中西正樹 1話

 冬がそこまで迫っているのを知らせる様に、夏にはあれほど背伸びしていた雑草達も、どこか頭を垂れている様に見えた。


 地獄の夏を越えても、駆け足で地獄の冬がやってくる。

 中西が刑務所に来てから、風邪を引かなくなったと気付いた時には、もう二回冬を越していた。


 前回の冬は暖冬だった分、迫り来る「地獄」には引け腰になってしまう。

 受刑者の大半が発症する冬の霜焼けも、中西は特に酷く個人的には夏よりも冬の方が怖かった。

 朝晩が肌寒い程度の、今の時季ですら手足の先が膨らんできている。

 これから寒暖差が広くなればなる程、手足の皮膚が捲れ膨れ上がる。

 痛いよりも痒いだけなのだが、見た目がもう痛い。

 血や荒事が嫌いな中西には苦痛だった。


「おネエ、もう指先にきてるやん! まだ秋やで。年々弱くなってるんちゃうか」


 中西の事をおネエと称するのは、この内掃工場の二番席である本山である。


 年齢は中西の方が上だが、性格や番席の関係で10も離れている本山におネエと呼ばれても、中西は気を悪くする所か好かれていると勘違いし、もう何年もこんな関係が続いている。


 ナイフで切れ目を付けただけの様な細い目付きの上、四角いレンズの大きめの眼鏡を掛けている中西の容姿に、おネエ的な要素は皆無だが、何故か歩く時に尻を左右に振る事から付いたこの渾名は、自他共に認める渾名だった。 


