小西 4話
独特の浮遊感と、内臓の位置がずれる感覚は何歳になっても慣れない。
目を閉じているからか、とても長く感じた。それ等が過ぎ去った後の背中にくる筈の衝撃に備え、強張った体はふと疑問を覚える。
長過ぎる。いや、この水中と空中の間にいる様な浮遊感は感じた事がない。
死んだのか──
目を開けるのが怖かったが、瞼の裏で感じる光は太陽を感じさせた。
死後の世界を覚悟し重い瞼を上げるとそこには、コンクリートの様な色の木が生い茂っていた。
塀や──
脚立や、巻き込まれた不運な職員。恩師や仲間も大切な人でさえ──
それまで俺の頭を埋め尽くしていた物を、目に飛び込んできた光景が全て吹き飛ばした。
浮いている?
シャボン玉の様な虹色の球状の物の中に自分の体が包まれ、浮遊しているのが理解できた。
フラフラと浮遊したシャボン玉の様な物は、どこか知性を感じさせる動きで俺を吐き出す。
澄んだ空気が鼻から入り、植物の独特の香りが辺りを満たしてるのを感じる。ふと目線をやると、虹色に光るシャボン玉がフラフラと森の奥へ消えていくのが見えた。
どこへ行くのだろうか。
吐き出されてすぐに、ここがそれまで俺が生きていた世界で無いことは理解できた。この妙な世界も、空気や重力には変わりは無い様に思える。
俺は驚きや戸惑いよりも、期待してしまっていた。この現実離れした世界に、未練がましく涼子と志乃の姿を探している。
ここが死後の世界ならば──
大した実感も無い死後の世界は、地獄なのか天国なのかすら理解できなかったが、それでも灰色の木達から射し込む木漏れ日を見ると、神秘的な何かに俺は魅せられている気がする。
瞼を開けてから感じていた吐き気が、段々と強くなっている事に気付いた。手足も痺れてきている気がする。
それから数分で動けなくなった。
痺れは痛みに、吐き気は臓器すら冷やす寒気に変わっている。
やはりここは地獄か。
悪い予感が頭を掠めるが、同時に納得もした。
死後の世界でも死ぬんだろうか。それともこの苦しみがずっと続くのが、地獄の醍醐味なのかもしれない。
どれだけ時間が経っただろう。定期的にふと体が解放された様に軽くなる。その度に光を見た気がしたが、その現象はすぐに消え、苦しみはまだ続いていた。
落としては上げて、精神を壊したいのだろうか。
誰の思惑かは分からないが、苦しみから健全な状態に戻されるのはとても効果的だった。
終始苦しみを与えられるよりも精神的に堪える。
苦しくて、寒くて──
やがて吐き出す物も無くなったが、それでも頭から大切な人の顔が消える事は無かった。
この場所にも夜はあるのか、辺りが暗くなるととても冷えた。木の葉や枝が風に揺られて擦れる音がやけに不気味に聞こえ、耳を支配する。
朝日が射す頃には「死」が迫っているのを感じた。
この世界に死の概念があるのかは分からないが、もう何度目か分からない程に体感した、健全な状態へ戻された時に頭上に気配を感じ視線を向ける。
そこには小柄であろう初老の男性が、無言でこちらを見下ろしていた。
肌は浅黒く、和服を思わせる服装は堅物そうな顔にとても馴染んで見える。
数秒目を合わせた。もう慣れた感覚が寒気と激痛を連れてくるのが分かる。
目の前が暗くなってゆく──
また夜が来たのか。ふっと浮遊感を感じたと同時に、肉が焦げた様な香ばしい匂いがした。
男性の匂いだと気付いたと同時に、背負われている事に気付く。この小柄な体のどこにそんな力があるのだろう。閻魔大王か何かの遣いだろうか。
様々な事を考えていると、やけに自分の睫毛の影が気になる事に気付く。
瞼が降りてきている──
意識が飛びそうだ。
死ぬ──
そう思った瞬間、目の前が真っ暗になった。
──瞼を開ける感覚はどうだったか。息をしていた自分を思い出して、もはや有りもしない胸が苦しく喘いだ気がした。
無音は時間を永遠に感じさせる。
初老の男性に担がれてから闇が訪れたが、意識はずっとある。この何も見えない世界で、ずっと。
俺の体はどうなったんだろうか。あの男性は、死後の世界で体を奪う役割を担っていたのかもしれない。
意識だけこの世界に飛ばされたのだろうか。
死後の世界で死人に会うと言うことが、酷く遠い道に思えた。
実際にそうなのかもしれない。悪人と善人が同じ世界に来れる様な、都合の良い世界はどこにも無いだろう。
