそよぐ柔らかな髪。肩幅の小さなシルエット。その姿は控えめに咲く

花のような――いつもと同じすずのはずなのに。何だか今日は、ひどく悲しい。

 ――もしかして、泣いてる……?

 振り返ったすずが千樫に気づき、声を上げる。


「えっ……」


 その顔を見て、千樫は息を吞んだ。やはり。すずは目を赤く腫らしていた。植物に水をやりながら、肩をふるわせ泣いていたのだ。

 すずが慌てて目元を手の甲で拭い、尋ねる。


「何で……どうして? 辰巳くん」


 心臓が跳ねる。今。俺の名前を呼んだ。――市ヶ谷さんが俺の名前を。

 覚えていてくれたのだ。弾けて溢れる喜びと同時に、早くここから離れなくてはという、強迫観念にも似た焦りを感じる。

 完全に場違いだ。彼女がなぜ泣いているのかはまったくわからないが、ただ、ムンバニーストラップを渡す空気でないことはわかる。

 人の少ない早朝だからこそ、この人は――この女神は人知れず泣いていたのだ。

 一介の人間がおいそれと声をかけていいような状況ではなかった。神聖な場に足を踏み入れ、ムンバニーストラップを渡そうとした自分を恥じる。っていうか何だムンバニーストラップって!?

 千樫が差し出していた赤いリボンの包装紙に気づき、すずは小首をかしげた。


「……それ、何?」


「な、何でもねえし」


 千樫はポケットにプレゼントを隠し、踵を返して教室を出る。

 廊下を早足で歩きながら、超絶反省していた。

 ――あ、ダメだテンパりすぎて印象最悪じゃなかった今?

 ダメだダメだ、やはりダメ。あの人を前にすると、緊張しすぎてしゃべれない。

 ――だって卑怯だろ、あんなの……!

 女神は泣き顔さえ、かわいすぎたのだった。



 すずはなぜ泣いていたのだろう。

 卒業を前に校舎での思い出を懐かしんで? 友だちとの別れを悲しんで?

 確実な理由はわからないが、胸を痛めていたのは明白だった。

 すずのあんな顔は初めて見る。どうにか元気になってほしくて、しかし自分に何ができるのかわからなくて。結局、今まで貯めたお年玉をすべてはたいて、背負えるほど巨大なムンバニーのぬいぐるみを買った。

 重いだろうか。いや、小二のころに助けてもらったお礼だ。今まで渡せなかった分の誕生日プレゼントだ。卒業記念だ。泣いているところを邪魔してしまった詫びでもある。

 ――ストラップなんかじゃダメだ。

 何を贈ればよろこんでくれるのか、わからない千樫はサイズに頼った。これだけ大きなムンバニーなら、必ずやあの子を笑顔にしてくれるに違いない――。

 巨大なムンバニーを背負って卒業式に向かう。

 式にぬいぐるみを持参してきた少年にどんな悲壮を感じ取ったのか、周囲の人々は優しかった。大きすぎるムンバニーを置くため、保護者席にイスまで用意してもらった。

 まるで死んだ親の代わりのように鎮座するムンバニー。いや親死んではいないけれど。

 あれはプレゼントなのだ。すずに喜んでもらうための贈り物。千樫は、式の会場である体育館を見渡す。しかしかの可憐な女神の姿は見当たらなかった。

 すずは卒業式を前に、転校してしまっていた。

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