「今年はちょっとやばいかもしれません。嫌だなぁ」


 中西が心底嫌そうな顔して、皆が気持ち悪がっている所に二人組の職員が、遠くから歩いてくるのが見えた。


 見慣れない光景に、背筋を立てる中西だったが杞憂に終わった。


「小西おるかー! 処遇や。こっちこい」


 何一つ良いイメージの無い「処遇」の単語に一同は硬直したが、直ぐに仲間である小西にポツポツと根拠の無い「心配ない、大丈夫」と声が掛かる。


 小西は麻痺した様な作り笑いで、礼を一言残し職員の元へ向かったが、その後は皆予想を立てつつ、帰ってきた時への仲間への対応を模索した。


 刑務所にて「処遇」と呼ばれ呼び出された時には、文字通りその受刑者に対して「処遇」が行われる。


 この山田刑務所で「処遇」と名の付くものに、良いイメージを持っている受刑者はいないだろう。

 刑務所内で自身の状況を「良くする処遇」等、ある筈ないのだから。


 以前の星が不正口談で調べ室へ連行され、厳重注意を受けたのも「処遇」の一種である。


 更に「処遇」のイメージを悪くするのに、一役買っている事があった。


「訃報かもしれん。顔見てやばそうだったら気使ってやろう」



 それは訃報である。


 深刻な顔で言った吉田の一言は、やけに周りの空気を重くした。



 帰ってきた小西の顔には血が通っていない様に青く見えた。

 作業中何度も吐きそうになる小西を、責める人間は内掃班にはいない。

 その日小西に行われた「処遇」の内容を、本人の口から聞く者は誰一人居なかった。



 次の日、喪に服すと言う事で作業を免業された小西以外の受刑者は予想が当たってしまった事に落胆したが、それでも作業はいつも通り進んでいく。


 中西にとってもまた、「いつもの」時間がやってくる。


 毎日の定例である入浴場の清掃が終わる頃、中西は職員である横谷と二人で湯を張り終わった浴槽の前に立っていた。

 浴槽の湯を張り、溢れない様に湯元を切る人間が作業上必要だったが、その人間を名指しで指名したのは横谷であった。

 中西を名指しした横谷に皆は不思議がったが、当の本人は待機とはサボる事の丁寧語だと思っているので、単純に喜んだ。



 夏冬以外の地獄が、受刑生活に追加されるとも知らずに。




「あかんなあ。最近、対人の勘が鈍っとるわ」


 言葉の端に粘りがある口調でそう言う横谷は、無言で風呂場内の無抵抗な中西を殴っていた。

 格闘技経験を持つのは事実だと言わんばかりに、痣が残らない一線を引いた殴打に中西は、一言も発言せずに淀んだ瞳で床のタイルを見つめていた。



「やり返したかったらやってええんやぞ。ここは二人だけや。ほんでも犯罪者と公務員じゃ発言力に差が有りすぎるか?」


 赤子をあやす様な甘い顔で横谷は、手と足で中西を殴打し続けた。


 良く抜けていると言われる中西にも、察しが付いていた。

 冗談で済む事ではないし、これは抵抗の許されない暴力だった。

 名指しで指名を受けてから、どれだけ殴られる日が過ぎただろうか。

 横谷の幸せそうな顔を見ると、突然飽きてこの行為を辞める望みも叶いそうにない。


 何故自分が、とは思わない。


 中西が犯した罪はこんなじゃれ合いの、比ではないのだから。






 中西は物心付いた時から、可愛い物が好きだった。

 趣向は年を重ねるに連れて対象は人間に、

そして女性に

そして幼子へ歪んでいった。


 そこに性的興奮を、覚えた事はない。


 ただ無垢な瞳は、どんな宝石よりも綺麗に見えたし、本心を何の抵抗も無く吐き出す純粋な言葉には、何だって叶えてあげたくなる輝きの様な物があった。


 見た目も悪く要領も悪い中西には、趣向の先の存在はひどく眩しく見えた。


 週末には1人で遊園地に行き、子供を眺めるのが好きだった。

 遊園地の職員が不思議に思い、やがて畏怖の対象となり得る程の来場数をこなしても、中西が飽きを感じる事はない。


 事件当日、いつも通り中西は遊園地でいつもより幸せな時間を過ごしていた。

 その日は雲ひとつ無い晴天で、遊園地は大盛況だったのだ。

 そんな時、迷子の子が中西に話掛けた。

 その無垢な瞳で射ぬかれた中西は、気付くと自身の車を走らせていた。

後部座席には小学校に上がるかどうかの娘が、菓子を手に笑顔で乗っていた。


 その後の事を中西はあまり覚えていないが、日本の警察を騙すのは不可能だと悟った程、対応が迅速だったのは覚えている。


 定期的な遊園地での目撃証言は、職員経由から多数寄せられ、品定めの計画的実行と見なさた中西の罪状は国選の弁護士の顔にも、面倒な仕事が回ってきたと顔に出ていた。


 娘の記憶には、トラウマと言う形で中西は存在し続けるだろう。

 家族は遊園地と名の付く施設に、二度と近寄らないかもしれない。


 自身がした事は目に見えない暴力だと、中西は自覚していた。


だからこそ、中西はこの行為を耐える道を選んだ。



一方横谷は努力する事なく、人より優位な立場に立つのが好きで、何よりも表に出れば只では済まない事案を、隠し通せている自分に言い得ぬ悦を感じていた。

 公務員の勲章と見下せる存在を同時に得られる今の職業は天職とすら感じていたし、絶妙の力加減で繰り出す殴打に、自身のサドスティックな一面に高揚を覚えていた。


 泥沼に足を浸からすのは簡単だ。

 しかし一度浸からせれば、抜いた足には必ず泥が付いてくる。

 何より浸からせ続けた方が、重力以外のきな臭い重さで満たされた、この剣呑な現代では泥の引き摺る様な重さは、やけに心地良い。


この一方的な虐待は中西が吐露する事もなく、日々繰り返されていた。


翌日、あまり喋る方ではない小西が更に口数を減らし工場に戻ってきても、この閉鎖的な世界に変化は起きなかった。


変わっていくのは、自身に対して不利な事だけ。


この時期の内掃工場には揃うべき人材がいて、起きるべくして起きる事件が多すぎたのかもしれない。





ある日


横谷の口から身元引き受けの拒否の節を、本山に伝えているのをその場にいた、内掃班全員が耳にした。



受刑者にとって身元引き受け人とは、犯罪を犯した自分を待ってくれている人がいる証明である。

また、受刑者の再出発に重要な要素でもあり、「仮釈放」を受ける査定の際に、受刑者に対して社会復帰を少しでも早くさせるかどうかを、判断する前提条件といっても過言ではない。


