第8話 素麺談義
昔から無類の麺好きなのだが、素麺は私の中でも一、二を争う好物である。
素麺といえば夏だが、私は冬以外ほとんど素麺を食べている気がする。
素麺はいい。単純かつ素朴だが、飽きのこない味わいがある。味うんぬんというよりも、喉越しと食感が好きだ。
素麺はこしが命だ。
ラーメンやうどん、蕎麦と比べ素麺は段違いにこしが命である。こしのないふにゃふにゃの素麺など、論ずるに値しない。
温かくして食べる温麺となるとまた話は別だが、素麺はあくまで冷たくして食べるもの。
ツユも麺もキンキンでなくてはいけない。時たま例外的に温かいツユも食べるがあくまでバリエーションのひとつとして存在するだけで、基本はツユもよく冷えてなくてはいけない。
温かいツユのひとつとして最近編み出したお気に入りの味がある。
豚バラとナスをごま油で炒めチューブの生姜を入れる。肉に火が通ったらそのままひたひたになるまで麺つゆを入れて煮込む。一煮立ちで完成。この簡単かつ単純なツユで食べる素麺が、驚くほど美味い。
もうひとつ。
温かいのではないが、山形で有名なだしを薄めに作った麺つゆに入れて食べる素麺もまた美味い。だし、というのは山形の郷土料理できゅうりやナスなどの夏野菜やミョウガや生姜などの香味野菜を細く刻んで醤油で和えたものだ。かなり細かく刻むので作ると手間だが、最近はスーパーなどで出来合いのものが売っている。
何しろ素麺というのは、夏の気力がない時に手軽に涼しく食べれる物でなくてはいけない。
多少ならともかく、手間をかけ過ぎては本末転倒である。
そんな、子供の頃から慣れ親しんだ素麺の食べ方に最近衝撃が走った。
とあるテレビ番組で某料理研究家とやらがこう言ったのである。
「茹で上げてしめた後の素麺は水につけてはいけない」と。
茹でてしめた素麺は水につけず蕎麦のようにザルに盛れというのだ。
ジーザスクライシス。
こんなことがあるだろうか。と頭を抱えるほどだった。
妻の話では素麺を水に放すのは関西圏の人が多いそうだ。ちなみに妻の実家でも水に放す。しかし我が家は江戸の家系。母も祖父母も確かに水に放していた気がする。
父はどうだったか。亡き父は関西出身だ。
思い出そうにも、父親が素麺を食べていた記憶がない。母に訊ねる内容としては、あまりにくだらない。
そのうちに、こう思うようになった。
どうでもいいな。と。
料理研究家がどう言おうが、世間がなんと思おうが関係ない。
どうでもいいな 。と。
素麺くらい好きに食わせろ。余計なお世話だ。
カッピカピに乾いた素麺なんぞ、誰が食いたいんだ。どこに涼があるのだ。
水に泳いでこそ素麺。氷が浮いてこそ素麺。
水を吸って延びてしまうというならその前に食べてしまえばいい。サッと作れてサッと食べるのが素麺の醍醐味ではないか。
優雅にするするとすするものではない。
暑さにやられ、気力と食欲を失くし、心身ともに気だるくなってしまった時にこそ食べるから素麺のよさが分かる。
素朴で淡白な素麺をネギやミョウガを加えてすするもよし。ネギを刻むのすら面倒なら、生姜のチューブでもぶち込めばいい。
キラキラ光る素麺をズズズーとかっこむと、清涼感と喉ゴシが一気に活力を蘇らせてくれる。
素麺が嫌いな人はきっと子供の頃に美味しくない素麺を食べさせられていたのだろう。
私からすればただただ気の毒である。
素麺とは、それほどに素晴らしい食べ物である。夏の風物詩であるとともに、かけがえのない日常の食べ物なのだ。
風鈴の音と扇風機。そして透き通ったガラスの器に盛られた素麺。
これこそが、日本の夏なのだ。
続く
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