吉田さんは、あの後どうなっただろうか。
俺が要領良くできないせいで、手を汚させてしまった。
星さんと本山さんの事だから、上手く逃亡できたとは思うが普段からのんびりとしている谷内さんは大丈夫だろうか。いや、あの人は意外に物事の穴を突く所があるから大丈夫だろう。
白井が、中西さんの名前を出したのも気になる。何故、風呂場で横谷と二人でいる筈の中西さんを、「囮」と呼んだのだろう。
「囮」に間違いはない。ただ、俺達の思う時間稼ぎの「囮」と、白井が言った「囮」には別の意味が込められていた様な気がした。
事実、非常ベルが作動したにも関わらず、警備隊の姿も俺達は目にしなかった。
どれだけ考えても、俺に知る術は無いのだけれど。
この暗闇だけが支配する世界に、「時間」は無いのかもしれない。痛みや寒気は無くなったが、想像でしか無かった「地獄」はいつ終わるのか見当も付かず、本当に苦しくて苦しくて堪らなかった。
この暗闇に「時間」の概念があるのならば、どれだけの時間が過ぎただろう。音の無い世界だと思っていたが、違うみたいだ。とても遠くから、何かを叩く音が聞こえた。
初めは遂に気が狂ったのかと思ったが、その音に混じって男性の怒鳴り声が聞こえる様になった所で、幻聴でも良いと思う様になった。
とても長い時間が過ぎてから、次は寒気と体を火を炙られる様な熱を感じる様になったが、同時に俺は自分の体が存在する事に歓喜した。
相変わらず目の前は真っ暗だったが、時折聞こえる物音と男性の怒鳴り声、更に女性の声も聞こえる様になったと同時に、体が何かに包まれている様な感覚も感じる様になった。
その女性の声は何を言っているか分からないけれど、穏やかな声色で何故か心地よかった。
けれど、そこからが「地獄」だった。
感じた事の無い熱を体に感じた瞬間、体内の至る所に熱さを伴う激痛を感じた。もし涙を流せるのなら、子供の様に泣いていただろう。体を動かせるのであれば、奇声をあげながら暴れ回ったに違いない。
皮膚をまるで紙を千切る様に乱暴に裂き、深い裂傷の中に指を突っ込まれ、血管を引き釣りだしては新しい血管を詰められてる気がした。
暗闇の中で感じた感覚は間違っていないのかもしれない。酷くリアルで、熱く苦しい痛みは長く続いた。
意識すら、どこかに連れ去られていたのかもしれない。朦朧とした意識の中で、暗闇の先に光の熱を感じていた。
更に時間が経った頃、不思議と自分がもう目覚めれる事を悟った。しかし、心で恐怖を感じていた俺は、光を感じる瞼を開く事ができなかった。
しかしその状況が続くと、今度は瞼を「閉じている事」に苦しさを感じたが、覚悟を決め瞼を開くと直ぐに目が眩んだ。何度瞬きをしても、真っ白な光しか見えない。
暫くすると目の痛みは引き、自分が寝台に寝かせられている事を理解出来たが、同時に体や頭皮が油脂の膜でどろどろとしている事にも気付く。
この世界で初めて目にした、灰色の木の様な物を加工したであろう木材で囲われたこの場所は、寝台しかないが部屋の一室である事が理解出来た。
体が重りを外した様に軽い。自分の体の違和感に、胸が焼け付く様な気持ち悪さを感じた時
正面にある扉が音も無く響いた。
言葉を失った──
そこには凉子がいた。
涙は悲しい時よりも嬉しい時の方が、自然に出る事を知った。嗚咽を洩らして、まともに息もできなくなった俺を見て、凉子が血相を変えて扉の向こうへ引き返して行くのが見えた。
涙で前が見えない。思えばこの世界へ来てから、まともに視力が機能していない気がする。
もしもこの状況さえ地獄をより辛い物にする為の前座ならば、俺は立ち直れないかもしれない。
そんな事を考えるていると、目眩がした。貧血と思ったが、目の焦点が合わない。平衡感覚を無くした脳が出す嘔吐の命令に耐えれなくなり、横になり瞼を閉じると世界が回っていた。
許容力を越えた酒を飲んだ時に似ているが、辛さは比べ物にならない。
薄く瞼を開きながら荒い呼吸を繰り返す内に、凉子がどこへ行ったのか気になった。医者を呼んできてくれているのだろうか。それとも望まない再会だったのかもしれない。
新しい環境でうまくやれているだろう事が見て取れる甚平の様な和服は、良く似合っていて少し安心した。
それから暫く酩酊した様な状況に耐えていると、開けっ放しの扉から凉子と白髪の男性の姿が見えた。