身元引き受け人と認められるのは、肉親や血を分けた存在であったり、妻かそれに相応とされる内妻が大半を締める。


 それでは犯罪者を犯した自分を待ってくれている、寛容な人物がいない人はどうなるのか。

 そういった人物の身柄を保護し、生活環境が整うまで帰住地を保証してくれるのが、通称「保護会」である。

 この保護会を身元引き受け人とするか、肉親を身元引き受け人にするかで、仮釈放の割合は著しく変化する。

 当然、肉親か相応の人物が帰りを待っていてくれている方が仮釈放は与えられるのは、受刑者の間では周知の事実であった。


 通例では仮釈放に「保護会」同様の悪影響を与えるとされているのは、自身の残刑期の割合が40%を切った頃に、身元引き受け人が引き受けを拒否する事である。

 突然の死亡が予測される高齢な引き受け人や不確かな関係性の人物、そして引き受け人である人物の住居が短いスパンで変わる等は、引き受け拒否と同義の扱いを受ける。


 本山の身元引き受け人は肉親の母親であり、殺人での長期刑を受刑する上で、心の支えである事は確かだった。

 本山の残刑期は残り二年。

 このタイミングでの拒否は、親に捨てられたと同義と本山が捉えても大きな違いはないだろう。

 外との接触が乏しい受刑者は、心のどこかでその類いの不安は常に抱いている。

 外の世界でどんな事が起ころうとも、この閉鎖的な世界では手も足も出すことはできないのだから。 




 工場では気丈に振る舞う本山だったが、無理をしているのは目に見えて理解できた。


 事件当初に親子の縁を切られ、最初から保護会を頼っていた中西とは訳が違う。


 小西の件に続き、この本山の一件。

 更には最近になって星の様子がおかしいのも一役を買い、工場内の不穏な空気を隠す事は誰にもできなかった。







 時間が解決する事も無く、時だけは過ぎ寒空の運動の時間での出来事だった。


「刑務所から脱走すると、刑期がどれくらいになるか知ってる?」


 

 まるで昨日の晩飯のメニューを、覚えているかを聞くような軽い口調で星は言った。


「脱走自体は約一年らしいけど、他に色々なもん付けられるだろうな」


 この場でそつなく答えたのは、吉田であった。


「脱走よりも援助した人間の方が、罪が重くなる可能性があるのは良くできてる。まともな人間なら、絶対実行できないな」


 続けて言った吉田の言葉には、この話題を終わらせる響きがあった。


「しようと思う。脱走」


 一つ間を置いた星の言葉は、まるで自分を納得させる決意の為に、この場で宣言した様に聞こえた。


「何の為に?」


 唐突過ぎて笑い話なのかと勘違いした、中西の乾いた笑いは吉田の問いに消えた。


「嫁が、死ぬかもしれない」


 用意していた様な、その一言で悟らせる星らしい言葉だった。


「奥さんは喜ぶか?星さんらしくない。脱走は周りに掛ける影響がでかすぎる。親族にも、ツレにも、俺達にも」


 優しく解く様に言う吉田の言葉は、周りの同意を得た様に思えた。


「申し訳ない。みんなには脱走後、色々調査が入ると思う。身勝手で汚れた考えだと思う。その上で、俺は曲げない」


 この言葉を聞いた吉田は、数瞬考える素振りを見せた後に他言はしないと一言残し、輪から外れた。


「謝罪の目的でこの話をしたんですか? 俺に、何かできる事はありますか?」


 やけに通る声の主は、無表情の小西だった。


「続きがある。仮に共に脱走したい人がいるのならば、教えてほしい。計画を聞いてから、退いても良い」


 淡々と答える星には、以前の星が戻っていると思わせる程に皆の目を奪う。


「聞くだけ、聞くわ。」


 そう答えた本山に、以前の明るさはもう無かった。




 そして、この空気に毒されたかの様に


 星

 本山

 中西

 谷内

 小西


 以上5名が残った。



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