凉子は英語の様な言葉で、白髪の男性へ一方的に話していたが、白髪の男性は数回相槌を打ち、寝台の前へ来て何かを呟いた。
俺の頭へ掌を向けまた何かを呟くと、男性の手がぼんやりと青白く光る。
その掌を見ていると強烈な眠気に襲われて、とても瞼を開けていられなかった。
また、眠るのか──
どれだけ眠っただろうか。次に目覚めた時には、凉子も男性も居なかった。
男性の掌の光、あれは何だ。
凉子が引き連れてきた人物である事や、男性の雰囲気からして邪悪な物では無いと信じたい。事実、空腹を感じる程に体の調子は回復していた。
以前の常識が通用しない事を、行動一つで理解させられた気がする。
あの掌からの光は、この世界での「常識」なのだろう。
しばらくして、部屋の小窓から陽射しが薄まると電気の無いこの部屋はすぐに薄暗くなった。霧がかかった様な思考が、時間の経ち方を忘れさせた。
控え目なノックが聞こえる頃には、部屋に暗闇が訪れていた。
ノックに返事を返すと、右手を光らせた凉子が寝台近くの小机に、光る石の様な物と湯気の立つ木の椀を置いて、落ち着かない様子で立ち去ろうとした。
「凉子」
俺が凉子の背に名を呼び掛けても、立ち止まるだけで返事はなかった。
「会えて良かった。本当にありがとう」
振り返った凉子は、困った様な表情で何かを呟く。英語の様な言葉は、俺には理解できなかったがどこか怯えている様に見えた。
そして、また一言呟き慎重に扉を閉めて出ていった。
あまり、歓迎はされていないのかもしれない。当たり前だ。
ここが死後の世界だろうと何だろうと、凉子には凉子の生きる道がある。死んでまで俺の様な人間に付きまとわれては、恐怖の一つも覚えて当然だ。
一体俺は凉子の姿を見て、何を期待していたのか。
早く体調を戻し、凉子の中から俺と言う犯罪者を記憶から消すべきだろう。
木の椀の中身は、何かをふやかしたスープだった。誰もいない扉に向けて掌を合わせる。
昔から慣れ親しんだ凉子の味はしなかったが、口にした液体が胃にすとん、と落ちるのを感じた。
この世界へ来てまともに活動していないが、スープを飲み終え、体に熱の様な物を感じる頃にはひどく瞼が重く感じた。
瞼を閉じると、体を暖かい何かで覆われている感覚に気付いたがすぐに夢の気配を感じた。
俺はやはり運が良いのだろう。
ここで凉子と会えた。
贅沢を言うならば、志乃に会いたかった。いや、もしかすると会えるかもしれない。涼子にこうしてまた会えたのだから。
志乃に会えるのであれば、俺はもう一度死んだっていい。
朝を告げる陽の光で目が覚めた。夢を見ていた気がするけども、全く覚えていない事を少し寂しく感じる。
ふと小机に目をやると、部屋を淡く照らしていた光る石は黒く焦げた様に染まり、もう光を放つ気配は無い様に思えた。
男性の光る掌や不思議な現象を目にしても、すぐに馴染む俺は、何か大事な物を前の世界に落っことしてきたのだろうか。
体を起こすと、自分の体じゃない様だった。本当に自分の体ではないのかもしれないが。
息を吹き掛けられれば、飛んでしまいそうに軽い。何かに包まれている気もする。
その感覚がどうにも気持ち悪くて、元の状態を思い出しながら腕や足を、軽く動かすが治りはしなかった。
少し前の地獄を思うと贅沢な不満だ。
控え目なノックの音にすぐ返事できた俺は、昨日の幸せにまだすがっていたのかもしれない。
けれど、どこかで覚悟はしていた。
涼子ではない誰かの姿を目にする事に。
扉を開けたのは、見知らぬ女性だった。凉子とは違いテキパキと光る石や、昨日の木の椀を片付け持ってきた皿を小机に置いた。
どこか作業的な雰囲気を感じたが、話し掛けてはいけない感じはしなかった。
「あの、すいません。凉子は、凉子はどうしてますか?」
作業的な物を感じたので、その女性にクールな印象を勝手に抱いていたが俺の声を聞くと驚いた顔をして、俺が言葉を言い終える頃には愛想笑いを浮かべすらした。
そしてペコリと頭を下げて去って行った。頭を下げた時に何か言っていたが、その言葉を理解出来ずにいた俺の頭にちらついた考えは、恐らく間違いない。
凉子はどうしてるか、その答えも知りたかったがそれを知るのは遅くなるかもしれない。
この世界では──
俺の言葉が通じない。
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